第12話
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翌日目を覚ますと、七時だった。
今度は慎重に電波時計を確認した。数字の横にAMと表示されていたので安心した。
頭はすっきりしていた。
シャワーを浴び、冷蔵庫から卵とハムを取りだし、簡単にハムエッグをつくり、トーストを焼いて、白ワインを飲みながら食べた。
CDをかけようと思い、アルディを手にしたが、今の気分ではなかった。モーツァルトは今はリズミカル過ぎる。ショパンは悪くないが、今の気持ちには流麗すぎる。結局ラベルの《亡き王女へのパヴァーヌ》をかけた。
調子はどう? と、しをりは自身に問いかけ、うん、まあまあよ、と自分で答えた。
心の傷はまだ疼いていたが、出血は止まり、炎症は退いてきた。周到に傷に触れぬようにして、英樹のことだけを考えようとした。
英樹は一流商社に勤める若手エリートだ。性格は物事に前向きで、行動力があり、いつも覇気に溢れている。スポーツマンで日に焼けていて、趣味も広そうだ。それに苦学して今の会社に入ったので、世の中の機微も心得ていると思われる。神の寵愛を特別に受けたのか、顔もスタイルもいい。
そして何よりも、はっきり自分を愛してくれている。
つまり、申し分ないという以上に、この上望むべくもない理想像ではないか? 年齢的にも自分とは釣り合う。
英樹のことを考えると、傷が癒えてくるような気がした。
それにひきかえ――
自分の中で英樹をしっかり位置付けられたので、ようやくしをりは譲治を思考の俎上に乗せることができた。
それまでは、譲治のことを考えると、どうしても〝裏切り〟のシーンを回想してしまい、そこから派生して色々考え込み、更に気分が落ち込むという、負のスパイラルに捕われるため、考えることが怖かったのだ。
無意識のうちに、しをりは譲治を英樹の引き立て役にしようとしていた。
譲治は少し気難しそうな顔をした、五十半ばの男だ。半白の薄くなった頭髪を短く刈り込み、 年のわりに背が高い。着痩せするタイプで、案外がっしりしているが、腹は弛みだしている。笑んだり、意に染まぬ時、額と目尻に深い皺が刻まれる。色白ではないが、スポーツとは縁遠い肌の色をしている。運動はからきし駄目で、車すら持っていない。行動的ではなく、一つ所に尻を据えることを好み、いつも面白くなさそうに話す。無口ではないが、話題の傾向は偏っている。好きなように生きてきた男だと思う。複雑な性格だが、年のわりに幼稚なところがある。自分を特別に思ってくれているのは分かるが、愛してくれているとまでは確信が持てない……。
譲治との関係に未来はあるだろうか?
そっちに考えが陥らぬよう、用心していたのに、またこれだ、と気分が沈んだ。
譲治は自分の母親より更に数才年上だ。彼と結婚するといったら、母親は仰天するだろう。五十を越えてもまだ美しさの残る顔の額に青筋をたてて、猛反対するに決まっている。それが前以て見えるから、まだ母親に譲治のことは話していなかった。
どことも知らぬ晩夏の黄昏前の海辺に一人取り残されたような気分になった。
とにかく、それがあたしの〝昨日までの男〟だった、と思い、
〝昨日まで〟? と、自分で自分の言葉に驚いた。
今、自分は確かに〝昨日まで〟と思った。別れる覚悟がもう無意識にできていたのか?
なら、〝明日から〟の相手とは誰か?
乙女心を満たす王子様の定員はただの一名 。当然〝彼〟よ――と、英樹を想った。
――自分はまだ若い。将来有望で、自分を大事にしてくれる相手と一緒に手を取り合って、希望に満ちた未来を拓くのだ。愛しあい、信頼しあって、一緒の年月を紡ぎ、共に老いていく。そしてどちらかが先に亡くなる時、いい夫婦だったねって言いあうのだ……。
感傷的になって、涙が出てきた。感動で心が一杯になった。それでずっと気持ちが楽になった。
もっとどんどん英樹に近付こう――そう思った。
しをりは冷蔵庫を開けてヨーグルトを取り出し、一匙口に放り込んだ。
しばらくぼんやりと乳酸菌の味覚に浸ったが、何故だか段々息苦しくなってきた。
ふいにスマホにしきりに目をやっている自分に気付いた。
――嫌だ。あたし、誰から連絡を待ってるの?
その時脳裡に浮かんだのは、英樹ではなく譲治の方だった。
ワイングラスをいっきにあけた。渋味が口一杯に広がった。
譲治を簡単に見限れないのは、二人で過した時間の重みのせいだと分かっている。心も体も共有した時間の堆積は強すぎる。
譲治はこのところ何も言ってこない 。二三日連絡を寄越さないことは、これまでもあったことだが……。
――あの時、彼は後で連絡すると言った。まさか広場のカフェで禊は済んだなんて、いくら独善的な譲治でも思っていないだろう。なのに、なぜ連絡を寄越さないの? あなたは不実だ。
上手な言い訳が浮かばないから? もしや――まさかしめたと思って、自分と切れた積りになっていやしない?
独り相撲だ……。
疲れてきて、しをりは目を瞑った。
すると、こう考えた。
――さっき〝明日から〟なんて思ったわね。なら〝今日〟は保留してもいいわね。
だが、〝明日〟は日が改まれば、当然〝今日〟になる――そう思い、すると頭が痺れてきた。
それ以上考えるのを止めることにした。
――とにかく、あたしから譲治に連絡することはない。悪いのは譲治の方なのだから、むこうから頭を下げに来るべきだ。もし何も連絡を寄越さなければ、あたしはあたしで、あたしの〝明日〟を創ってしまうわよ? それでもいいの?
ワインのボトルが空になるのは、いつもより早かった。
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