第2話
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ここ何日かぐずついていたのが嘘のように晴れ渡った。空がまるで桜の満開を待っていたようだ。
譲治は空を見上げていた視線を足下に落とした。
小さな画廊の戸口にも薄く色づいた花びらが吹き寄せていた。この通りに桜の樹はない。並行する一本隣の通りには散在するが、それでも最も近い樹もここから二百メートルは離れていよう。花びらはそんなに飛ぶものなのだろうか? それとも幾筋もの風が引き継ぎ引き継ぎしてここまで運んだものだろうか。
店を開けてから一時間経ったが、客はまだ一人も来ない。花見のタイミングに当たったのは不運だったが、それだけではなかった。
どうしても断れない伝手で依頼を受け、開催した今度の個展だが、作家は固定客を持っていなかった。譲治の方でも傾向がいつもと全く違うので、従来の顧客は呼べなかったし、呼びたくもなかった。結果閑古鳥が鳴くことになった。
作家は、誠実だが地味な五十絡みの男だ。東北の小ぢんまりした市に生まれ、住んでいる。中庸な写実が伝統の、ある美術団体の公募展に出品を続けていて、何度か入選もしているが、未だ会友にもなっていない。口ではさかんに恐縮したが、何がなんでも都心の一等地での個展に漕ぎ着けた執念には、正直粘着質なものを感じた。
画風は厚塗の筆触を重ねるばかりに隣置して、半ば抽象化した風景を重たげに描いている。表現は安易で、色は濁り、
媒体に使った小型葉書には、「光の貌に憑かれた今日の印象派」と書いた。作家の意向もあったのだが、他に書きようがなかったのだ。作家の方はそれで満足した。
が、満足してはいけないのだ。時々〝現代の印象派〟という自称他称を耳にするが、言い換えれば、それは二番煎じだということだ。印象派的感性の作家は無論いる。だが印象派とは十九世紀後半のある一時期だけの表現様式を指し、歴史の不可思議な非再現性――その時代にしか許されない一度だけの発現――を呈した唯一無二の世界を言うのだ。後からやって来た者は、その印象派的感性を自分が生きている時代の感覚の場で止揚しなければならない。意識してその問題に立ち向かわないのは芸術的に不誠実だ。
この作家の場合、お世辞にもうまく止揚できているとは言えなかったし、それ以前に問題に対峙しようとせずに、未消化のものを中途半端なまま誤魔化し、上面だけ整えてしまっていた。これが最もいけないことだった。
芸術作品は完成度ばかりで評価されるべきものではない。不整合であっても芸術的達成はあるのだ。それを怖れてはならない。
そもそもこの作家の場合、印象派を自称しながら、黒を自覚なしに使用していることが問題だった。印象主義とは、意識としては、自然の色と光の諸相を絵具で全て表現してしまおうという運動なのだが、自然界に純粋な黒なるものはまず存在しないのだ。モネは初期こそ黒の絵具を使ったが、後には全く使わなくなっている。使用するなとは言わないが、そこのところは自覚して使ってほしかった。
今作家は近くに朝食を摂りに行っている。滞在中の経費を節約するために簡易宿泊所に泊まり、更に朝食を抜いていた。見かねた譲治が金を渡してやったのだ。
扉の前に人影が立った。
しをりはするりと入って来た。まるで扉などなかったかのように。
おはよう、と唇が動いた。
音は聞いたのだが、譲治は唇に気をとられた。
「おはよう」
今は彼のものであるしなやかな若い獣。それを捕えて、そっと抱き締めた。
束の間のためらいの後、しをりは力を抜き、抱擁を受けいれた。
「誰もいないよ」
獣の気持ちを察して譲治は言った。
「作家は?」
「飯を喰ってる」
抱擁を解いた。すっと立つしをりに軽くキスした。唇が触れる瞬間しをりは軽く瞬きをした。
しをりは背が高い。すらりとしている。女らしい丸い肩の上に載った顔が蒼ざめて見える。いつもそうだ。だが昂揚してくると、そこに血潮が差してくる。譲治はその変容を見るのが好きだった。
知り合った頃は髪はボブで、モノトーン系の上衣にパンツを合わせていた。今は髪は背にかかり、コーディネートは淡いながらも綺麗な色調に変わってきていた。膝上までの柔らかい素材のスカート姿が多い。譲治の好みに合わせているのだ。
だが化粧は変わっていない。元々化粧は濃い方ではないが、もっと顔を明るく見せた方がいいと思うことがある。が、そうすると彼女の持ち味が失われるような気もした。譲治は平素の青ざめた顔も嫌いではないのだ。
「売れてるの?」
しをりの目がざっと壁面を刷いた。その顔を目守りながら、かぶりを振った。
「まだ」
「そう……」
「手伝ってくか?」
譲治はちょっと期待して訊いた。
しをりは販売が上手い。特に絵画の知識が深いわけではない。蘊蓄だけなら譲治とは雲泥の差だ。だが美術品は蘊蓄だけで売れる商材ではない。自然な〝押し〟が大事なのだ。〝押し〟は〝押しつけ〟とは違う。客を気分よくその気にさせる技術――話術、表情、身振り、それに共感をよびこむ人としての魅力――全ての総合なのだ。そして二度三度と繰返し買ってもらうためには〝誠意〟が更に必要だ。
しをりの場合は天性のものがあった。相手の気持ちに寄り添い、いつの間にか入り込んでいる。流れの中で自然に殺し文句を口にしていた。特にオジサマ族に人気があった。オジサマ族は譲治の画廊の中心的な客筋だ。
しかし、しをりは首を横に振った。
「好きになれないの。この子たち」
「そうなのか?」
しをりは従業員ではないから、拒否されたらお終いなのだが、感覚の鋭い女だ。譲治だってお終いにしたいのはやまやまなのだが、商売だからそうは言えない。
「パパ、お花見行こ?」
「ああ?」
「どうせ売れないなら、作家に任せちゃいなさいよ。桜は一年に一度しか咲かないのよ?」
「残酷なこと言ってくれるなよ。船長は船に留まる義務があるんだ」
「まるで沈没するみたいね。泥舟?」
「失礼な! 自分に課した任務さ」
「新撰組だね」
また飛躍した。今度は何なんだ?
「何だ?」
「負けるのは覚悟のうえ……」
「おい……。負けるなんて思っていない。また思っちゃいけないんだ」
「じゃ、ダンディズム?」
「もっと泥臭いやつ。なんせ泥舟だからな」
うっかり自分で認めてしまった。
「プロだもんね」
「わかってんなら誘うなよ。残酷だぞ」
「変なとこプロなのよね、パパって」
「で、どこに行くんだ?」
「お友達と会うの」
「女?」
「男って言ったら、パパ、どう思う?」
「じゃ、女だな」
「うん」
「俺が花見一緒に行くって言い出したら、友達どうする積りだったんだ?」
「いいじゃない。そうなったらパパ、両手に花で」
しをりは笑った。笑うと青白い顔の印象が一変する。穏やかで、人を和ませる優しさがある。
しをりのニュートラルな時の顔は、往年のアメリカのポルノ女優ケリー・オデルを彷彿とさせる。ケリーを東洋風に味付けしたような顔だと譲治は思っている。ケリーは90年代の初めのごく短期間だけ活動して、すぐに引退した女優だ。一八でデビューし、若さと美貌と白い肌が売りだった。実は出産を経てごく短期間復帰したのだが、既に以前の存在感はなかった。
数少ないケリーの欠点の一つは、破顔すると下品な感じになることだったが、しをりの場合は違う。ずっと上品で柔和だ。怒るといけないから、そんな人物に似ているなどと、面と向かって本人には絶対言わないが。
「プロのパパがほいほい付いてくるなんて思っちゃいないわ」
「あ。悪い奴だな。その娘、今度紹介してくれ」
「うん」
しをりは事務所に入り、流しに水に浸けたままになっている湯飲みを二つ――朝譲治と作家が飲んだやつ――を洗い、新しく譲治にお茶を淹れてくれた。
「じゃ、ね」
済むと、手を振ってあっさり出ていった。現れたときと同じように、気配を感じさせない退出ぶりだった。けして動作が素早いわけではない。不思議な能力だ。
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