第8話
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外に出た途端、むっとした熱気に包まれた。
その感じは物理的な打撃を身体に受けた時の感じに似ていた。例えば素足を何かにぶつけたとする。ぶつけた瞬間はまだ触覚的な衝撃と、しまったという悔いが起こるだけだが、コンマレイ何秒かの遅れで、すぐに本格的な痛みがやってくる。暑さもそんなものだ。先ず暑いなと皮膚の表面が感じ、すぐに耐え難い熱量を体全体が受け止めるのだ。
玄関脇には焼き締めの大きな甕が置いてある。何のためにあるのかはわからない。そういえば、昔はこんな甕がよくどこの家の玄関先にもあった。
為すこともなく甕を見つめていると、その作る影が長くなったことに気づいた。しかも影からはどこか粘性がとれてきたように思える。夏がそっと去ろうとしているのだ。
もの置けばそこに生まれる秋の影――そんな虚子の句をなんとなく想った。
庭に降りてみると、家の蔭に芙蓉が咲いていた。思い付いて見上げると、藤は葉を繁らせて、分厚い光を重たげに戴いていた。
「お待たせ」
ようやく由香里が出てきた。
七分袖の白いオーバーブラウスに踝までの辛子色のパンツを合わせている。ブラウスの背は編み上げになっていて多少は涼しいようだが、その効果を無にするように、夜会用みたいな白い長手袋を着けていた。頭には白いカンカン帽を被り、更に念の入ったことに黒いパラソルまで広げた。
「完全装備だな?」
「日焼けしたくないからね。夏は敵よ 暑いのと紫外線は嫌い」
「色気ないな……」
「却っていいじゃない。虫が付かなくて」
「俺は虫か?」
「あ。貴方は虫の王様。ヘラクレス甲虫かな?」
「嬉しくないぜ」
「あらぁ、そぉなの?」
「あんな立派なモン付いてないしな」
「大丈夫。あたしにはヘラクレスよ」
由香里は譲治に腕を絡ませた。
「暑くないのかよ?」
「元々お熱いんだから、いいじゃない」
「暑いのはやなんだろ?」
「――貴方ってさ……」
「うん」
「優しくないよね?」
「……うん」
当たっているので、反論はできない。たしかに今、不興気な顔をしていたようだ。
「でも、それが貴方らしさなのよね? そこで優しかったら、貴方が貴方でなくなる……」
譲治はなんとなく傷付いた。自分を、ものを知らぬ未熟者だと言われた気がした。
「……でも優しいのよね、ほんとは。優しさの質が違うだけ」
「どう違う?」
「いいの、そんなこと、貴方は気にしちゃ駄目」
まるで野生の獣のありのままを愛でるような言い方だった。
由香里の家は高台にある。そこから長いなだらかな坂を下っていくと、ほんの僅かばかり下った積りなのに、随分気温が上がった気がする。毎年夏、ここを通る度に決まってそう感じるのだから、本当にそうなのかもしれない。
町は坂の下から始まる。町に近づくにつれ、チラホラと高い建物が現れはじめる。間々に造営のため更地にされたらしい土地も挟まっていて、それらの作る乱杭歯のような影が無秩序に道に落ちていた。
陽はつい先日より明らかに傾いていた。それにつれて影の面積も広がっていた。町中には、もっと影が増殖していることだろう。由香里が通うダンス教室は町の反対側の地区にあり、その辺りは路が入り組んでいるので、影も多いだろう。一足先に秋の気配を感じるかもしれない。
譲治が帰ると言うと、一緒に出ようと由香里が言ったのだ。譲治はダンス教室の手前にある古書店に寄るつもりだった。
坂道は町中に入ると急に緩くなり、道幅を拡げながら更に続き、中心部を貫通する目抜き通りとなる。その中間辺りで一旦上りに転じ、急行が停車する私鉄の駅の辺りでは殆ど平坦になる。そしてその先でまた下りに転じ、町を出ると程なく国道にぶつかり、そこで終るのだ。
日傘が頭に当たるので、いつしか譲治が傘を持っていた。由香里の腕が絡んだ方の腕をあげ、彼女の頭上に差しかけていた。由香里はぶら下がるように譲治に身を寄せていた。
上りに差し掛かった。暑さのせいか、人影は疎らだ。注意をひかれる対象もなく、視線は自然に坂を見上げていた。
坂の上に青空が広がっていた。真正面に、輝くような白雲が一片浮いていた。何となく観察していると、微妙に形を変えながら、目の前を悠然と横切ろうとしていた。その更に上空には絹雲が薄く刷かれていた。面白いことに、絹雲と下層の綿雲は正反対の方向へ動いていた。上空と地表近くとでは、違う風が吹いているのだ。
正面の坂の頂に、何か白いものが姿を見せ始めていた。
青空をバックに、絹雲、綿雲、現れ始めた物と、白が鮮やかに縦に並んだ。
見ていると、白い物体は次第に形をなしてきた。
譲治は胸が騒ぎだした。ある予感に捉われた。そして、悪い予感というものはえてして当たるものなのだ……。
それは女性の帽子だった。つば広の白い帽子。
譲治は茫然とした。
見慣れた帽子の下から、予期に違わぬ白い顔が現れた。
歩みが勢いを失くした。動力を切られ、慣性だけで動いている車のように。
パラソルを由香里に返すべきだと考えたが、もう遅かった。
しをりは
魅入られたように、譲治も視線を外すことができなかった。
うっかり描き込んでしまった人物のせいで変わり果てた風景画を眺めるような、情けない気分だった。
それに、視線を外すことはしをりに対する背信だとも思った。同時に、この期に及んで何が背信なのだとも思ったが。
対応を決めかねている間に、しをりはどんどん残余の体を現し、ついに等身大で眼前に到った。
目は相変わらず譲治をみている。当惑の色はあったが、綺麗な眸だなと、場違いにも譲治は思った。
猜疑や怒り、悲しみなど、もっとこの場に相応しいような感情は何故か看取できない。譲治はそれを不審に思い、落ち着かなくなった。
どこかの澄んだ湖――湖面は小さく漣だっているが、雲一つないので、風が感知されない。空はあくまで澄んでいる。そんな澄明感に図らずも懼れを懐く――そんな心の動揺だった。
譲治の鉤形にした腕から、由香里が腕を引き抜いた。
由香里も気付いたのだ。しをりに、そして途方に暮れる譲治に。
しをりは辿って来た進路をそのまま、少し離れたところを通りすぎようとしていた。
譲治は立ち止まっていた。
「後で会おう」
それだけ言った。
しをりは素直にこっくり頷くと、傍らを歩み過ぎていった。
擦れ違うのに五分もかかったような気がした。実際はほんの数秒のことだっただろう。
譲治はまた歩きだした。
これ程当惑させられたのは久し振りだ。妻からの〝三下り半〟に接した時以来だ。
気付くと、由香里が振り返っていた。
譲治はつられて振り返るようなことはしなかった。
「行ってあげなくていいの?」
由香里は譲治の顔を覗いた。諭すような口調だった。それが譲治の心の負担を増した。
譲治はかろうじてかぶりを振った。こうなった今、一体何ができるというのだ?
「貴方の……大事な人だったんじゃないのかな?」
由香里が譲治を問い詰めた。だが何も言う言葉はなかった。
「可哀想じゃないの」
なおも由香里は言いつのった。
「いいんだ。なんでもない。気にするな」
「あの娘、あそこでまだ貴方を見てるわよ。大人しくしてなさいと言われて、去っていく親の後姿を見送る小さな子みたいな目で……」
「彼女の行き先はわかってる」
「じゃ、あたしはもういいから行ってあげなさい」
由香里は譲治から傘を取り上げた。
それで初めて、女物のパラソルを持って棒のように立ち尽くした初老の男の絵が脳裏に浮かんだ。
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