失いたくない

「そう簡単にお帰り頂くわけには行かないの」


 何時の間にどのように、先回りしたというのだろうか。

 巴が愕然として見つめる先には、深雪が立ちはだかっていた。

 やや蒼褪めながらも、暗い光を宿した険しい形相で誠志郎を見据えながら、巴は口元に歪んだ笑みを刻む。


「まだ陽があるもの。……まだ、こちらに有利よ」


 銀色に輝く刃を向けられながら言われた言葉に、巴ははっとしながら誠志郎を見る。

 そうだ、吸血鬼は日中、陽の光を受けて灰になる事こそないが限りなく無力化されるという。

 深雪がどんな力を持っているかわからないし、どのような手段を使うかわからないけれど。まだ、誠志郎にとっては不利な時間の筈だ。


「それでも、貴方を突破する事ならできる」

「大した自信ね」

「……それぐらいで居てもらわねば困る」


 その場の人間が、驚きに目を見張る。

 巴が弾かれたように振り返ると、そこには何時の間にか、アーサーが追いついて来ていた。

 深雪の配下は姿を現わさない。まさか、殺してしまったのか……と胸を過った問いを察したようで、アーサーはただ「気絶に留めた」とぶっきらぼうに告げた。


「深雪・ハーシェル」


 口惜し気に唇を噛みしめ睨みつける深雪を真っ直ぐに見据えて、アーサーは彼女の名を呼んだ。そして、厳かな口調で静かに、淡々と言葉を紡いでいく。


「お前の夫が出くわした相手が悪かったのは同情すべき点だが、吸血鬼はただ狩られるだけの存在ではない」


 言葉の始めは少しばかり表情が物憂げに歪んだところを見ると、若しかしたらアーサーは深雪の夫の仇について知っているのかもしれない。

 しかし、すぐに表情を引き締めると、再び厳しい面持ちにて言葉を続ける。


「狩る者が狩られる者になる事とて、想定できたはずだ。……我々も、人の血を糧に生きる以上、人に牙を向かれる覚悟はしていた」


 深雪は何も答えない。唇を噛みしめたまま、突き刺すような眼差しをアーサーに向けたまま、沈黙している。

 アーサーの言の葉は止まる事はなく、花狩人の女性に己の咎の有無を問い続ける。


「倒れされる仲間たちを見て来たのだろう。それでも狩人たる事を選んだのは自分達だろう! それとも、自分達は大丈夫、とでも思っていたのか?」

「アーサー、もういい。……止めてくれ」


 言葉を失い激しい眼差しを向けるしか出来なくなっている女性へ、アーサーは容赦ない言葉を浴びせ続けていた。

 それを静かに止めたのは、誠志郎の複雑な響きを帯びた一声だった。

 あまりの激しさに、やりきれなさに。巴が顔色を失くしながらその場を見つめるしかできない横で、誠志郎は深雪に向き合う。


「深雪さん」


 懐刻堂の常連客となってくれた、気さくなご近所さん。

 巴も交えて笑い合いながら会話できた時が、酷く遠い過去のように思う。

 もう戻れない。戻ってこない。

 誠志郎は、沈黙したままの深雪に静かに告げた。


「あなたが吸血鬼という種を憎み、僕を狙ってくるのは甘んじて受け止める」


 吸血鬼は人の血を糧にする。そして、悪戯に人を苛むものもある。故に、憎まれたとしても何も言わない。

 そして、誠志郎はその吸血鬼という種において血統の枢軸である存在。立場にあるものとして、責めを負う覚悟はある。

 けれど。


「ただ、巴に手出しするなら容赦はしない」


 巴が思わず目を見開く。誠志郎の横顔を見上げると、そこにはあまりに真摯な色があった。

 眼差しは静謐でありながら、潜むのは鋭い怒りだった。

 巴に仇なす者には欠片の容赦も与えない、誠志郎が心の底からそう思っているのが、伝わってくる。

 次の瞬間、沈黙したままだった深雪が弾かれたように叫んでいた。


「承諾なしに花嫁にしたくせに! 好意を抱いてくれているのを、いい事に……!」


 巴は思わず声を上げかけた。何故、それを知っているのだと問いかけた。

 あの夜にあったこと――我を忘れた誠志郎によって巴が死にかけ、花贄として命を繋がれた事を何故知っているのかと。

 もしかして、と巴は心の裡で呟く。

 花狩人として機を窺い誠志郎の近くに潜んでいた深雪。

 あの夜に誠志郎を襲撃したのは深雪、またはその意を受けたものなのでは。

 襲撃者はきっと、誠志郎に止めをさすために追ってきたはずだ。けれど、懐刻堂は誠志郎に仇なそうとするものを拒む。

 深雪は見ていたのかもしれない。やってきた巴が店に入っていく姿を。そして、その後に起きた出来事を……。


「無理やり血を吸って死なせかけて……! 行きがかりで花嫁にしたくせに……! よくもそんな事を……!」


 叫ぶ深雪の顔からは、不思議な事に先程まで見え隠れしていた憎悪が消えていた。

 あるのは純粋な怒りだった。自分こそ巴を害したくせに何をと誠志郎を責めている。

 まるで、過ぎ去った日々に、誠志郎が巴に対して不誠実だとお説教した時のように。純粋に、怒って。


「確かに巴を選んだのは逃れられない状況だったからだった。……けれど心のどこかで望んでいた事も、否定できない」

「え……?」


 やや呆然と深雪の様子を見ていた巴だったが、それに応えるように告げられた誠志郎の言葉に更に目を見開く。

 掠れた声を零しながら見つめる先で、誠志郎は静かに己の胸の裡を――巴にも今まで伝えられなかった想いを、静かに紡ぎ始める。


 自分には、かつて想い人がいた。

 想い人――嘉代と巴は、よく似ている。

 けれど、間違いなく違うもの。

 始まりの頃は違いに心が痛み。時を共に重ねていくにつれ、その違いにこそ心は揺れた。

 晴れの日も、雨の日も。冷たい木枯らし吹く日も、春一番に目を細める日も。

 巴は、いつも花のような笑顔と共に訪れてくれた。

 巴は、年を重ねるにつれて、綺麗になっていく。輝いていく。

 何時しか、それが自分の為かもしれないと思えば、喜びを感じるようになった事に気付いていた。

 それでは、いけないというのに。必死に押し隠しながらも、その想いが生じるのを止められなかった。

 思えば思う程、巴に真実を隠している事が辛くなっていく。

 巴ならば、受け止めてくれるのではないか。真実を知ってもなお、自分を受け入れてくれるのでは。

 期待しては打ち消し、自分を戒めてもなお募る。

 あの夜、自分の腕の中にいる巴を助ける為に赫花の蜜を与える時。

 触れた唇を、しあわせ、と思ってしまった。

 何て身勝手で、浅ましいと自分を笑いながらも、真実を話せたのが、共に生きる事になったのが巴で良かったと。

 心から思っているのだと語る誠志郎の表情は、とても切なくて、でもとびきり優しかった。


「だから、僕は巴を失いたくない。巴に仇なすものは、何であろうと許さない」


 一つ、二つ、雫が頬を伝っては落ちていくのを感じた。

 だって、身代わりだと思っていたから。仕方なくだと思っていたから。

 巴自身を選んでくれたわけじゃないのだと、思っていたから。

 語られた言葉があまりに優しくて、嬉しくて。自分がそう聞きたいと思っていた言葉だったから、一瞬夢を見ているのかもしれないと思った。

 でも、違う。

 これは、本当に、本当に、現実だ。

 誠志郎は、巴自身を見て、傍にいてくれているのだ――。

 二人に交互に眼差しを向け、様子を見比べた深雪の表情に浮かぶのはあまりに複雑な苦々しさだった。


「……それなら、ちゃんと伝えてあげなさいよ。二人揃って言葉が足りないったら」


 溜息と共に紡がれた言葉はあまりに微かなもので、巴には聞き取れなかった。

 首を傾げる巴の横で、誠志郎は苦笑し、アーサーはまったくだ、とでも言うように肩をすくめて息を吐く。

 巴が深雪に向けて口を開きかけた時、複数の足音が聞こえてきた。

 見れば、深雪の部下達がよろめきながらも駆け寄って来る。

 深雪は瞬時に表情を引き締めたかと思えば、ぼろぼろの状態で歩み寄ってきた者達に低く告げた。


「退くわよ」

「ハーシェル様!」


 思わぬ命令だったのだろう。聞いた瞬間男女は悲鳴のような叫びを上げるが、深雪は彼らを怒鳴りつける。


「黙りなさい! 始祖と血統中枢の吸血鬼を、その状態で一度に相手にしたいの⁉ もたついている間に、夜になるわよ!」


 打たれたようにびくりと部下達は動きを止める。

 彼らはアーサーに打ちのめされ満身創痍の状態である。それに加えて、ここにはアーサーだけではなく始祖たる誠志郎まで居る。

 形勢的には恐らく彼女達は不利だろう。更には、もう少しすれば夜が来る。吸血鬼が最も力を増す刻が。


 吸血鬼達に追撃の意図がない事を察した花狩人たちは、瞬時に背を向けたと思えば全力で駆けだして行く。

 それを守るように残っていた深雪は、ある程度彼らが離れたのを悟ると身を翻した。

 背を向ける間際、思わぬ優しい声音で紡がれた言葉が巴の耳に届く。


「……咲洲修護が遺したものは、ある女に繋がるものよ」

「え?」

「さよなら、巴ちゃん」


 巴が目を瞬いて聞き返した時には、既に深雪は駆けだしていた。

 内容を飲み込めないでいる間に、見る見る内に深雪の姿は遠ざかり、小さくなっていく。

 それは、どういう事なのと聞きたかった。

 でも、それに応えてくれる人はもう居ない。ご近所の優しいお姉さんは、もう居なくなってしまった。

 空を見上げると、一番星が薄っすらと姿を現わしたのが見えた。


 暫く三人は花狩人が去って行った方向を見つめながら、揃って沈黙していた。

 だが、不意に空気が揺れた。

 そちらを見れば、アーサーが二人に背を向け歩き始めていた。


「あの女に同意するわけではないが。少しは話し合え。お前達は、言葉が足りない」


 渋面のまま説教をするようにそう告げると、アーサーは二人の言葉を待たずに足早に去っていく。

 消えていく金色の残滓に目を細めながら、黙って見送っていた二人。

 またも沈黙がその場を支配しかけたが、それを破ったのは誠志郎だった。


「……僕の気持ちはさっき言った通り。でも、まだ心の整理が終わってない」


 巴を巴として見ている。嘉代の身代わりではなく、巴として想っている。

 けれども、燻るように過去の恋にまつわる痛みは残っていて、癒えてはいない。

 心の整理がつくまで、あともう少し。巴と真正面から向き合って、本当の想いを真っ直ぐに伝えられるようになるまで、あともう少し。


「女々しくて申し訳ないけど。……もう少しだけ、待ってもらえるかな?」


 ばつ悪そうに言う誠志郎が、少しだけ情けなくて。

 でもそんな誠志郎が、可愛くも見えて、愛しくて。

 巴は、満面の笑みを浮かべて答えた。


「私は、十年待った女ですもの。……もう少しぐらい、待ってあげる……!」


 誠志郎を抱き締めるように飛びつきながら、巴は誠志郎の胸に頬を寄せる。

 温かで、幸せな感触に目を細めながら。

 そんな巴を優しい苦笑いを浮かべながら見つめていた誠志郎は、静かに彼女を抱き締めた――。


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