第14話

     13

 潮の香がする。

 橋から見下ろすと、随分下の方に河口が見えた。

 魚が群れていた。海水と淡水の混じる汽水を好む魚もいる。

 空が大分高くなった。はっきり夏に秋が混じり始めていた。季節の汽水域なのだ。

 肩を並べることなく、譲治、しをりの順に橋を渡った。

 しをりはベージュのサマーニットに、白いパンツといったシンプルな格好に、相変わらずつば広の帽子を被っている。譲治は穿き古したショートパンツの上に洗い晒したギンガムチェックのシャツを出していた。

 バス停に出た。

 真向かいに反対方向へのバス停があった。すぐ後ろに山が迫っていて、繁茂した夏草に半ば埋没して見える。

 半分草に侵食された狭い歩道に白い仔犬が現れた。鼻を地面すれすれに落とし、一心不乱に匂いを嗅ぎながらやって来る。

 赤い首輪をしているが、綱には繋がれていない。繋がれていない犬は今時珍しい。

 そう思って眺めていると、続いて飼い主が現れた。アサリみたいな柄の丈の短いワンピースを着た、ひょろっとした少女だ。胸はまだ充分膨らんでいない。小学校の高学年だろうか。化粧気のない顔には世の中の垢に染まっていない素直な表情があった。手に空のリードを持っている。

  いつもの犬の散歩道らしく、彼女はろくに周囲に関心を向けず、バス停を通り過ぎて、行ってしまった。

 蜩が鳴き出した。

 譲治は並んでベンチに腰掛けているしをりの手を黙ってとった。柔らかな感触が掌に伝わってきた。

 しをりは握り返してはこなかった。予想した通りだが、期待した通りではない。


 しをりは消えた少女の残像を心に追っていた。

 男と女のことなど何も知らず、何も考えなかったあの頃が懐しい。

 無邪気に父親に突きや蹴りをいれたりしていたな……。お転婆だった。


 昨夜、美術展鑑賞の誘いの電話をしてきた譲治は普段と変わらない様子だった。〝あのこと〟には一言も触れなかった。饒舌だったり、反対にぶっきらぼうだったりすれば、それはそれなりに理解できた。だがどちらでもなく、張り合いがなくなる程普通だった。

 しをりも努めて普段を装った。むすっとすれば子供が拗ねているみたいだし、逆に嫌みの一つも言えば、歯止めが利かなくなって、まくしたてそうだった。そんな自分はみじめだ。

 とにかく会って譲治の言い分を聞こう。その上で今後のことは考えよう。譲治もわざわざ会いたいと言ってきたからには、何らかの解決策を考えているはずだ

 ――そう思ってやってきたのだ。


 ところが予想に反して、譲治はそこに全く触れようとしなかった。それでも元々口数が多くはない譲治の口が更に重いのは、彼なりにこだわっているのだろう。

 まさか、このままうやむやにしてしまう積りじゃないでしょうね?

 腹が立って、しをりの態度も更に硬くなっていった。殆ど憎んでしまった程だ。


 譲治は困惑していた。

 何を口にすべきか、さっぱりわからなかった。

 会って、しをりには普段通りに接しようと思っていた。他にできることは何もなさそうだった。

 だが、しをりは強く拘っているようだった。自分からの謝罪あるいは釈明を求めているのだろう。

 だが、譲治にはそれができない。

 譲治の父親の世代までの男、特に地方出の男達は概して、善きに付け悪しきに付け、一切言い訳をしないものだった。父親との関係は微妙な距離感が最後まで残ったのだが、それでも一定の影響は受けたわけだ。

 大体、自分はしをりを特別に思っているのだ。それは事実なのだから、それ以上何が必要なのだろうと思う。

 確かに由香里とは肉体関係がある。だが機会があれば別の女とだってそうなるだろう。 しかしそこに〝愛〟という感情はないのだ。

 人は勘違いしている。

 特別な感情を寄せ合う間柄以外の男女間のことは、譬えるなら趣味嗜好と同じなのだ。

 囲碁や麻雀、ゴルフ、テニス、映画鑑賞 、絵画や写真や音楽の愛好など、男と女が一緒になってやる趣味やスポーツの数は十指に余るだろう。相手はその時々で変わるものだ。セックスだって同じなのだ――と思ってしまうのだ。

 譲治とて、これが男の論理で、女からみれば牽強付会だろうと考える想像力はある。

 だが、これは条理の問題ではないと思うのだ。

 二人は縺れた感情の糸を解く術もなく、互いに黙りこくって絵画展を見て巡り、語り合わぬまま帰途についていた。

 感情の齟齬がこれ程までに心の距離を拡げるものなのかと、寂しい気持ちでしをりは譲治の半歩後を歩いていた。目の前の肩が落ちて見えるのは、譲治も屈託を抱えているのだろう。

 この疎外感の拡張する速さは宇宙の遠ざかりにも匹敵しそうだ。百二十億光年も彼方に行った銀河はもはや光学的には無と同じだ――

 そう思うと、しをりは悲しくなり、涙が滲んできて、景色が揺らいだ。


 帰りの電車は混んでいるという程ではなかった。譲治たちと入れ違いに降車した二人組があって、世界一寡黙なカップルは並んだ席にギクシャクと腰を下ろした。ちらほらと空いた座席があり 、そこに晩夏の西日が這っていた。

 車体を震わせて電車が動き始めた。すぐリズミカルな音に移行した。

 車内は静かだった。スマホをいじる者 、ゲームをする者、眠る者、読書する者、何かの書類を読む者などの中 、何もしていない者は彼ら二人だけだった。

 しをりは沈黙に堪えられなくなってきた。

 譲治を見ると、半白の鬢が後からの西日を浴びて、赤茶けていた。永年陽や風雨に晒されたうなじの肌は草臥れて、毛穴がみすぼらしい。頑なそうに引き結ばれた唇 、寄せた眉根の下の他人行儀な目――

「あなた 、あたしに何か言うことないの⁉」

 気がつくとなじっていた。

 車内の目が驚いたように一斉にしをりに注がれ、その視線を辿って譲治に移り、それから二人の間を行き来した。

 譲治は巌に彫った彫像のように不動だった。ただ目だけがしをりを見た 。自動車教習所の若い教官に叱られた中年男みたいな目だった。

 かっとなって、しをりは席をたった。振り返ることなく、隣の車両に移った。

 譲治は追ってこなかった。


 終点の東京駅は夕方のラッシュが始まっていた。

 人波に呑まれながら階段を目指すしをりは腕を掴まれた。

 足が止まる。

 譲治が見おろしていた。さっきより強い眸だった。

 怒っている?

 しをりは少し身構えた。しかしそこに見たのは哀願の色だった。

 ひき止められたことに腹がたったが、安堵もしていた。

 階段近くに立ち止まっている二人にぶつかりそうになって、人が迷惑げに避けていく 。うっかり避けきれずにぶつかる人もいた。あからさまに文句を言ったり、舌打ちする者もいた。

「譲治――」

 譲治は目を見開いた。しをりから名前で呼ばれたのは初めてだ。

「あたしのこと、好き?」

「好きだ! お前は?」

「……わかんなくなっちゃった」

 しをりは泣き顔になった。

 譲治はしをりを抱き寄せた。

 しをりは譲治の肩口から駅舎の天井を見上げ、腕をだらりと垂れて されるがままになっていた。

 その時、反対側のホームに着いた列車からどっと人が吐き出された。

 二人は圧された。よろけたところに、大きな男が二人の間に割って入った。男はすぐ反対側へ抜けていったが 、しをりは周囲の雑踏に拐われていった。

 群衆の隙から彼を見返るしをりの、頼りなげな、赤く染まった眸が譲治の網膜に強く刻印された。

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