第3話

 一人に戻ると、途端に時間を喪失してしまった。

 夏の末のある朝、目覚めると前日までの湿気が嘘のようにとれている――そんな風に身を置いてきた時間が空間から揮発してしまったようだ。

 音までが失せ、ただ光だけが射していた。心が森閑とした。

 ふと太古代の地球にいるような気になった。

 地上にまだ生物がただの一種もなかった頃、北半球に春が来て、植物すらない荒涼とした陸地に、見る者もなく穏やかな日差しが落ちている――脈絡もなくそんな光景を空想した。

 そもそも、今しをりは本当に来たのだろうか?

 それすら怪しく思えてきた。

 来た気配も、去った気配も心もとなかった。風か、ひょっとしたら花びらを見誤ったのかもしれない……。

 目を落とすと、眼前にさっきしをりが淹れてくれた茶があった。 湯飲みからは実際に湯気も昇っていた。自分の気は確かだ。しをりは確かに来たのだ。

 それでも譲治は念のためしをりの様子を回想してみた。

 顔はすぐ浮かんだが、なぜか霞を隔てたように心もとなかった。

 しをりは例の笑みを浮かべていた。笑みは交わした会話の形見のようだ。だが、目は譲治を見ていなかった。何かの思いに強くとらわれているようだった。なにものか――彼女自身すらきっと正体を分かっていない何かを、感じ取ろうとしているように思えた。それは何なのだろう? そもそも自分はどうしてそう思うのだろう?


 作家が帰ってきて、妙な夢想は霧散した。登場の仕方が、しをりと大違いで俗物的だったので、少し腹がたった。

 作家は画廊の中を一瞥し、来客の臭いを嗅ぎとろうとした。ジャックと豆の木の、雲の上に棲んでいる鬼みたいだった。だが生憎ジャックは、今日は花見に行ってしまったのだ。




       3

 手が滑った。

 すごい汗だ。片手で傍らの、さっき外したバスタオルを手繰り寄せ、手早く背を拭いてやった。

 胸を密着させた。すると昂りが伝わってきた。

 体を前に傾け、拭いたばかりの背をシーツに押し倒した。

 すぐに上体を離し、下半身の感覚に集中する。

 兆しはすぐにやってきた。煽った女体が燃え上がって逆に煽られ、程なく臨界点を越えた。束の間の制御のきかぬ励起の後、秋の日が落ちるようにすとんと脱力した。

 そのまま、覆い被さって、仮死に似た状態に陥った。本能に従って獲物を全力で狩った後の野生の獣のような荒々しい息遣いに揺られていた。


 瞼の裏が赤く染まり、目が覚めた。

 少しまどろんだようだ。

 窓の外で、庭の長藤がゆったりと風に身を任せていた。花房のはざまから陽が部屋に零れ散っている。いつの間にか日射しが戻っていた。

 まだ眠い。窓を閉じて直射を避けようか?

 一方で、どんなテクニシャンも敵わぬ愛撫を裸体の隅々にくれる爽快な風も捨てがたかった。動くのが面倒くさかった。

 決めかねて漫然と空を見上げた。

 日射しが戻ったといっても、空には雲が多かった。女体のような丸みのある真っ白い雲だ。対照的に空の青さが目に沁みる。その空の明りを圧倒して、風にくねりながら藤房が輝いているのだ。

 この部屋を何百回訪れたことか。なのに、毎年この時期になると、決って藤の花房に心を奪われる。花のない時期にはその存在を忘れているのだが、その薄情を気にもかけず、ただ花は突然妖しい程美しくその姿を現すのだ。

 横臥した女体がその花影に映えている。自然が造りあげた柔らかな起伏の連なりが、微妙な青の濃淡に染め分けられていた。

 顔を寄せて膚の臭いを嗅ぐと、藤ではなくソープの臭いがした。知らぬ間にシャワーを浴びたようだ。髪もきちんと後でゴムのリングでとめられていた。日陰に入った顔に青みはなく、反対にほんのり血潮が射していた。

 起こさないよう気を遣ったのに、気配を感じて瞼が開いた。

「あ~、いつまでもこうしていたいな!」

 とっくに起きていたようだ。逆に譲治に気を遣って静かにしていたらしい。

「綺麗ねえ」

 譲治の視線を辿って、そう言った。

「飽きる程毎年見てるだろ?」

 素直な感動に水を差すようなことを言うのが譲治の悪い癖だ。その言い草は人の純粋な心をも濁す。が、彼女はそんな譲治に慣れていた。

「綺麗なものは、いつだって全てを圧倒するのよ」

「だが永くは続かない」

「……うん」

「こういうこと思ったことないか? 真冬、真っ白な霙も呑み込んでしまうような漆黒の闇の中に、誰にもその存在を思われることなく、藤の枯れた蔓がそこにある。藤は自ら存在することを望んだわけではない。気づいたらこの世にいたのだ。そして存在を意識されないということは、存在していないのと同じことなのだ……」

「思わない」

 途中で一言のもとに否定された。声には毒のない笑いが溶解していた。

「藤は冬の間、楽しい春を夢見ているのよ。だから時期が来れば思いきり華やかに花をつけるの」

「由香里……」

 譲治はふいに心を打たれて、相手を見つめた。自分の言おうとしていたことが、ひどく歪んだものに思われ、恥ずかしくなった。

「生きてるものは、何でも夢を見るの。夢は思い続ければ叶うものなのよ」

 由香里は枕元に手を伸ばした。

 煙草を探り当て、パッケージから一本抜き取り、使い捨てライターで火を点けた。

 一息吸って、横を向いて煙を吐いた。吸わない譲治に気を遣っているのだ。

「そうだな」

 譲治も美に携わる人間だし、そこまでひねくれてはいない。

「うん」

「由香里のそんなとこが好きだよ」

「あたしは譲治の全てが好きよ?」

「好きってことは、良いも悪いもそのまま許すということだな」

「良いとか悪いとか思わないの。あるがままの譲治を好きなのよ」

「照れるじゃないか」

 うまく返せない。洒脱にあしらえない自分も情けないが、相手に対する想いの差のせいだとも分かっている。そのことで、野の草に動物が付けた小さな擦過痕のような微かな痛みを感じた。

 由香里は「あなたは?」などとは訊かない。

 そう、最初から人間の品格の点で自分は負けているのだと譲治は思う。由香里は彼より一回りも下なのだが、どちらが年長なのかわからなくなる時がある。

 譲治と由香里は二十年以上もこうして付き合ってきた。途中何度か別れ、またよりを戻すことを繰り返した。よりを戻す働きかけは常に譲治からした。由香里はけして去る男を追おうとしなかった。が、戻る男を拒むこともなかった。

 ただ一度だけ、由香里が感情を露わにしたことがあった。感傷的になって、結婚してくれるかと譲治に迫ったのだ。そのあと最初の別れがあった。再び付き合いだしてからは、由香里がそれを口にすることは二度となかった。

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