第4話

     4

 気のすすまない作家の個展の後、何本か企画を消化したが、どれもあまり当たらなかった。へんな綾がついてしまったのか?

 個展の翌日と翌々日は店を閉める。翌々日は次の企画の展示に充てるが、翌日だけはのんびりする。その習慣を譲治はずっと続けてきた。

 古書店街をずっと歩いてきたので、少し疲れた。

 しかし、若かった頃も齢を重ねた今も、不思議に疲れの度合いは同じだ。つまりはまだ若いのだと都合よく解釈している。

 じっとしていても汗が吹き出てくる。わざわざ風の通らない場所を選んでしまったことを後悔したが、風化した古代の祭祀址のような石のベンチから立ち上がる気も起きない。

 梅雨の中日、空は死んだ青魚の腹のような光沢で重たげに垂れている。眼前には隠沼のような池が、眠るように横たわっている。

 池の上で、さっきから虫が一匹ブンブン唸っていた。狭い範囲を狂ったように旋回している。その動きはある種の小惑星のようにカオス的だった。虫にも虫の、何かそうすべき事情があるのだろう。

 池の対岸で、今までベンチに寝そべっていた男が起き上がった。水色の半袖シャツにベージュのスラックス。年齢も方便たづきも不明な男だ。何が詰まっているのか、草臥れた布のトートバッグをブラブラさせながら視界を外れていった。

 目を池に転じると、丁度例の虫が不注意に池に墜ち込むところだった。

 ふいに静かになった。

 じわりと暑さが膚にへばり付いてきた。


 ――俺はしをりを愛しているだろうか?

 譲治はずっとそのことを考えていた。

 それを考えるために、わざわざ快適でもない散策を続けていた。

 そんな問いなど、若い頃なら逆立ちしてもしなかっただろう。相手への思いは、一瞬一瞬が本心なら、そしてそれが継続したものなら、それで充分だと思っていた。人がそれを〝愛〟と呼びたければ、勝手に呼ぶがよかった。

 答は出なかった――と言うよりわからなかった。自分を分析することは難しい。

 もしかしたら、本気で人を好きになったことなど、一度もなかったのかもしれない。そう自分に決めつけるのは、我ながら面白くないが。

 由香里を愛したことがなかったのは確かだ。そして別れた妻も。

 彼が二十代末に結婚した妻は、自分の感情を大切にする女だった。感受性が豊かで、自然に幅広い文化、芸術の知識を身につけていた。一方で感情の起伏が激しく、独立不羈で、才能を愛し、凡庸を嫌い、また金がないことからくる物理的心理的な制約を嫌っていた。

 その頃の譲治は、実作者として天稟がないことに悩んでいた。無論金もなかった。

 結婚はわずか三ヶ月で破綻した。その頃には、既に妻は、子供ができれば別れられなくなると思い、離婚を決意していた。譲治は譲治で衝突してばかりの日々に疲れ、苛立っていた。

 妻とのことでは情けない役割を演じたと思っている。妻には本当に振り回された。

 別れた時、苦い悔恨と酸っぱい喪失感を味わったが、同時に深い安息をも感じたものだった。

 だが、たっぷり時間が過ぎた今、こうも思うようになっていた。自分の素直な感情に殉じたい彼女は、自分を愛してくれていない男とそれ以上生活を共にすることに耐えられなかったのではないかと。

 以来二十数年彼女には会っていない。風の便りに再婚したとは聞いた。譲治の方は独身を通した。その方が性にあっていた。

 自分を偏屈だと自覚している。

 両親は既にない。大分前に嫁いだ妹は遠い所に住んでいる。友人付き合いも昔からあまりない。

 だが何故か女にはいつも縁があった。何故そうなのかはよくわからない。五十を迎えた時さすがにもう駄目だろうと思ったが、しをりに出会った。


 人を愛さずに付き合い続けるとは、端から見れば可哀想な奴なのだろうか? だが愛とは業の車輪を回し続けることだろう。ならば愛なき者が〝非業〟なのか? 〝非業の死〟とはそんな者の死を謂うのか? だが輪廻に無縁であるのなら、死はむしろ救済として立ち現れるのではないか? ならば、愛なきことは仏の心に叶う――

 そこまで考えて譲治は苦笑した。

 こんなのはまるっきり単なる言葉遊びだ。いつのまにか真剣ではなくなっている。結局自分には〝愛〟と真剣に向き合うプログラミングがなされていないのか?

 それは少々寂しいことだ。だが柄でもないことは、しても無理なのだ。




     5

 ――大丈夫かしら?

 取敢えず腰を下ろしたしをりはキョロキョロ店内を見回した。まだ不安だった。

「心配?」

 しをりの心を見透かしたように男が訊いた。

 しをりは陽に焼けた精悍な顔を見た。

 槙嶋英樹は屈託なげに笑った。笑うと白い歯がこぼれた。

「よく来るんですか?」

「初めてだよ」

「大丈夫なんですか?」

「何が? 歌舞伎町だから?」

「はい」

「歌舞伎町の店がみんな恐いわけじゃないよ 。一階にある店なら大体大丈夫なんだよ」

「そうなんですか?」

「うん。何にする?」

「じゃ、ハイボールをお願いします」

「オーケー」

 英樹は、隣と肩が触れそうな狭い店内で、スーツに包んだ筋肉質の体を窮屈そうに捻って、 長い腕を差し伸べてウェイターを呼んだ。

 英樹のオーダーはテキパキとしていた。 女性の好みに合った選品をしているようだった。 女性に気配りできる男らしい。

 その声を心地よく聞きながら、しをりは今日は英樹と二回目のデートだなと思った。

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