花狩人


 巴は、何時しかまた夢を見ていた。

 やはり、登場するのは同じ女性だ。

 嬉しそうに笑う女性の傍には、小さな男の子と可愛い女の子がいる。

 おそらく女性の子供達なのだろう。二人は母に甘え、母は優しく二人を抱き寄せる。

 幸せそうにしていた三人が、ふとある方角を見て顔を輝かせる。

 そこには、懐中時計を女性に渡した男性がいた。

 男の子を抱き上げ、女の子の頭を撫でる男性。多分、男性が二人の父親なのだろう。

 絵に描いたような、幸福そうな家族の姿だった。

 はにかむ女性の胸で、懐中時計を通した鎖がきらきら揺れていた……。



 そして、巴はゆっくりと瞼を開ける。

 酷く身体が重い感じがする。瞳を開こうとしてもなかなか思うようにならない。

 それでも、と無理をしようとすると稲妻のような痛みが生じて思わず顔を顰めてしまう。

 焦らぬようにと言い聞かせながら、ゆっくり、慎重に再び瞼を開こうとする。

 少しずつ光が差し込んできて、巴の今ある環境が輪郭を明らかにしていく。

 そこは、コンテナや大型の荷物が詰まれていて、倉庫とも思える場所だった。

 人影が幾つかある。それは、男女数人であって、何故か見覚えがある気がして……。

 次の瞬間、巴は目を見開く。

 あれは、お遣いの帰り道に巴の事を襲撃した人達だ。何故ここにと眉を寄せた時、不自然な明るさを伴った声が巴の耳に届いた。


「目が覚めた? 巴ちゃん」


 不穏な空気漂う非日常の空間に響いた、日常で馴染みのあった声。

 視線をそちらに向けると、淡い笑みを口元に浮かべながら首を傾げる深雪が居た。


「……深雪さん。これは、どういう事ですか?」


 どう見ても、楽しくランチという感じではない。流石に、この状況でそう思えるほど、巴は馬鹿ではない。

 後ろ手にされた挙句に、戒められている。端的に言って、巴は今拘束されている。


「わかりやすく言うと、誘拐させてもらったの」


 深雪の顔から笑みが消える事はなかった。れっきとした犯罪をしてのけたというのに、深雪はさらりと何でもない事のように言ってのける。

 巴は、すぐに冗談よ、と言ってくれればいいのにと思った。だが、笑みを浮かべる深雪の瞳にある暗い光に気付いて、諦める。

 自分は確かに誘拐されてしまった事に間違いない。それも、姉のように思っていた女性に。

 何のために、その答えは可能性として思い浮かぶものの、線で繋げたいものではない。

 しかし、事が既に此処まで至っていては、現実逃避をしている場合でもないのだ。

 深雪は、以前巴を攫おうと襲撃してきた人間と共に居る。彼らに対して指示を出しているところを見ると、深雪がこの場における司令塔のようだ。

 彼らの、そして深雪の正体に、巴は一つだけ心当たりがあった。


「花狩人……」

「そういう呼び方もされているみたいね」


 吸血鬼を狩る者達。吸血鬼の始祖である誠志郎を狙う、彼やアーサーの敵。

 その呼び名を口にすると、あまりにあっさりと、深雪は微笑んだまま頷いて見せた。

 巴は内心で大きく嘆息する。それならば、巴がこうして攫われた理由など明白だ。


「花嫁を定めなかったあの始祖が漸く定めた。これは好機だと上層部が判断したの」


 始祖にとって花嫁……花贄は糧であり力の源であり、弱点でもある。定める事は始祖にとって利益はあるが、不利益もある。

 万が一にも花贄を敵に奪われてしまえば、始祖にとっては致命的だ。

 何故なら。


「始祖は花嫁以外の血を基本的に受け付けないし、力を得られない。貴方が居なくなって、飢えて弱体化するのを待って仕掛ければいい」


 やっぱり、と巴は顔を顰める。

 アーサーから聞かされた、始祖は花贄以外の血を受け付けない。巴以外の血から力を得る事も糧を得る事も出来ない。

 そんな巴が敵の手に落ちたなら、誠志郎はいずれ弱体化する。


「大丈夫よ。巴ちゃん、貴女は殺さない。丁重に閉じ込めて、生きられる限り生きてもらうから」


 笑いながら深雪は言うけれど、巴は険しい眼差しを向けたままだ。

 殺さないというのが情けから来るものではない事を知っている。

 始祖は一度に一人しか花贄を定められない。

 巴が万が一殺されれば、誠志郎は次を定める事が出来る。それでは、彼女達の目論み通りにはならないのだ。

 恐らく、巴は出来る限り、限界を越えてでも無理やり生かされ続けるだろう――誠志郎が衰え、彼らにとって好機が訪れるまで。

 危険を誠志郎が憂いていたのを知っていたのに、小さな反発心から行動してしまった事を心から悔いる。

 けれど、それだけではない。誘った相手が他の人間だったら多分巴は断った。頷いたのは、目の前のこの女性だからだ。


「その為に三年も前から。……私や、誠兄さんを騙していたんですか……?」


 三年前に懐刻堂の近所に骨董品の店を開いた深雪。紅茶専門店に興味を抱いたとして、ある日懐刻堂を訪れて常連になった。

 店で顔を合わせる事が多くなり、自然と話す事が増えた。

 誠志郎にも言えない相談事さえ、深雪には語る事が出来るようになっていた。

 気さくな年上の同性は長女だった巴にとっては、本当に姉のように思っていたのに。

 その全てが、偽りだったというのだろうか。誠志郎を狙い続ける彼女は、笑顔の下でずっと哂っていたのだろうか。

 今この時に至る為の、入念な計画の一部でしかなかったと言う事なのだろうか……。

 巴の言葉を聞いてほんの僅かだけ瞳が揺れたように思ったが、すぐに深雪は深い、深い笑みを浮かべて口を開く。


「……私の夫を殺したのは吸血鬼よ。……誠志郎さんではないけどね」


 深雪は視線を逸らし、遠くを見つめるようにしながら語り始めた。

 彼女の夫は、表向きは骨董商であったが、本来の役目は吸血鬼を狩る花狩人であったという。

 花狩人の組織においても中枢に近い、実力を備えた男性だったようだ。深雪とは、花狩人としての縁で出会い、結婚した。

 幸せだった、と呟く深雪の横顔に滲む過去を愛しむ心は真実だろう。

 けれど、幸せな生活はそう長く続かなかった。

 ある日、彼女の夫は何時も通りに任務に出発した。特に力ある吸血鬼が相手では無かった筈だった。

 だが、彼の不運はその影にとある始祖が潜んでいた事だった。

 遭遇した始祖吸血鬼は、酷く残虐な性質だったようだ。

 猟奇的な殺害のされ方をした夫は、人の姿を為していなかった。一目見たら忘れられない程悪趣味な、残酷なオブジェと化していた。

 あの日、深雪の世界は壊れたのだ――。

 記憶から永劫に『夫だったモノ』の姿は消える事はないだろうと、語る淡々とした声音の底には滾るような憎悪が潜んでいるのを感じる。


「吸血鬼は一体残らず狩らなければならない。特に始祖は新たな吸血鬼を増やす、忌むべき存在」


 低い声音で語り続ける女性は、巴の知っている深雪ではなかった。

 瞳の奥に暗い光を宿した彼女は、吸血鬼という存在を憎み、その憎しみを支えに歩み続ける復讐者だ。

 真っ直ぐに巴を見据えながら、深雪は最早笑みを浮かべる事もせず、淡々と続けている。


「今は完全に殺す術がないから。生かさず殺さずの状態で封じるしかないけれど。……何時かは、塵も残さずに消し去ってみせる」


 何時かを語る深雪の瞳には、狂気すら感じて背筋に寒気が走る。

 そういえば、始祖は『呪い』を他者に引き継がなければ終わる事ができない、と誠志郎が言っていた。

 それはつまり、死ぬことが出来ないということで。花狩人をもってしても倒す事が出来ないということなのか。

 だが、彼らが始祖に施す処遇は、恐らくはただ殺されるよりも惨いものとなる気がする。

 そんな目に、誠志郎を合わせたいはずがない。

 深雪が哀しい想いをした事は確かで、復讐を考える気持ちは分かるし、それは止めるつもりはない。

 ただ、それが吸血鬼という種族全体に向いてしまっているのは納得できない。

 確かに、吸血鬼は人の血を糧にして生きる。人にとって、吸血鬼は自分達を脅かす脅威であると思う。でも、吸血鬼の全てが悪戯に人を害すと思えない。

 頑なに血を吸おうとせず密やかに生きて来た誠志郎、彼に警告に現れ、自分を助けてくれたアーサー。

彼らも一絡げに復讐の矛先を向けられている事には、正直腹が立つ。


 そう思えども、今の状態は限りなく巴にとっては不利だ。

 拘束されている上に、周囲は武器を手にした敵だらけ。ここが何処なのかもわからないなら、地の利は相手にある。

 今ある場所について把握できれば、と思って感覚を研ぎ澄まそうとした時、ある事に気づいて目を軽く見張る。

 潮の匂いに、微かに耳に届く打ち寄せる波の音。

 それに、ほんの僅かだけど感じるのだ。立っている面が、揺れていることに。恐らく、普通の人間では感じ取れないであろう微かなものであるが。


「もしかして、船の上……?」

「あら、よくわかったわね」


 やや呆然と呟いた巴の呟きを耳にした深雪は驚いたように目を瞬いた。

 自分が抱いた疑問を肯定された巴は、やや蒼褪めながら深雪を凝視する。

 察するに、この船は函館港に停留する貨物船の一つなのだろう。恐らく、船内の倉庫の一つだ。

 まずは巴を連れて海外に出るつもりのようだ。函館から繋がる航路を考えればまず何処にいくかは大体想像できるが、その後は。

 最終的に何処に連れて行かれるかは説明されなかったが、聞きたくもない。

 船が出る前に逃げ出さなければ、このまま巴は誠志郎と分かれたまま、知らぬ場所で彼を窮地に追い遣り続ける事になる。

 当然ながら、そんな事は御免だ。


 思う故の拒絶のこころが裡に生じた瞬間だった。

 身体の内側に灼熱感を覚えたかと思えば、それが緩やかに伝わるように移動していき、戒められた手首に絡みつくように宿る。

 湧き上がる力のままに思い切り手を振り払う仕草をすると、戒めは呆気ないほど簡単に千切れた。


 驚愕する深雪や他の人間達が我に返る前に、巴は近くにいた女に思い切り体当たりをする。

 体勢を崩した女が取り落としたナイフを奪うと、伸ばされる手をすり抜けて駆けて、その場にいる者達から距離を取る。

 相手も唖然としていたが、巴自身も驚いている。まさか、こんな事が出来ると思っていなかったのだ。

 花贄には回復能力や特異な力が備わると言っていたから、これがそうなのだろうか。火事場の馬鹿力にしては、凄すぎる気がする。

 気を抜くと震えそうになる手でナイフを持ち、コンテナの一つを背にして、切っ先を強張った表情と共に深雪たちに向ける。


「……物騒なものは置いて、こっちにいらっしゃい。なるべく手荒な真似はしたくないの。そんなナイフ一本じゃ逃げられないのはわかるでしょう?」


 深雪は一瞬強張った表情をしたものの、すぐに一つ大きく溜息をつくと、言い聞かせるように言う。

 確かに、この状況はナイフ一本を手にしたからといって変わらないだろう。

 巴は武術の心得などないただの小娘。対して相手は武器を手にした、恐らくは荒事にも慣れた者達。

 いかに花贄としての不思議な力があったとしても、使い方がわからない上に、どんな事が出来るのか全く不透明。それでこの窮地を一気にひっくり返せるとは思わない。


 逃げ出す事は無理だろう。

 だが、逃げられなくても、巴の願いを叶える方法は一つだけ残されている。 


「逃げようなんて、思ってない」


 向かってこようとする者達に向けていた刃が、不意に向きを変える。

 深雪は明確に顔色が変え、背後の男女がざわついた。

 手の震えは何時しか止んでいた。


「私は、誠兄さんの枷になりたくないだけ」


 光を弾いて鋭い輝きを放つ刃は、ぴたりと巴の首筋に添えられている。

 最初で最後に花贄として、始祖である誠志郎に対して出来る事がこれだけとは哀しいけれど。

 未練や恐怖がないとは言わない。出来るならば、と思う事はある。

 でも、それ以上に誠志郎の重荷になりたくない。

 巴が消えれば、次を定める事ができる。誠志郎を縛る枷が、無くなる――!


「やめなさい! 巴ちゃんっ……! 駄目……!」


 深雪が咄嗟に手を翳して何かしようとして。

 背後の男女が慌てて巴を取り押さえようと飛び掛かろうとしたのが、酷くゆっくり見えた気がする。

 唇を噛みしめて、ナイフを握る手に力を込めた。

 食い込む刃と痛みを覚悟して、ぎゅっと目を閉じて。


 ――何も起きない事を、不思議に思う。


 待てども、何も訪れない。刃が肌に食い込む事も、血が流れることもない。

 それどころか、とても温かで優しい感触がある。

 これは一体、と心の中で呟いて。恐る恐る、瞳を開いてみる。

 でも、深雪も、彼女の部下も、驚愕の表情で、凍り付いたように棒立ちしている。

 一体何が起きたのだろうと怪訝に思う巴は、ふと気付く。

 誰かがナイフを押さえているような感じがあるのだ。

 巴を捕らえていた人々は、彼女の視線の先にいる。

 それじゃあ、巴の手を掴んでいるのは。

 巴を、優しく止めてくれているのは……。


「本当に……。思い切りが変な方向に良すぎるよ、巴……」

「誠兄さん⁉」


 最後に叶うならば一目会いたいと願ったから、幻を見たのかと思った。

 けれど、確かにこれは現実だ。

 巴が一番恋しいと思う人が、巴の側に立っている。

蒼褪めながら荒い息をした誠志郎が、ナイフを持つ巴の手を掴んで止めている。

 悲痛な光と、僅かな安堵を瞳に宿して。

 片手で巴を止めて、残る片手で巴を優しく抱き寄せてくれていた――。

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