第13話
12
「窓開けていい?」
しをりが訊くと、英樹はうんと答えて冷房を切った。
ウィンドーを下ろすと、風邪の熱のような重だるい風がすぐに流れ込んできたが、それでも不快に感じなかった。
このところ日没が早まっている。朝晩は凌ぎやすくなっていた。それに、ここは少し標高のある山路だ。
秋――
さっき山の上のレストランを出たとき既にそう感じた。入口の階段が涼やかな光に濡れていた。 見上げると月が綺麗だった。虫の声が地に満ちていた。
ヘッドライトが及ぶ範囲に自然以外のものは何も映っていない。
英樹は口数が段々少なくなってきた。レストランでは会社の話を夢中になってしていたのに。
資源開発事業本部長の柏田という名が頻りに出ていた。その肩書の前には、常務取締役というのもつくらしい。英樹はその柏田の鞄持ちみたいなことを最近させられているという。口やかましい人で、せっかちだから大変だとぼやきながらも、得意そうだった。
そんな英樹を頼もしく思うし、若さの勢いに魅力も感じた。しをり自身が若いだけに、すぐ共鳴できるものがある。心のままにどこまでも二人で舞い昇っていけそうにさえ思った。
「少し話をしようよ」
気付くと、英樹は車を空地に乗り入れていた。
来た――
しをりは身構えた。
英樹の話の内容はわかっている。
だが、まだ心は決まっていない。
それを考えなしに、いっきに話を進めたい男と一緒に夜の山道をドライブするなんて……。
しをりは自分のうかつさを呪いたくなった。
「外に出ましょうよ。月が綺麗よ?」
英樹は首を振った。
「薮蚊が凄いよ。窓も閉めよう。どっちがデング熱になっても、会えなくなるから」
英樹はウィンドーを上げた。
車内が密室になった。英樹はライトも消してしまった。
すると、草木の姿がぼんやり浮き出てきた。
「話というのはさ、そろそろ僕らのことを真剣に話し合う頃だと思うんだ」
英樹が冷房のスィッチを調整しながらそう言った。
暗い車内で、英樹の黒い顔が自分を真正面からとらえたのがわかった。
英樹の真剣な、澱みのない声が続いた。
「僕の気持ちは君もわかってくれているだろうけど、ここではっきり言っておきたい」
そこで英樹は一旦言葉を切った。そして、
「君が好きだ。一生僕のそばを離れないでほしい」と言いきった。
いきなり直球を投げ込まれた。
しをりは困惑した。困惑しながらも感激していた。
同じ言葉なのに、追い詰められて苦し紛れに口にした譲治の言葉とは何と違って聴こえることか!
車内が静寂に沈んだ。しをりが応える番だった。
「あたし――」
考えが纏まらないまま、とにかく口を開いていた。
「有難う。ほんとに嬉しいわ。あなたのその言葉、あたしきっと待っていた。でも、あたしのためにもう少し時間を頂戴?」
英樹が身を硬くしたのが、気配で分かった。
「なぜ?」
しをりはただ小さく首を振った。追い詰められていた。暗がりの中で英樹にそれが見えたかどうかは疑わしい。
「僕じゃ駄目なの?」
黒々とした英樹の頭が言葉につれて揺れた。男の頭ってなんて大きいのだろうと、しをりは無関係にもそう思った。
「違うの。あなたのことは好きよ 。でも、まだあなたのことよく知らないし……」
「そうかな? 付き合ってる男のせいだろ?」
いきなりそう指摘されて、心臓が高鳴った。
「どうして?」
「わかるよ、雰囲気で。まして好きな女性のことだからよけい に。話してくれないか? その相手のこと」
言葉がすぐに出ず、しをりは闇中でまたかぶりを振っていた。舌が鉛に変質したのかと思う程重い。
「ごめん。まだあたし、彼のこと話せない 。少し待って? 気持ちの整理がついたらきっと話すから」
ついで口にしかけた、「どちらに決まっても」という、自分でも意外な言葉をしをりは飲み込んだ。
「僕は君にとって大事な男なんだと自惚れてもいいかい?」
英樹が辛抱強く言った。誠実な言葉だった。
「あなたはかけがえのない人よ。あたしには勿体ないぐらい。あたしが駄目なだけ。ごめんね」
「待つよ。その間もこれまで通り付き合ってくれるんだろ?」
「うん」
英樹が身じろぎした。
気づくと、顔が目の前にあった。
すぐに唇が重ねられていた。
しをりは拒まなかった。
男の上体が制御された圧力で被さってきた。しをりはその重みを快く感じた。
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