日常のそこにあったもの
巴は、ああ、夢を見ているのだとぼんやり思った。
そこは、見た事がない、何処か。
うつくしいもので彩られた部屋の中は、とても温かで幸せに満ちている。
ここに住んでいる人は、とても愛されているのだと、何故かふわりと感じた。
男の人が、小箱を女性に渡した。
小箱を手にして、中を見て驚いた様子の女性。
中にあったのは、これまた美しい細工の懐中時計だったから。
戸惑った様子だった女性に、男性は何かを語り掛ける。
それを聞いた女性の顔に、やがて、笑みが咲く。
幸せそうに笑いながら、懐中時計に頬を寄せている。
小箱は、見た事のある美しい細工で。懐中時計は、巴に残されたあの時計で……。
とても、優しい光景だった。そして、とても不思議な光景だった。
カーテンの隙間から差し込む朝日を感じながら、巴は何とも言えない感覚のまま目を覚ました。
耳元で騒がしく音を立てるアラームを止めて、一つ息を吐く。
眼差しがゆるりとチェストの上に飾られた象嵌細工の小箱へと向けられる。
どう見ても、夢に出てきたのはあの小箱と懐中時計だ。
以前から、時々不思議な夢を見る事があったが、今回もそうなのだろう。
実害は確かにないけれど、夢を見終えた後に残る感覚はどうにも形容しがたい。
優しくて幸せな光景に見えたのに、感じたのは何故か不思議なものだった。
幸せと感じるが故に、切ない。悲しい、何かを悔いる気持ち。
そして根底にある、それでも愛しいという胸を衝くような想い。
女性は、何故か自分によく似ている気がした……。
物思いに耽りかけた巴だが、すぐに跳ね起きる。完全にもう日は上っている。
寝過ごした! と巴は思わず蒼褪める。
今日は定休日という事で寝かせてくれていたのだろうが、完全に寝坊である。
慌てて居間へ飛び込んでいくと、そこには人影はない。台所も、使った気配はもう薄れている。
テーブルの上には巴の分の朝食が用意されていて、横にはメモが一枚置いてある。
市内ではよくハンドメイドマルシェが開かれるのだが、出店する知人に頼まれ、昼まで店番を手伝ってくるとのことだった。
会場は大きな書店で、欲しい本もあったし行きたかったのに、と巴は憮然とする。寝過ごした自分が悪いのだが、起こしてくれれば良かったのにと。
違う、と巴は裡で呟く。
本当は、そうではないと気付いているから釈然としない、重い気持ちになるのだ。
顔を洗って、もそもそと用意してもらった朝食を摂りながら、巴の表情は暗いまま。
誠志郎は、巴を出来る限り外出させたくないと思っている。なるべくなら懐刻堂の敷地から出ないで欲しいとすら思っているのも知っている。
外出の時は必ず一緒であるし、外に行かなければいけない用事は一人で済ましに行く事も多い。巴が、偶には自分が行くと言っても誠志郎は中々頷いてくれない。
確かに、多少窮屈に思う事もあるが、その事自体は左程気にならない。むしろ、誠志郎が一人で出かける事のほうが余程気になる。
消耗している、とアーサーがいう程だというのに。誠志郎だってかつて襲撃されて、けして安全とは言えないのに。太陽の光がある間は限りなく無力化されるとも言っていたから、尚更心配に思う。
あれから、何度自分の血を吸ってくれと頼んだだろう。一度として聞き入れられた事はない。誠志郎は、一度として巴を花贄として扱った事はない。
何度懇願しても、自分は大丈夫だから、と微笑む誠志郎が辛かった。
花贄となったのに、役割を果たす事もなく。そもそも、本心から求めてもらえたわけではないのに。
何のために、誰のために、巴はここにいるのか。
内側をぐるぐると暗くて重い思考が堂々巡りを続けている。何時しか、巴を食い破って外に溢れ出てしまいそうだ。
その時、矛先となるのはきっと誠志郎だ。それだけはしたくないと、思うのに……。
不意に、脇に置いていたスマホの通知音が鳴る。
見れば、メッセージが届いている。誰からだと画面を見てみれば、深雪からだった。
曰く、前から頼まれていた品が届いたから持っていきたいが大丈夫か、との事である。そういえば、店に飾りたいから、と誠志郎が深雪に何か頼んでいたのを思い出す。
誠志郎が不在な旨を伝えると、驚いたような返信があった。
『定休日なのに、巴ちゃんだけがお留守番?』
『そうです』
『誠志郎さんは? どこかに出かけたの?』
問いと共に、首を傾げる猫のスタンプが送られてくる。
巴は、起きたら居なかった、と書き置きの内容と共にかいつまんで説明を返した。
なるべく不満が滲まないように言い回しは気を付けたが、大丈夫だったろうか。
洗い物を片づけた頃に、再び通知音が響く。画面を覗いてみると、思わぬお誘いが飛び込んできた。
『用事がないなら、今からランチでもいかが?』
お隣の北斗市の住宅街に、隠れ家のようなレストランを見つけたのだという。
たまには女二人でランチと洒落込みましょう、と楽しそうなお誘いに少しばかり考え込む。
誠志郎に黙って行くのが後ろめたく思えたのだ。それに、なるべく誠志郎と一緒じゃないなら、出歩かないでくれと言われているのに、と。
次の通知音とともに届いたのは、そんな巴の迷いを察したかのようなメッセージだった。
『怒られるっていうなら、私が怒られてあげるから』
可愛らしいスタンプと共に送られてきたメッセージに、巴は思わず吹き出す。
深雪のことだ。多分、最近の誠志郎の様子に何か察しているだろう。気を遣わせてしまったなと申し訳なく思う。
けれど、気遣いが嬉しいという思いと、少しの暗い反発心とが手伝って。巴は、一つ頷くと承諾する旨を打ち込んでいた。
最後の返信に既読がついてから、少しして。
身支度整えた巴が施錠をしていると、深雪の運転してきた車が懐刻堂前に止まった。
巴が助手席に乗り込みシートベルトを装着したのを見届けて、車を発進させる深雪。
電車道路沿いを進みながら、車内の話題は、誠志郎についてだ。
「誠志郎さん、最近少し過保護すぎる気がするのよね、まあ、わかるけど……」
どうにも、最近誠志郎が巴を一人で外に出したがらないということに深雪を含め、常連たちも気付いていたようだ。
新婚だし、奥さんが可愛いのだろう、という意見で一致していたようだ。
気付かない間に微笑ましく見守られていたと思えば些か恥ずかしいけれど、実際の理由を説明するわけには行かないので巴は沈黙してしまう。
巴を横目に笑みを深めた深雪は、肩を軽く竦めながら呟いた。
「まあ、男の人ってそんなものなのかも」
苦笑いしながらいう深雪に、曖昧に言葉を濁しながら頷く巴。
何かを思い出すように目を細めつつ、深雪は更に続ける。
「うちの人も、大分過保護だったの。私が同じ仕事をするようになってからは、特に」
「深雪さんのご主人……」
深雪の亡き夫については、そんなに詳しく知っている訳ではないし、直接聞いてもいない。
折に触れての会話からわかっているのは、英国人であったと言う事。今、深雪が骨董商を営んでいるのは、夫の跡を継いだからだと言う事。あとは、仕事中の事故で亡くなった事ぐらいだ。
どのような人だったのかを聞いてみたいとは思うが、こちらからはなかなか聞きにくい話題でもある。
失った悲しみがまだ癒えていないのを、時折感じ取る事があるから。
信号が赤になり、車の進みが止まる。
過ぎ去った日々を愛しむような声音の言葉は、少しだけ哀しい苦笑いと共に続いている。
「これがまた、仕事に関しては厳しいの。まあ、油断が命取りなるから、仕方ないのだけど」
大変だった、と溜息交じりに呟くのを聞いて、巴はふと不思議に思う。
骨董商とはそんなに危険なお仕事なのだろうか。確かに、海外で買い付けするにあたり、巴の想像の範疇に留まらない出来事もあるだろう。
油断が命取りになるとは中々に厳しい世界なのだな、と裡にて思っていると、ふっ、と深雪が笑ったのを感じた。
「そのくせ、仕事以外ではてんでダメダメでね、……オンとオフのギャップが激しいったら」
私生活では、深雪が大分世話を焼かないといけない抜けた処もある人だったようだ。なかなかのドジでもあったらしい。
手がかかった、と呟く言葉は、呆れた風であっても何処か優しい。
「でも、優しい人だった。いい人だった。……だから、失った時は、原因を絶対に許せないって思った」
信号が青になって、再び車が動き出して。
巴は、前方を見据えたままの深雪の横顔をそっと観察していた。
いつも明るくおっとりした雰囲気の女性の言葉に、戻らぬ過去への哀しみと、愛しさと……暗い感情が滲んだように思えたからだ。
「絶対に、一人残らず、消してやりたいって思った……」
巴の視線に気付いているのか居ないのか、深雪は呟き続けている。そして、それは気のせいとは片づけられない程、徐々に暗く重いものに転じていく。
この人は誰だ、という問いが脳裏を過った。
三年前に懐刻堂の近くに店を開いた女性。 過去を懐かしみながら振り返っている、巴にとっては姉のような誠志郎のご近所さん。
知らないうちに、背筋に冷たいものが伝う。
口の中が乾いて痛いけれど、絞り出すように、巴は掠れた声音で相手の名を呼ぶ。
「みゆきさん……?」
こちらを見た深雪は、微笑んでいた。
その瞳に暗く輝く深い澱みを。
そして、その片手に小さなパステルカラーのスプレーボトルを見た。
巴の意識は、そこで途切れた――。
市内でも有数の大型書店は、その日も大層賑わっていた。
店舗中央に位置するホールでは、ハンドメイドマルシェが開催され、大勢の人が笑顔を浮かべながら行き交っている。
店番をしていた誠志郎は、交代の人間がきた事で無事役目を終えて会場を後にした。
ぐっすり眠っていたので起こさなかったが、巴は今頃拗ねている気がする。機嫌を直してもらえるように、何かお土産を買って帰ろう。
そんな事を考えながら歩き始めて、ふと誠志郎の歩みが止まる。
拗ねている、ではないだろう。
巴が最近心の裡で煩悶して居る事は気付いていた。その原因が、自分にある事も。
血を吸うように求められてもそれに応じる事が出来ないでいる。
花贄は始祖に血を与え続ければ、擦り減り、それだけ早く朽ち果てる。分かっていて、どうして彼女から血を吸えるだろう。
ましてや、巴は自分の迂闊さ故に花贄に「ならざるを得なかった」のだ。それを思えば、尚更だ。
でも、それだけか、と己に問う。
見守り続けた咲洲家の娘。哀しい宿命を持つのに、前向きで、ひたむきでな。
守りたいと思いながらも守れなかった、誰よりも愛した者の血を引く少女――。
巴に答えた通り、巴と嘉代はとてもよく似ている。それこそ、生き写しといってもいい。
あの日、巴の祖父が幼い巴を連れて店を訪れた時の驚愕を、今でも鮮やかに思い出せる。
嘉代の面差しを宿す少女を目にして、懐かしさと愛しさと。そして失った痛みが綯交ぜとなった事を思い出す。
以前は、生まれ変わりを疑った事もある。
けれど今は、何故か『違う』という確信があるのだ。けして同じではない、二人は確かに違う存在だと。
違うから、だからこそ。
だからこそ……? 誠志郎は、片手で顔を抑えながら、心の裡で呻く。
花贄にしてしまった事をうけて、罪悪感と義務感とから、巴の求婚を受け入れた。
だが、それも彼女の安全が確保できるまでの仮初のものだ。
巴は、本当は自分なんかと居てはいけない。自分と居ても、巴は幸せになれない。
花贄としての命があれば、或いは咲洲の娘の宿命も越えられるかもしれない。
もし、それが叶わないとしても、もっと明るい場所で咲くべきだ。
この結婚は、いつか、託せる相手が見つかるまでのもの。
巴は自分ではないもっと相応しい誰かの隣で。ずっと、しあわせに笑って。
しかし、次の瞬間、誠志郎は愕然とした表情で凍り付く。
いやだ、と思っていたのだ。拒絶の思いが瞬時に湧き上がり、胸の裡を埋めつくしていた。
咄嗟に胸を占めた言葉に、誠志郎は自分に愕然とする。
駄目だ、それはあってはいけないと戒める。
僕には、俺には、それは許されない。
そう思うのに、次々に胸の裡から湧き上がってくるのは余りに暗く熱を持つ感情だった。
ずっと見守って来た。ずっと傍に居た。
笑ってくれていた。臆することなく、自分に手を伸ばしてくれた。
美味しいと笑顔で、自分の淹れる紅茶を飲んでくれていた。
大人になってからね、という度に、少し不貞腐れた顔をして。
それでも諦めずにいてくれた彼女は、年を重ねるごとに綺麗になっていって。
俺にとって、巴は――!
「あら、誠志郎さん……?」
感情の鬩ぎ合いの渦に呆然と立ち尽くしていた誠志郎は、不意に現に引き戻される。
弾かれたように振り返った先には、見覚えのある老婦人が居た。
懐刻堂の常連客達である。先日、巴が紅茶と菓子を届けた夫婦の奥方が少し驚いた様子でこちらを見ていた。
直ぐに笑みを浮かべると挨拶をすると、老婦人も安堵したように笑う。
今日は夫婦で出てきたのだが、夫は本を選び始めてから熱中してしまい、まだかかりそうとのこと。
しょうがない人よね、と苦笑しつつも、次いで、老婦人はこの間はお茶とお菓子をありがとう、と口にした。
けれど、誠志郎の笑みが揺れたのは次の瞬間だった。
老婦人が、不思議そうな顔をして尋ねてきたのだ。誰からあの人の腰の事を聞いたの? と。
何でも、本人が面目ないからと他に話したがらなかったのだという。だから家族だけしか知らなかったのに、と……。
誠志郎は訝しく思いつつも、深雪の話をした。
しかし。
「あら、最近深雪さんには会ってないけど……?」
心底不思議そうに言う老婦人の様子には、嘘や冗談は感じられない。
ならば、深雪は誰から聞いたというのだ。深雪は、この老婦人にとっては身内ではない。懐刻堂の客という接点しかないのだ。
当たり障りなく受け答えをして、老婦人は去って行った。
だが、誠志郎は裡が騒めきだすのを止められなかった。
知り得る筈のない話を知っていた深雪。
彼女から齎された話を聞いて出かけた巴は、どんな目にあいかけた?
脳裏に蘇る、アーサーの警告――花狩人が動いている、という。
深雪は確かに、三年前からの付き合いがある近所の住人であり、常連であり。巴にとっては姉のような女性だ。
だが、誠志郎は知っている。思い知らされている。
思い出させられる。彼の、彼らの敵は……恐ろしい程に執念深いのだと。
まさか、と生じた疑念を打ち消すために、スマホを取り出すと巴にメッセージを送ろうとする。
けれど途中で、打ち込んでいる間すらもどかしいと、画面を切り替えて、通話ボタンを押した。
呼び出し音が続く。早く、早くと心の中の焦りは募り続ける。
苛立ち交じりに数度同じように試すけれど、終ぞ巴が応える事はなかった。
タイミングが悪かっただけだ。もしかしたら寝ているのかもしれない。
そう思おうとしても無理だった。胸の裡の揺れは、最早嵐の域に達している。
打ち消しても湧きあがって来る、あってほしくなかった仮定。
今起きている事の可能性と、自分の迂闊さへの呪い。
唇を噛みしめながら、走り出しかけた誠志郎は、弾かれたように足を止めた。
そこには、一つの人影があった――。
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