近いのに遠い
ついに市内でも桜が花開いた。
各所で満開だという報せが届き、懐刻堂の客もそれぞれに花見に行ってきたと笑顔で世間話に交ぜてくる。
近所の函館公園にも行って花を鑑賞しつつも出店で花より団子と洒落込み、例年通り桜トンネルと呼ばれる桜ヶ丘通りを歩き、桜を満喫した。
巴は笑顔だった。
笑顔で居続けた――胸の奥に刺さった大きな棘の痛みを隠しながら。
自分が『身代わり』であったという事実は、どうあがいても胸から消えてくれない。
だが、巴に残された時間に限りがある事は確かなのだ。その時間を、哀しい顔で過ごしたくない。
それに、巴がそんな顔をしていれば誠志郎が悲しむ。だから、巴は楽しいと笑い続けた。
返る誠志郎の笑みは、変わらぬように見えても僅かな哀しみを帯びていて。
二人が夫婦と呼ばれる関係になって初めての桜の季節は、ひどくぎこちないまま通り過ぎた。
桜の時期と共にやってくる大型連休には常連客に加えて観光客が立ち寄る事が増え、懐刻堂も忙しい日々が続いた。
当然、慌ただしい日々に突入してしまえば何処かに出かけるどころではなくなる。その前に花見に行けたのは幸いだったと思いながら、巴は必死に手伝いに勤しんだ。
アーサーはあの日以来、直接訪れる事はなかった。
だが、誠志郎の元へは連絡が来ているらしい。誠志郎がその度に表情を固くしているのを見かける。
その様子を見ながら、巴の脳裏にはある言葉が留まり続けていた。
気になるままに放っておきたくない性分である。ある夜、誠志郎に思い切って聞いてみる事にした。
「誠兄さん。……最近、凄く色々と警戒しているみたいだけど」
巴は、最近気になっていたのだ。
最初におかしいなと思ったのは、桜トンネルに出かけた時だった。
それ以来気を付けてみていると、店に居る時はまだ落ち着いているが、買い物などで外に出た時などの様子が違う。
誠志郎は巴を気遣いながら笑顔で隣を歩いてくれていたが、何処かその笑顔が何時もと違うように思えたのだ。
何かを警戒している様子をふとした拍子に垣間見せる、心ここにあらずな雰囲気を感じていた。
「花狩人、っていうのに関係あるんでしょう?」
アーサーが去り際に口にした『花狩人』という言葉と、誠志郎の様子は関係あるという確信がある。だから、ずばりと核心に切り込んでみる。
そもそも、狩人という穏やかならざる単語である。恐らく、良い物ではないはずだ。
巴の問いと、誤魔化しは受け付けないという強い眼差しをうけて、誠志郎は一瞬逡巡したものの、一つ息を吐くと口を開いた。
「吸血鬼の敵と言える存在かな」
誠志郎の表情には、出来れば知らせたくないのだという様子が見てとれる。
しかし、巴はもう誰よりも深いところで吸血鬼という種に関わってしまっている。
隠すほうがより危険と判断したのだろう。誠志郎は巴を真っ直ぐに見つめると、説明を紡ぎ続ける。
「吸血鬼の本質は、人に寄生し血を吸う種に転じさせる『花』だと言われている。実際、始祖の核は赫花だし。眷属たちもそれぞれ核として特殊な花を持つ」
以前見せてくれた赫花が、今の誠志郎の心臓とも言える存在なのだろう。
在り方が始祖に倣うならば、おそらく、アーサーや他の吸血鬼も、そう呼べる『花』を有している筈だ。
そして『花狩人』は、その花を。
「核として花を持つ吸血鬼。その核を狙う者。……吸血鬼を倒そうと狙う人間達だよ」
吸血鬼が人の血を糧として生きるならば、それに抗う為に吸血鬼を倒そうとする者達が生まれても不思議ではない。
巴が知る吸血鬼は、誠志郎と先日会ったアーサーだけ。他にどのような吸血鬼が存在しているのか知らない。
誠志郎は血を吸う事を拒絶している。
けれど、他の吸血鬼も同様ではないはずだ。きっと、人に対して友好的ならざる者とて居る気がする。
いや、今はその顔も知らぬ吸血鬼に思いを馳せている場合ではない。
アーサーは花狩人が動いていると言っていた。そして、誠志郎はあの運命の契機となった夜、誠志郎はどんな状態だった?
「もしかして、あの夜に誠兄さんがあんな怪我していたのも……」
「相手を確かめる暇はなかったから断言できないけど、恐らく」
巴は一呼吸おいてから、やや蒼褪めつつ問いを口にする。聞いた誠志郎は、口元に苦い笑みを刻みながら静かに肯定した。
元々の消耗もあっただろうが、自分を抑えられなくなる程に――我を忘れて目の前の巴に襲い掛かり血を貪る程に、深手を負った誠志郎。
彼を襲撃したのが、花狩人だという。恐らく、先日自分を連れ去ろうとした者達も。
「この店にいる限りは安全だ。そういう力を張り巡らせてある。……けど、外ではどうしても警戒せざるを得ない」
その時初めて、巴は懐刻堂に特殊な力が及ぼされている事を知る。
あの日誠志郎が重傷の状態でも、花狩人が追撃してこなかったのはそのせいか。
この店の中では、誠志郎に敵対する行動は取れないようにしているという。それが花狩人であろうと、同じ吸血鬼であろうと、何者であっても。
「それじゃあ、あまり出歩かないほうが良かったんじゃ……」
「……巴は、桜を楽しみにしていただろう?」
何も知らず、毎年恒例だからと桜を見に行きたいとせがんでしまった事を思い出して、巴は苦い顔をする。
誠志郎の顔には優しい苦笑が浮かんでいるけれど、その優しさがむしろ苦しい。
花贄としての意味も為さない、ただの身代わりなのに。どうしてそんなに優しいの、と責めてしまいそうになる。
先が少ない相手への同情なのかと、ひねくれて考えてしまいそうになる。
出会ってから今までただ只管に信じて要られた誠志郎の優しさの理由を、疑ってしまいそうになる。
「巴もけして安全とは言えないから、一人でなるべく出歩かないで欲しい。出る時は、行先と帰る時間を教えてくれるかな」
「……小さい子供みたい」
皮肉を口にしてしまってから、自己嫌悪する。
誠志郎の表情が、巴の言葉を聞いた瞬間に陰ったのを目にしてしまったからだ。
心配してくれているのは間違いない。確かに、花贄である巴が敵に奪われれば、誠志郎にとっては不利な事だ。
結婚する事で傍において守れると思ったのだろうか。
けれど、誠志郎は巴に花贄としての意味を見出していない。
花贄だから傍においてくれているわけじゃない、結婚してくれたわけじゃない。誠志郎が巴を選んだから、受け入れてくれたわけじゃない。
それならば、何のために――誰のために。
気にしないように……胸に過らせないようにしていた事が、じわりじわりと裡に拡がっていく。
自分を見ていてくれたわけないのだという事実が、巴の心を少しずつ蝕んでいく。
考えないようにしても、結びつけないようにしても、何を考えても全てがそこに辿り着いてしまう。
誠志郎にとって、巴はいつまでも小さな手のかかる妹のまま。そして、嘉代の血を引く、彼女の代わり。
巴が巴として受け入れられる事はないのではという苦い可能性が、どうしても消えてくれない。
また捨て鉢になどなりたくない。せっかく、せっかく諦めないと思えるようになったのに。願いを抱いて、進む事出来ていたのに。笑って、くれていたのに。
守ろうとしてくれているのだ。傍にいさせてくれているのだ。それで、いいと思えばいいではないかと思うけれど。
ああ、こんなに近くにいるのに。こんなにも、遠く感じる。
――最近、何故か紅茶の味が、酷く苦い気がしてならなかった。
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