第7話
7
館内は割合混んでいた。こんな人数がいったいどこから出てきたのかと思うほど、畑中とのギャップがあった。
それでも、絵を観て歩くいているのか人の頭を見て歩いているのか分からないということはなかった。
客は若いカップルか、譲治と同年輩の男性一人というのが多かった。
エドワード・ホッパーは十九世紀の末に生まれて、二十世紀の六十年代末くらいまで活躍したアメリカの画家だ。ヨーロッパの芸術潮流を離れて、アメリカらしさを表現した最初の画家の一人ということになっている。
それに異論はないが、作品の力はそんな理屈を忘れさせた。
いい作品には時代や場所を越えて人々を魅了する力がある。そういう意味で、芸術には古さというものがない。
日はようやく西よりに傾いていたが、物の作る影の姿に気を留めなければ、まだそうと気付かぬ程日射が強かった。
喫茶室の屋外のテラスの脇に植わった立葵はもうとっくに盛りを過ぎて、てんでばらばらな方向に傾いでいる。その様子は瀕死の落武者の一群のようにも見えたし、金網のフェンスの向こうに上部が突き出た株などは、隣家のおかみさん相手にお喋りに夢中な中年女性のようにも見えた。
そんなことを考えていると、化粧室に行ったしをりがやっと戻ってきた。手に美術館グッズ用のビニール袋を持っていた。
「何買ったの?」
と訊くと、しをりはテープをはがして中味を見せてくれた。
額絵だった。無論複製だ。≪青い宵≫という作品だ。
「ああ……」
思わず手にとった。ついさっき本物を見たばかりの目には発色に不満があるが、それより感動の記憶の方が勝った。
「それ、気に入ったんだ」
しをりはハイボールのグラスを揺らして、融けて円くなってしまった氷をぶつけ合わせ て、一口飲んだ。
譲治は、手の中の≪青い宵≫に目を凝らした。
実物は横幅が二メートル近くもある大きな作品だった。縦はその半分程だったか。
どこか夕べのテラスの光景だ。人々が集まり、飲んだり煙草を吸ったりしている。だが賑かさはなく、孤独と静寂が場を支配している。
画面はタイトルの通り青が基調だ。灯の入った中国風の提灯――それが基調色とコントラストをなしている――が幾つか浮いた上部の青い帯が宵の空であることは間違いない。が、その下の更に青の濃い層はなんだろうか? 山のようにも海のようにも見えるが、空に先んじて暮れた町なのかもしれない。下半分は近景だ。ここは人物だけで構成されている。彼らの服の襞に生まれる影にも青が使われている。
彼らは一人を除いて腰かけているが、下半身は描かれていない。後ろ向きの二つの背に邪魔されてテーブルの上はよく見えない。テーブルは三つあり、それぞれに左から一人、三人、二人が着いている。彼等は集ってはいるが、右端のテーブルの夫婦らしき二人を除けば互いに面識はなさそうだ。年齢も階層も職業もばらばらで、互いに視線を合わせることもない。
一人でいる左端の中年男は――売春斡旋人だと言われている――放心したようにテーブルを眺めている。
真ん中のテーブルを見ると、左端の帽子を被り髭を生やした男は芸術家だろうか、横を向いたその視線は焦点を結んでいない。彼が見ているのは心の内側のようだ。中央で背を向けている男は、服装から軍人で、それも階級が高そうだ。顔は見えず、目を惹く仕種もなく、物静かだ。右端の中年男は道化のなりをしている。メーキャップも道化だが、表情は完全に仕事を離れている。そのギャップが彼の味気ない人生を示唆している。周囲には全く関心を示さず、俯き加減に押し黙っている。
右端のテーブルの初老の夫婦者は、顔が見える夫の方が画面中央の方へ目を向けているが、何かに気を取られているわけではなさそうだ。完全に後ろ姿の妻は自分が押し退ける空間の体積を常に最小に留めたいと思ってでもいるかのように、ひっそり固まっている。
これらの人々と異質な人物が一人だけいる。座した人々のむこう、中央に一人立ち、昂然と鑑賞者に目を向けるドレスの女だ。視線を他者――鑑賞者――に注いでいるのは彼女だけだ。年齢は推測がつかない。若くもないが、老いてもいない。昼の装いではないが、従業員ではなく、一人でいることが不自然だ。連想される職業は……娼婦なのだろうか。
彼女の目だけが他者を意識している印象を持つが、よく見れば偶々こちらと目があっただけと判ってくる。アンニュイで無関心な表情をしている。
要するに、ここに居合わせた人々は全員他者に全く無関心なのだ。一方でその他者の存在は、安心して武装解除し脱力させることを妨げていない。都会の憂鬱と孤独、それとアンビヴァレントな安らぎ――それが描かれているのだ。
そして鑑賞者もまた、中央に立つ女の視線に牽かれて絵の内側に入り込み、実は自分も彼等の同類なのだと気付かされるのだ。もしこの絵に惹き付けられない者がいたら、その者は死者か神なのだろう。
「俺もこの絵が一番気に入った」
「代表作?」
「うん、そう言っていい」
「他にはどんな?」
「≪夜更かしの人たち(深夜の人たち)≫、≪日曜日の早朝≫なんかだね」
「それ、今あった?」
「いや、なかった。そういう作品ではもっと人物が減って、全くいないこともある。光景だけでも心を表せるんだね」
「すごいね」
「わかるお前もすごい」
しをりは首を振った。
「あたしはただ感じるだけ。パパは理屈で考えるの?」
「いや、同じさ。感じるんだ。絵はそういうもんだ。理屈が勝った絵なんて失敗だ。いい絵は理屈の要素があっても、それだけでは終わっていない」
「よかった」
しをりは譲治を見つめた。
彼女のことではなく、自分のことを言われたような気がして、彼は内心はにかんだ。そしてその心の動きに自分で驚き、それを隠すために少し快活に言った。
「絵はエクスタシーだ」
しをりは小さく頷いた。茶色に近い瞳に尊敬と信頼の色が灯っていた。そして多分それはその感情を抱いた彼女自分にも少し向けられていた。
自分を丸ごと譲治に飲み摂られ、彼の血肉の一部になってしまいたいと今彼女は望んでいる気がした。
急に譲治はたじろいだ。
動揺するのは自分に、ある〝確信〟がないせいだと分かっていた。そして動揺は、訴えかける眼差しに対する背信であることも。
さりげなく視線を外し、残ったビールをグラスに注ごうとした。しをりは彼の手を抑え、酌をしてくれた。
伏せた睫毛の下の眸が零れ出る琥珀色の液体を追った。
満ち足りた目、熱気とアルコールに上気した顔。恋し始めたうら若い娘のようなしをりを見守りながら、譲治は何故かもの悲しくなった。処しきれない心の揺らぎを、ただ一緒にグラスをみつめることでしか耐えられなかった。
しをりが譲治の屈託に気付かぬはずはなかった。感情を隠し通す――そんな才能は自分にはないし、ましてや恋する女の前では無駄だろう。気付いた上で彼女がそれを受け入れるのは、丸ごと彼を愛しているからに他ならない。
ならばいいではないかと譲治は思った。
今を大事にするのだ。心の求めるままに今、刹那刹那を生きる。お前はそうして生きてきたのだろう?
ふいに油蝉が鳴き出した。今夏初めて聞いた。
夏は始まったばかりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます