そして、いつの日か


 やがて、函館にも夏がやってくる。

 北海道は涼しいと思われているが、実際住んでいる人間としてはそれ程とは思わない。

 湿度が高くない為そう思われるのだろうが、温度はかなり高くなる事が多いし、エアコンがないとやはり厳しいと思う時がある。

 半袖に衣替えした巴と誠志郎の姿は、今日も懐刻堂の店内にあった。

 六月頭にイカ漁解禁になった事や気候的に過ごしやすくなった事で観光客が増えてきた。それにつれて自然と店を訪れる客が増えていて、最近は中々に忙しい。

 けれど。


「楽しそうだな」

「そりゃあ、閑古鳥が鳴くよりはありがたいもの!」


 笑顔で店内を接客して立ち回る巴を見て、亮が呟く。

 亮の前に三段スタンドや茶器一式をセッティングしながら、巴は元気よく言った。

 巴の主治医は定期的にアフタヌーンティーを予約してくれるので、今ではすっかりお得意様である。


「忙しいのは結構だな。……って、あれは何だ?」

「ああ、あれは……」


 亮の眼差しの先。

 カウンターの隅に、こんもりと盛り上がった小さな山がある。

 不織布の小袋やリボンといった、包装の為の道具類である。

 何か売るのか? と問いかけた亮へと巴は首を左右に振って答える。


「今年は、七夕に回って来る子供達用に小さなお菓子でも用意しようかって」


 もうじき、七月七日が来る。

 函館では、七夕に子供達が家々を回って歩く。

 家々を周りながら、歌を歌ってろうそくとお菓子をもらって歩くこの風習は函館独特のものらしい。

 それなりに歴史のある風習であるし、厳密に言うと函館独自のものではなく、北海道の各地で同じような風習があった。

 ただ時の流れの中で無くなってしまったりしているだけで、函館以外の地域でも残っているところはあるらしい。

 笹飾りがある家しか訪問してはいけない事になっているが、函館の子供達にとっては楽しみの一つである。

 巴も小さい頃、友達と共に近所を回って歩いた。

 せっかくなので、今年は小さなお菓子を子供達に配れないかと相談していたのだ。


「ただでさえ忙しそうなのに、良くやるな」

「巴がここに来てから初めての七夕だし、近所へのご挨拶みたいなものも兼ねて」


 巴はすっかり店の顔の一つになりつつあるし、近所の人々とも顔見知りになってきた。

 子供達について回る保護者達に挨拶がてら、願わくは、子供達が将来のお客様となってくれますようにと。

 誠志郎は、そこまで言うと更に笑みを深くして……惚気に溶け切ったような顔をして言った。


「巴がやりたいっていうなら、それを叶えてあげられるのは嬉しいし。笑ってくれるのを見ていたいし」

「誠兄さん……!」


 聞いた瞬間、巴が手にしていたトレイを抱き締めるようにしながら頬を染める。

 それを聞いていた亮は、呆れた風に盛大な溜息をつきながら肩を竦めた。


「あー、仲が良くて結構ダナー。……勝手にやってろ」


 棒読みでそう呟くと、不思議そうにする巴から注意を目の前の茶と菓子に向ける亮。

 常連客が微笑ましく見守っている事にも気付かず、巴と誠志郎は見つめ合って笑っている。

 最近、惚気っぷりが新たな名物になっていることに気づかないのは二人だけである。

 亮へとごゆっくり、と言った後、巴は無言ですたすたと入口へと歩みを進めたかと思えば、勢いよく扉を開く。


「……中に入ればいいのに」

「たまたま前を通りかかっただけだ」


 そこには、陽の光を弾いて金色に輝く髪色の少年が立っていた。

 アーサーが、先頃から中を伺うように硝子窓から覗いていたのを知っている。

 誠志郎を心配して、力を失う日中にわざわざここまできておいて、本当に素直ではない吸血鬼である。

 巴はいいから、とアーサーの腕を引いて中へと歩き出した。


「だから、引っ張るな!」

「本日のケーキは、キャロットケーキです。好きなんでしょ?」

「な、なんでそれを……」


 抗議の叫びを上げつつも、巴を振り払えないアーサーはなし崩しに入店することになった。

 渋面だった吸血鬼は、巴がにっこり笑って言った言葉にぎくりと身を強ばらせる。

 まだ砂糖が高価だった頃、英国の人は甘みの強い人参をすりおろして混ぜ込みケーキを焼いて、自然な甘みを楽しんでいたらしい。

 日本の人参は水気が多いので誠志郎なりのアレンジをして、ブランシュガーとスパイスで奥深いしっとりとした味わいに仕上げた一品である。

 巴はこの少年の姿をした吸血鬼がそれを好む事を知っていた。

 目に見えて狼狽えていたアーサーだが、何故巴がそれを知るのかに気付くと怒りの声をあげた。


「お前! 要らん記憶を引っ張り出すな!」

「……文句はそれを大事に覚えていたユーインに言ってくれ」


 情報提供者である誠志郎は、苦笑しながら情報源について言及する。

 ユーインは自らが焼いた菓子を美味しそうに食べるアーサーの思い出を大層大事に覚えていたらしい。

 慕う相手の名を出されて唸っていたアーサーだったが、やがて諦めたように空いている席に案内された。

 腕組みをしつつ恨めしげなくせに、期待しているのも隠しきれていないアーサーを見て笑いを堪えていた巴だったが、ベルが新たになる音を耳にして入口を振り向いた。

 そして、動きを止めた。


「姉さん、また来たよ」


 そこには、和が居た。

 いらっしゃい、と笑って声をかけたいけれど、かけられなかった。弟は一人だけではなかったのだ。


「巴……」


 少し怯えたような小さな女性の声が響いた。

 和の後ろには、少し神経質そうにも見える女性が立っていたのだ。

 ここで姿を見る事になるとは思っていなかった、巴の母・恭子である。

 察するに和に連れ出されたのだろう。入口で躊躇ったように立ち尽くしたまま、娘を気まずそうに見つめている。

 巴もまた、続く言葉のないまま立ち尽くしたままだった。

 何かを言いたいのに。こんな気まずい空気のままで居たくないのに。

 そんな彼女の耳に、ふわりと優しい言葉が触れた。


「巴、お客様だよ。ご案内して、注文を聞いて」


 誠志郎だった。

 穏やかな表情で見守るように巴と母を見ながら、優しい声音で巴に声をかけてくれている。

 誠志郎は、一度言葉を切ってから、笑みを深くして続けた。


「巴が淹れてさしあげて。……巴の紅茶は、懐刻堂の味だからね」


 巴は弾かれたように誠志郎を見た。

 今までは、巴が淹れた紅茶を味見してくれる事はあったし、味を褒めてくれる事はあった。だが、店で出していいとは言わなかったのに。

 それを、今初めて良いといってくれた。他でもない、巴の母へ。

 初めて店で淹れる紅茶を、母に飲んでもらいなさいと、温かな笑みと言葉で巴の背を押してくれるのだ。

 巴は胸に色々なものがこみ上げてきて、目頭が熱くなってきた。思わず、そのまま涙しそうになってしまう。

 けれど、泣いているわけには行かない。

 今、巴は懐刻堂の人間として店に立っている。お客様の前で泣いたりできない。

 それに、せっかく前進できたのだ。泣いている暇などない。


 巴は、はにかみながら母と弟を席へと案内する。

 娘の顔に笑みを見た母は、一瞬泣き出しそうな顔になったものの、弟に促されて席につく。

 カウンターに戻った巴は、紅茶を淹れ始めた。

 幼き日に魔法使いと思った誠志郎の姿を思い浮かべながら、思い出と、重ねてきた想いを辿るようにして、自らも魔法使いになる。 

 不思議な程に手が滑らかに動く。手順に一つの澱みもなく、巴は母と弟の為の紅茶を淹れた。

 心をこめて。これまでから、これからに繋げる気持ちをこめて。

 やがて、明るい橙色の水色に花のような芳香の漂う紅茶が、母の前にてカップに注がれて。

 巴はその日、母の顔に久しぶりの笑顔を見たのだった……。



 失われた時間を取り戻す第一歩を踏み出せた日の晩。

 巴は、居間にて唸っていた。

 大好きな紅茶を上手く淹れられたと思う。母も和も美味しいと喜んでくれた。

 だがしかし。


「やっぱり、もう一歩といいますか……」


 巴としてはやはり、誠志郎の紅茶に並ぶには足りないと思ってしまったのだ。

 具体的に自分で味わったわけではないのだが、香りが足りないというか。本当に何となくになってしまうのだが。

 そんな巴を見て、まだ言っている、と誠志郎は苦笑する。


「だって、誠兄さんの美味しい紅茶には、敵わないって感じちゃう……」

「本当に巴は自分に厳しいね……」


 クッションを抱き締めたままソファにて身を縮めて唸る巴の隣腰を下す誠志郎。

 苦笑していた誠志郎だが、巴を見つめながら誠志郎は少し考えた後、優しい笑みを浮かべると口を開いた。


「巴が僕の紅茶を一番美味しい、って思ってくれるのは。僕の事を好きでいてくれるからだと思う」


 静かに、穏やかに。温かな幸せを噛みしめるように言われた言葉に、巴は戸惑ったように誠志郎を見上げる。

 返ってくる眼差しには、とびきりの愛しさがこもっていた。

 誠志郎はそのまま、静かに腕を回して巴を抱き寄せる。

 温かくて広い腕の中にとらわれて、誠志郎の鼓動を感じながら目を細めた巴の耳に、優しい囁きが降って来る。


「だから、僕にとっては巴が淹れてくれた紅茶が、一番美味しい」


 温かで落ち着く優しい場所にいるのに、巴の心は幸せ過ぎて揺れている。

 頬が赤くなっているのがわかる。いや、頬どころか耳まで赤くなってしまっている気がする。

 気まずくて俯いてしまいそうになるけれど、視線を感じておずおずと顔をあげる。

 そこには、巴の大好きな笑顔があった。

 誠志郎は巴を暫くそのまま見つめていたが、ふと口を開いた。


「巴に、聞きたい事があるんだけど」

「何……?」


 首を緩く傾げながら口にされた言葉に、巴は不思議そうな表情で答える。

 きょとんとした様子を見て笑みを深めた誠志郎は、不意に巴の耳元に口を寄せて囁いた。


「……『俺』はいつまで兄さんなのかな? 奥さん?」


 あ、と巴は思わず声をあげかけた。

 ついつい、今までの呼び方をしてしまっている。せっかく求婚を返してもらって、幸せいっぱいの日々だというのに。

 呼び方を変えられていない事に気づいて慌てて、巴は何とか誠志郎さん、と呼ぼうとした。

 しかし。

 いざ呼ぼうとすると、照れてしまって声にならない。

 顔がもう熱くてたまらないし、焦ってしまって狼狽えた声しか出てこない。

 そんな巴を見つめていた誠志郎は、思わずといった風に吹き出すと、巴に向かって微笑んだ。

 そして、巴をしっかりと抱き締めた。

 ゆっくり、これから慣れていこう。そう耳元に優しい囁きを落しながら。

 巴は幸せな感触を全身で感じて、胸に満ちる温かな想いに目を閉じながら、そっと広い胸に頬を摺り寄せた――。




 哀しい夜がありました。

 切ない思いに、後悔に、流れた涙がありました。

 いつしか、先へと願いを託すことを諦めていました。


 でも、二人は立ち向かいました。

 そして、時が再び動き出し、二人を覆っていた霧は晴れました。 


 もう、何時の日かを夢見る事を諦めなくてもいいのです。

 二人で、何時の日かを望む事が出来るのです。


 これからを、共に紡いで行けるのです。

 いつか、想いが、思い出が、懐かしき刻として語れるようになる日まで。

 二人が、この古きと新しきが溶け合う街の、懐古譚の一つになる日まで――。

 

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函館幻想懐古譚 おしかけ花贄と吸血鬼の恋紡ぎ 響 蒼華 @echo_blueflower

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