第15話

     14

 シンクの前に立ち、水道を流しっぱなしにして、立て続けにグラスで三杯飲んだ。それで何とか落ち着いた。本当は頭からかぶりたいくらいだった。

 昨夜は飲みすぎてしまった。一人で飲む常の量をはるかに越してしまった。

 自分で茶を淹れ 、ソファーに沈みこんだ。

 今日は午前中は一人だ。作家は午を過ぎないと来ない。居住する市の文化教室で油絵を教えているのだ。

 作家は四十才。ある大手の在野系団体に所属していて、会友になっている。専ら群像をモチーフにし、デッサンは確かで、色にも独特の感覚があるが、ちょっと好みは分かれるところだろう。

 脇の柱に掛けた作品を眺めた。

 小品のせいか、人物は一人だ。中央でおどけたような仕種でやや左を向く人物は大腿までが画面に納まっている。グレーののっぺりした顔には紅い影が付いている。服はオフホワイトの地で、明るい緑のダイヤ柄の連なりで埋められている。背景は空と地の境が判然とせず、赤みを帯びた黄色と、白が無秩序に混じったコバルトブルーの濃淡がせめぎ合っている。

 題は「別れの予感」だ。

 縁起でもない――

 譲治は目を逸らして、入口のガラスドア越し、外を見遣った。

 昨日とは一転、朝から曇っている。新聞の天気図では南岸に前線が近付いていた。午頃には雨になるかもしれない。気温は三十度を下回っているが、ひどく蒸し暑い。

 そこに男の姿が映った。眼鏡をかけた小柄な中年男だ。目が合った 。ちらりと譲治を見たが、すぐに横を向いて行ってしまった。

 美術が好きでも、扉を開けて画廊に入っていくのを躊躇う人は結構いる。そうかと思うと、都内の百貨店や銀座の画廊をぐるぐる回ることを日課にしている愛好家もいる。中には話好きで、各画廊の担当者の名刺を沢山持っていて、ひらけかす者もいる。今のは前者だったのだろう。


 その内、本当の客が入ってきた。この作家の絵を既に二点持っている実績顧客だ。作家がいないことにがっかりしたが、芳名帳に署名し、譲治相手に作品談義を始めた。

 その最中にまた来廊者があった。さっき通りすぎていった男だった。

 譲治は 、いらっしゃいませと軽く会釈して、あとは目の前の顧客と話しながら、目の端でその男の様子を窺った。

 小柄な男。緑と茶の中間のような渋い色に細かい縦縞が入った地味なスーツ姿で、 頭は七三に分け、眼鏡をかけている 。焦茶のアタッシュケースを持っていた。目立たない、どこにでもいるような男だ。

 男は最初に画廊内を一瞥すると、あとは譲治達に背を向けて作品を丹念に見始めた。だが譲治はすぐに違和感を持った。見方にメリハリがなかった。見ているのはポーズだけと感じられた。

 暗い色調の作品の前に男が立った時、アクリル(ガラス)を鏡面代わりに、譲治は男の顔を見ることができた。

 アクリルの中の男も譲治を見ていた。

 譲治は立ち位置を変え、男に背を向けた。

 顧客は結局「別れの予感」が気に入り、購入の予約をした 。作家がいる時に出直すと言う顧客を見送った時には、小柄な男はもういなくなっていた。


 「別れの予感」の約定を台帳に記入してしまうと、また暇になった。

 譲治はソファーにまた腰を下ろした。

 しっかりした組織の会社なら、暇な時販売員が来客用のソファーに腰かけるなどということはない。一人でやっている譲治の場合は気儘だ。こんな風にふんぞり返っているから、客が入りにくいのかなとは思うが、本当に見たければ、どうであれ客は入ってくるはずだとも思う。


 昨日の東京駅を回想した。

 しをりは豹変してしまった。あまり変わったので、未だに信じられないくらいだ。

 無邪気で従順な小鹿はいつの間にか角を蓄えてしまった。

 しをりはあの時自分を、譲治 、と初めて名で呼んだ。前のような、パパ、は、さすがにあの場に相応しくなかったが、もっと単純に、あなた、と言う手もあったのだ。二人だけなのだから、呼び掛けなしでもよかっただろう。

 しをりはわざと譲治を名で呼んだのだと確信した。

 それはつまり、しをりが自立し始めたことを意味するのだろう。パパと言っている限り、保護者と被保護者の関係、父親と親に甘える子供の関係なのだ。たとえ既に二人が男女の仲だったとしても。

 しをりが精神的に自立することは祝すべきことのはずだが、今の状況下では手放しで喜べなかった。自立したしをりは譲治のもとから巣だって行くかもしれないからだ。

 そうなった時、自分はどう思い、どう行動するだろう?

 わからなかった。そもそもそうなることを拒否している自分がいるのだから、思考が進むわけがなかった。

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