第11話

     10

 目覚めて、ベッドサイドの時計を眺めると、丁度五時になるところだった。二重のカーテンが仄赤く染まっていた。

 昨夜は一人で深酒してしまった。二時過ぎまでは記憶がある。寂しいのでまたステレオを復活させて、スランソワーズ・アルディをかけていたのが止まったのに気付いて、ついでに時計を見たからだ。

 アルディも譲治の趣味だ。しをりの世代では古すぎて、教わるまで名前すら知らなかったが、しをりもこの女性歌手が好きになった。

 朝五時か……。

 三時間も寝ていないことになる。それにしては頭がすっきりしていた。熟睡したのだろう。お腹まですいていた。

 のんびり起き上がって裸になり、憶えたばかりのアルディの《ソレイユ》を鼻唄で歌いながら、シャワーを浴びた。譲治がきっかけで憶えた曲であることをちょっと癪に感じながら。

 バスタオルを体に巻きつけ、朝の光を入れようとカーテンに目を遣ると、さっきより暗くなっていた。

 雨でも来るのだろうか?

 不審に思いながらカーテンを開き、空を見上げると、昏いながらも晴れていた。

 が、ぐずぐずする内に、窓外はどんどん暗くなっていった。

 ここに到って、しをりもようやく気が付いた。朝ではなく、夕方だったのだ。飲まず食わずで半日以上寝たことになる。

 そうとわかって慌てた。

 フランス語の授業がある晩なのだ。あまり時間はなかった。

 慌てて適当に服を着て、ざっと化粧をした。髪なんか洗わないでよかったと思った。

 ハンドバッグをひっ掴んで家を飛び出ると、近くのコンビニに駆け込み、パンとジュースを買った。食べる時間があるかは怪しい。イートインはあるが、食べたことで遅刻するのは嫌だ。遅刻は信条に反する。学生の時も一度も遅刻したことはない。


 タクシーを使ってギリギリ間に合う時間だった。行儀悪いと思いつつ、食事はタクシーの中で済ませた。

 半日以上寝て、頭はクリアー過ぎる程クリアーだったが、授業に身が入らなかった。どうしても女性と一緒の譲治の姿が脳裏に浮かんでしまう。三日経ったのに映像は寧ろ鮮明になり、細部がもっと見え始めて、最悪の影響をしをりに与え、気持ちが沈んだ。頭がクリアー過ぎるのも善し悪しだ。

 教師は初老のフランス人で、声が大きい。その声でよくしをりを当てた。理由はなるべく考えないようにしているが、しをりが目立つから――率直に言えば美人だから――に相違なかった。が、ネイティブと会話を交わすのは勉強になる。だから普段はウェルカムなのだが、この晩ばかりは煩わしかった。


 やっと解放され、皆と一緒にぞろぞろとロビーに出てくると、長椅子に腰掛けている英樹と目があった。たしか今晩は彼の授業はなかったはずだ。いつものようにスーツではなかった。英樹の私服姿を見るのは初めてだ。

「お疲れ」と英樹は言った。陽に焼けた精悍な顔から白い歯が零れた。

「どうしたんですか?」

 驚いて問うた。

「君を待ってたに決まってんだろ?」

「え~」

「軽く付き合ってよ」

「いいけど……」

 元より酒は好物だ。沈んでいた気持ちが急に浮揚した。譲治に仕返ししてやりたい気持ちになった。

「ちょっとむしゃくしゃしてたんです。八つ当たりするかもしれませんよ?」

「いいよ。俺でよければ相手になるぜ」

 しをりはこっくりと頷いていた。


 英樹がタクシーで連れていった所は青山だった。歓楽街でなかったことにしをりは安堵した。酒のあとに英樹に強引に迫られたら、今の彼女ならあっさり許してしまいそうな不安があった。青山なら安心できそうだ。英樹は少なくとも今晩はまだ紳士でいるつもりらしい。

 男が紳士の衣をかなぐり捨てて一線を越えることは、ある段階まで進んだ男女なら、女としても心中望むところなのだが、しをりは英樹に関しては、まだその段階だとは思っていなかった。譲治が裏切ったからといって、自分まで同じことをしてはいけないと、しをりは却って自分を戒めた。


「今日はどうしてたんですか?」

 ボーダーのスポーツシャツにベージュのスラックスを合わせた英樹を眺めて訊いた。

「ゴルフ」

「えー。車は?」

「今日は乗ってない。人に、帰り道のついでに学校まで送ってもらった」

「同僚の人?  一緒に誘ったらよかったのに」

「まじかよぉ! わざわざ邪魔者を混ぜてどうするの? 君と二人だけの時間は貴重だよ?」

 そう言われれば、悪い気はしない。

「ありがと! ゴルフが趣味なのね?」

「まだ始めて半年だよ。それでも110で回れるようになった。すごいだろ?」

「ゴルフは全然わからないの」

「じゃ、今度教えてあげる」

「うん」

「テニスも教えたいな。テニス歴の方が長いんだ。そうだ、最近麻雀も覚えた。釣も始めようと思ってる」

「へえ。それじゃ働いてる暇ないじゃないの?」

「要は時間の使い方さ。そこを覚えると、全てがうまく回るようになる。できる奴はみんなそんな感じだ」

「じゃ、あたしなんか駄目だわ」

「キャリアウーマンは好きじゃない」

「あっ。それって偏見じゃない?」

「否定してるわけじゃないよ。でも好き嫌いの感情は仕方ないだろ?」

「どんな女性がいいの?」

「女らしいひと」

「でしゃばらず、男性をたてて、生意気言わない……」

「そこまで言ってないだろ?  俺の生き方を理解して、一緒に苦労してくれる女性さ」

 訴えるような英樹の目が、しをりの視線を捕獲した。

 しをりは耳朶が熱くなるのを感じた。

 最初出会った時から魅かれていたが、今の心理状態なら本当に好きになってしまいそうだった。

 だが、その一直線に英樹へ突っ走っていきそうな自分の感情に自分で怖くなって、しをりは目を伏せた。気持ちの整理はついていなかった。

 それを、英樹は女性らしい羞恥ととったようだ。目を上げると、さも愛しそうな目で彼女を眺めていた。


 この晩も英樹は手際よく料理を注文し、先回りしてしをりの飲物を追加し、またよく喋った。会話には若々しさがあり、若者らしい驕りと覇気があった。しをりは男のセクシーさを感じた。気がつくと、つられて自分もよく喋っていた。

 その晩、しをりは英樹といることを心から楽しんだ。その気分は、英樹に送ってもらい、タクシーを降りてもまだ続いていた。

 譲治のことで深刻になることが馬鹿げたことに思われてきた。譲治が地上でただ一人の男ではないのだ。

 ついさっき、半日以上眠ったのに、しをりはその晩熟睡することができた。浮かれた気分は夢の中にまで持ち込まれた。




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