救いの手


 どうしてここに、と問いたくても中々言葉として紡げない。

 もう会えないと思っていた人が、現の感触を伴って傍に居る。それだけで、言葉にならないものが胸の裡に満ちていく。


「遅くなってごめん。……怖かっただろう?」

「ううん。ごめんなさい。私が、言う事聞かなかったから……」


 涙が溢れそうになるのを必死で堪えながら、巴は誠志郎に縋りついた。


 誠志郎が居る。幻じゃない、本物の。

 ここに居て、巴を抱き締めてくれている。


 確かに感じる誠志郎の存在に胸がいっぱいで、同時に小さな反発から窮地を招いた申し訳なさに唇を噛みしめ俯いてしまう。

 誠志郎は巴の手からナイフを取り上げて放り投げると、静かに巴の頭を撫でる。

 優しい手に、尚更巴が泣きそうになっていると、冷静な声が聞こえた。


「いちゃつくなら後にしろ」

「アーサー!」


 弾かれたようにそちらを見れば、大きく嘆息する人影。

 やや半眼気味の蒼い眼差しを向けた、少年の姿をした吸血鬼も居る事に漸く気付く。

 何故と疑問に思うやら、恥ずかしいやら。狼狽えながら見つめる巴の眼差しから疑問を読み取ったのか、アーサーはもう一つ大きく息を吐いてから言う。


「最近動きを見せた花狩人の中に、お前達の周囲に居る女の顔があった。……と知らせにきたら、まさかその女とのこのこ出かけていくとは思わなかった」


 走り去る車の中に巴と深雪が談笑する姿を見かけたアーサーは愕然としたという。

 車に追跡の術を施すのと同時に、誠志郎の元に急行した。

 巴と連絡がつかないと焦る誠志郎を叱咤して、首根っこ引きずるようにしてここまで来た、とはアーサーの言である。

 誠志郎がばつ悪そうにしている辺り、過度に誇張された説明でもないのだろう。

 誠志郎とアーサーの出現により、花狩人たちの顔に緊張が走る。

 それぞれに得物を手にしながら、顔を強ばらせつつ二人の出方を伺っている。


「始祖……。それに、アーサー・リスター……!」


 深雪が、呻くような低い声で呟いた。

 厳しい眼差しを新たに現れた二つの影に向ける様子に、もう巴が親しんでいた『優しいお姉さん』の片鱗はない。

 光のささない世界に生きる、一人の狩人がそこに居る。


「この通り、むざむざ花嫁を攫われる情けない始祖でも。我らの血統の祖である事には変わりない」


 アーサーは一対の蒼玉を深雪に据えると、不機嫌さを隠そうともせずに言い放つ。

 巴は思わずびくりと身体を強ばらせる。

 何かが膨れ上がるような気配をアーサーから感じる。

 巴の戸惑いの視線の先で、アーサーは明確な怒りの籠った声音で叫んだ。


「してくれた事の礼はさせてもらうぞ……!」


 誠志郎にお前はそいつを守っていろと短く叫んだ直後、アーサーの影から猛烈な勢いで飛び出した何かが深雪達へと襲い掛かる。

 あまりに早すぎて正確にその形は視認できないが、それらと応戦しながらも、銃は使うなと深雪が叫んでいるのが聞こえる。

 銃声が響いては問題があるだろうが、あくまで巴を傷つけずに捕らえるつもりなのだろう。

 経緯についていけずにいると、誠志郎の片腕が不意に横薙ぎに振るわれる。

 疑問に思った巴の後方で、何かが吹き飛び、激突する音がする。何時の間にか相手の一人が、如何なる術を用いたのか二人の横に回り込んでいたようだ。

 そちらに目を向ける事もせず人間一人吹き飛ばして見せた誠志郎に、思わず巴は目を瞬いた。

 そして、ふと気になったことがある。


「誠兄さん、無理してない……?」


 多分、今のは吸血鬼としての力の一端だろう。

 けれど、誠志郎は血を摂らないが故に消耗していた筈だ。その状態で力を振るって大丈夫なのかという懸念が胸を過る。

 表情からそれを読み取ったらしい誠志郎は、苦笑しながら答える。


「輸血用血液のパックを飲んだから、多少は大丈夫」

「そんなものをどこから……」

「企業秘密」


 巴が恐る恐る聞いてみると、返ってきたのは含みのある言葉だった。

 確かに、聞きたいような聞きたくないような。

 つまり、誠志郎は吸ってはいないが血を摂取した。それで多少は力を行使できる状態なのだろう。

 しかし、何故か妙に顔色が悪いような気がする。確かに力は満ちているとは感じるのに、げっそりとやつれているような。


「……何か、やつれてる気がするんだけど……」


 巴が言った瞬間、誠志郎の肩が跳ねる。

 逡巡の沈黙の後、すっ、と視線を知らしながら誠志郎は控えめな声音で呟く。


「吐きそう……いや、少し不味かっただけ……」

「むしろ、毒を飲んだのではないかというくらい酷い狂乱ぶりだったぞ……!」

「仕方ないだろう! 本来受け付けない筈の物を、無理やり流し込んだんだから……」


 誠志郎の低い呟きを聞き取ったらしいアーサーが、影で敵の攻撃を受け止めながら叫んでくる。

 余計な事をいうなと言わんばかりに顔を顰めながら叫びかえす誠志郎を、巴は思わずまじまじと見つめてしまう。

 成程、受け付けないというのはそういう事か。

 人間も、身体にとって毒になるものは不味くて受け付けないというが、始祖にとって花贄以外の血がそうなのだろう。

 だというのに、誠志郎は血液パックを摂取した。そんな思いをしてまで、巴を助けにくるために。

 ごめんなさい、と呟いて俯いてしまった巴の頭を、あやすように誠志郎は撫でてくれる。きっと、優しい笑みを浮かべているのだと思う。

 一際大きな衝撃音と共に、アーサーの叫びが聞こえてくる。


「連れて先にさっさと行け! そこに居られると加減ができない!」

「相手は複数だ! 気を付けろ!」


 叫ぶアーサーは、確かに苦戦してはいないが苛立っている様子だ。 

 ここはそう広いわけではない。もしもアーサーが大きな力を振るおうとしたら、巴達を巻き込むことになるだろう。

 誠志郎は巴の肩に手をやりながら踵を還すと、アーサーへと叫びながら走り出す。

 言われなくても、と返してアーサーが向かい来る敵と再び対峙したのを視界の端に捕らえながら、巴も誠志郎に続いて走り出した。


 通路を進んでも、船の人間らしき姿とは出逢わない。

 余程広い船なのか、それとも深雪たちの息がかかっているからなのか。

 後者である気はする。そうでなければ、あれだけ倉庫で大騒ぎしているのに人が駆け付けて来ないのも不思議な話だ。

 どのようにこの船を利用する運びになったのかは知りようもないし、知りたいとも思わない。

 まずは、逃げなければ。そして、懐刻堂まで辿り着かねば。

 だが、巴としては置いてくることになったアーサーの事が気がかりだった。

 苦戦している様子はなかったが、相手は複数だった。相手の実力の程は不明であるが、大丈夫だろうか。

 それに。


「アーサー、凄い怒ってた……」


 隠しきれない怒りに、アーサーは険しい顔を崩さなかった。顔の造作が美しい分だけ尚更恐ろしさは増していた気がする。

 その怒りの原因が自分の迂闊さにあると思えば、申し訳ないやら怖いやら。

 言い淀んでしまい最後まで言えない巴を連れて駆けながら、誠志郎は呟いた。


「巴に怒っていたわけじゃないよ」


 全く違うとは言わないけど、原因は別にある、と誠志郎は一つ息を吐いた。

 不思議そうに見上げる巴を見て誠志郎の口元には、少しばかり優しい笑みが浮かぶ。


「昔から、ああなんだ」


 思わず首を傾げてしまった巴に、苦笑交じりに誠志郎は言う。

 厳しい態度を崩さなかった少年の姿をした吸血鬼に思いを馳せるように、視線を元来た道の先へと巡らせながら。


「厳しく当たってくるけれど。結局、見てられないって言ってはあれこれこまめに世話を焼いて来る。身内と思った相手には、無自覚に面倒見がいいし、甘いんだ」


 誠志郎の言葉を聞いて、巴は一瞬きょとんとする。遅れて内容を理解すると、こくりと頷く。

 ああ、成程。いわゆる『ツンデレ』という奴か。

 誠志郎に対して、お前など、と言いながらも警告に現れ。突き離すような厳しい事を言いながらも、いざという時は結局助力してくれる。

 言われてみれば、典型的なツンデレと言えるかもしれない。本人に言ったらそれこそ怒鳴られそうだが。


 走っている内に、巴は息が切れ始める。速度が落ちて、一度足が止まる。

 意識しないようにしていたが、再び頭痛が少しずつ蘇ってくる気がした。薬の影響が完全に抜けきらないうちに無理をしたからか。

 でも、足手まといになるわけには、と自分を叱咤して誠志郎に大丈夫と言おうとした。だが、次の瞬間だった。

 気付いたらしい誠志郎が、巴を横抱きに抱えあげたのだ。

 狼狽えてしまい言葉を発する事ができない間に、誠志郎はそのまま驚くべき速度で駆け始める。

 床を蹴り、時として壁を蹴り。宙を飛んで移動しているような感覚すら覚えていると、誠志郎はあれよという間に船内を走り抜けて、気が付けば船の外だった。

 雲に覆われた空を見上げながら、巴は呆然としてしまう。今、何が起きていたのかと理解が追いついてこない。

 だが、次第にわかってくる。実感する。この人は本当に人間ではないのだな、と。


 誠志郎は巴に大丈夫かと確かめてから、そっと下ろしてくれる。

 巴が頷いたのを見て歩き始めようとした誠志郎の足が唐突に止まる。

 何があったのかと、その視線の先へと眼差しを向けた巴は驚愕に目を見開く。


「深雪さん……⁉」

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