第5話
二人は新宿にある語学学校で出会った。
しをりは週二日、フランス語を受講し始めていた。マルグリット・デュラスを原語で読みたいという単純な動機からだった。
フランス語の知識は全く無かった。大学の第二語学はドイツ語だった。以前からフランス語を専攻しなかったことを後悔していた。ドイツ語を選択したのは、ただ単にフランス語を専攻した二つ上の姉に対する対抗心からだった。
英樹の方はビジネス英語を受講していた。
大手商社に勤める彼は、自分の仕事に活かすためだと説明した。
二人は学校の喫茶室でよく顔を合わせ、自然口をきくようになった。英樹は歳は三十。年齢的にしをりと釣り合った。
他にも共感できることがあった。二人とも高校生の時に父親を亡くしていたのだ。
しをりの父は、大きな体に相応しく包容力のある男性だった。殴っても蹴っても一寸やそっとでは壊れなさそうな押しだしで、しをりなどは不死身の印象を持っていたのだが、それが出張先の外国で鉄道事故に遭い、あっけなく亡くなってしまった。
資産家だったので、そのことは家族に何ら経済的支障を来さなかった。これまでしをりは一度も働いたことがない。アルバイトすら経験がない。
一方で、父親の死は姉妹には深刻な軋轢をもたらした。
父親には精神的に依存していたしをりだが、姉はライバルだった。間に入ってうまくバランスを取ってくれていた父親がいなくなると、気性の合わない姉妹は以後深刻に対立するようになった。
母親は父親同様寛らかで包容力がある女性だったが、思春期に入った二人の娘たちをうまく折り合わせることができなかった。時が解決すると、のんびり構えていた節もある。
しかし姉は間もなく英国に留学し、そのままロンドンに居着いてしまった。姉妹和解の機会は先延ばしにされた。
「それでさあ、金に困ってさ。学費をつくるために何でもやった」
英樹の言葉にしをりは我に返った。
「例えば、今君が心配したような仕事も実はやったんだ」
英樹は愉快そうに笑った。
「暴力バーのボーイのアルバイトなんかをね。例えばさ、壁にメニューと値段が横書きに書いて貼ってあるんだよ。ところが、数字の右端の方は観葉植物の葉っぱでうまく隠してあってさ、ほんとは0が二つ隠れてるんだ。ひどいだろ?」
「え~っ
しをりは仰天した。
「お客はたまげて、当然文句言うよな 、払う段階で伝票見て。すると僕は店の人間を呼ぶわけ。そうしたらゴツいのがぬっと出てきてさ、どうかしたのかって真面目くさって僕に訊くわけだ。そこで僕が 、こちらのお客様がお勘定をお支払になりたくないと仰るんですが――なんて、わざと慇懃に言うのさ。するとさ、クソ真面目な顔してたゴツいのが、やおら客を睨みつけて、お客さん、 困りますね 、とすごむんだ。価格はきちんと明示してあり、客は承知で注文したはずだみたいなことを言って。客はゴツいのが現れた段階でもう青くなってる。後はもう分かるだろ?」
英樹はさも可笑しそうに笑った 。酷い話で、実際被害にあった客はまことに気の毒としか言いようがないが 、確かに話としては面白い。眉根を寄せながらも、しをりも釣られてつい笑ってしまった。
「まあ奨学金もおりたし、家庭教師の口も見つかったから、二年生からは勉学に専念したけどね」
「その割にはスポーツマンっぽいのね 。何かしてた?」
しをりの口調もだんだん砕けてきた。
「これ? ゴルフ焼けだよ」
「ゴルフよくするの?」
「うーん、今は暇がないから月二回くらいだな。もっとやりたいけど。君はスポーツは?」
「前、バドミントンしたことあったけど……。あたし、そっちはまるっきり駄目なんです。 筋肉を動かすのより、肝臓を働かす方が忙しくて」
「はっはっはっは……」
男らしい笑いだった。
「じゃ、今日は肝臓に働いてもらって、ゆっくり飲もう? 色々君のことを知りたい」
「そんな……。平凡な女ですよ 。すぐに退屈しますよ」
そう言いながら、しをりはくるりと瞳を動かしてみせた。いわゆる流し目だ。あまり使ったことはないが、一時は鏡でよく練習したものだ。実際に使って効果はあるのだろうか? 誘っている積りはなかった。いたずらしてみたかっただけだ。
果して英樹はしをりの瞳の動きをじっと見ていた。見られれば、それは嬉しい。相手がいい男なら尚更だ。少し酔いが早いのは、酒のせいばかりではなさそうだった。
6
随分遠くに来たものだ。
電車を三回も乗り継いで、さらに一時間に二本しかないバスに乗り、およそ二十分。ようやく最寄りのバス停に着いた。
畑のど真ん中を一筋狭い県道が走っている。降り立ったしをりは一度ぐるりと辺りを見回すと、眩しそうに目を細めて、バスの後ろ姿を見送った。
ネットで調べたところでは、美術館はここから更に二十分程歩くことになる。
バスの姿が見えなくなると、急に静かになった。蝉の声すらしない。蝉が出てくるにはまだ間があるのだ。
一番暑い時間帯のせいか、どこにも畑仕事をする人の姿はなかった。
譲治はしをりの手をとった。ひんやりとして、柔らかく気持ちがいい。そうしてしばらく手をつないで歩いた。
しをりは最近通い始めた市民プールの話をした。少し太り出したからダイエットするのだという。譲治にはとても太っているようには見えないが、どういうものか女性は男には過度に思える程肥満を気にする。
パパもしたらと言われ、そのうち一緒に行こうと生返事をする。
本当は、泳げはするが、水は苦手だった。と言うより、運動全般が駄目なのだ。運転免許すら持っていなかった。
しをりは免許を持っている。が、酒飲みなので、飲むために殆ど乗らない。
だから二人でこうして電車を乗り継ぎ、炎天下を汗まみれでてくてく歩くことになる。
しをりは生成のフレンチスリーブの短いオーバーブラウスに、ライトグレーの丈の長いゆったりした綿のスカートを合わせている。開いた胸元には珊瑚色のラグビーボールみたいな形の玉を繋いだネックレスをあしらい、頭にはつば広の帽子を被っている。つばが時々譲治の首に当った。
しをりの腰に腕を回した。
「やだあー、暑いっ!」
しをりは身を捩って逃れた。
「あれっ。あれかな?」
脇へ流れたしをりの視線の先、畑の中にぽつんと白亜の建物の上部が覗いていた。前方後円墳を圧縮したような独特の形。
「あー、あれだ。ネットで見た」
「まだ遠そうね」
「うん。近道しよう」
譲治は農道に足を踏み入れた。
「えー、こんなとこ通るの⁉」
そう言いながらしをりもついてきた。
「農地ってさあ、一本道間違うととんでもない方向に行っちゃうのよ。知ってる?」
「大丈夫。目標は見えてるんだ」
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