むかしがたり・二
巴は、目の前のカップから湯気が徐々に失せているのに気付いても、今日はどうしても手を出せないでいる。
語られた、かつての誠志郎。彼が語る先の始祖の事。そして、出会った少女の事。
嘉代という名の少女の名を呼ぶ時、隠しようのない優しい響きが滲む事に、巴は気付いてしまった。
「誠兄さんは」
口の中が乾いていて痛い。声を出すのが辛い。
いや、違う。言葉にしたくないだけだ。心の中に抱いた問いの答えを、誠志郎の口から聞きたくないだけだ。
だって、もうわかっているから……。
「その子の事が好きだったの……?」
「ああ……」
絞り出した問いに肯定の言葉が返された瞬間、巴の胸に激しい痛みが生じた。
俯いてしまった巴には、誠志郎の顔が見られない。
けれど、きっと。
きっと、見た事もない、優しくて切ない表情をしている気がする。
誠志郎は、静かに語り続けた。
始まりは、妹のように思っていた。それが恋であると、気付かなかった。
気付いた時には、もうお互いから目を離せなかった。
ただ、笑みに笑みが返る事が幸せだと思っていた。伸ばした指先に、指先が触れる事が幸せだと感じていた。
賑わう遊郭の片隅で、一つ、また一つと積み重ねるささやかな刻が、とても温かに思えた。
けれど。
二人の恋とも言えぬ淡い想いは、一夜の夢が徒花と咲き乱れる遊郭において、とても幼くささやかなもので。
その幸せがあまりに儚い物である事を、誠志郎も嘉代も、気付けていなかった。
ある日、ユーインの敵娼だった遊女が亡くなった。
流行り病で呆気なく世を去ってしまった。ユーインによる身請け話も出ていた矢先の事だった。
息を引き取った女を抱き締めて、声もなくユーインの後ろ姿が今でも忘れられない。
女はユーインによって手厚く葬られた。寺に投げ込まれるだけの遊女も多い中、まだ幸せであったかもしれない。
姉貴分が亡くなって涙する嘉代を、誠志郎は初めて抱き締めた。
震える儚い身体を腕の中に感じた時、ようやく誠志郎は自分が嘉代に想いを寄せている事に気付いたのだ。
誠志郎の雇い主は、その後も誠志郎を連れて遊郭に通っていた。
亡き敵娼と友誼を結んでいた遊女と、故人を偲ぶ会話をするだけだったが、やはり必ず誠志郎を伴って。後から、誠志郎を嘉代に会わせてやる為だったと気付いた。
ユーインが登楼する度、誠志郎と嘉代はただ他愛無い会話を交わしていた。
男と女としてある事はなかったけれど、心は確かに結びついていた。
しあわせだと思った。
だから、自分達に向けられる険しい眼差しに、気付けなかった……。
季節が巡り函館の街が雪で覆われる頃、嘉代にある話が持ち上がっていた。
嘉代の憂い顔の理由に誠志郎が気付いた頃には、嘉代は禿から新造へとその呼び名を変えていた。
嘉代が姿と呼び名を変えて、誠志郎もまた考え込む事が増えていた。
彼女が何れ遊女として客を取るということを、改めて思い知った。
それは動かしようのない未来としてそこにあったのに、見ない振りをしていた自分に気付いた。
嘉代を身請けしたいと思っても、可能とは言えない話だった。
初見世前の彼女を身請けするとあれば、相場よりも高額な金子が必要となる。
勿論今の誠志郎にはそんなものはないし、奔走したとしても到底足りない。
人に雇われ、家族を支えなければならない誠志郎には、嘉代を身請けする事は不可能だった。
ユーインに相談する事も考えた。だが、躊躇って言い出せずにいた。
その日、嘉代は新しい姉貴分の代わりに客の話し相手をすると言っていた。
不甲斐なさと、やりきれない思いを抱えて廊下を歩いていた時、微かな話し声が耳に届いた。
そちらを見ると、二つの人影がある。片方は楼主である事はすぐに知れた。
楼主と話しているのは、若い男だった。
控えめにしていても、身に着けているのが上等な着物である事が分かる。恐らく、どこかのお大尽だろう。
温和な雰囲気を持つ優男は、どこか学者のような風情すらある。
『そうか。嘉代にはそんな相手が居るのか……』
『い、いえいえ、……。けして、そのような間柄では……』
物憂げな表情で、男は溜息をついたようだった。
それを見た楼主が慌てて取りなすように声をかけつつ、首を左右に振る。
男はそれも目に入らぬ様子でもう一度溜息をつくと、呟いた。
『困ったな……』
聞こえてくるのは微かな声であっても、何故かその言葉だけは酷く重々しい響きを誠志郎の中に残した……。
「嘉代には水揚げの話が出ていたんだ」
水揚げ、という言葉は巴も聞いた事がある。
遊女が初めて客を取る事だ。見習いだった嘉代は、それを以て、本当の遊女となる。
誠志郎の言葉からして、相手は彼ではない。
誠志郎以外の手によって、彼の想い人は遊女となろうとしていた。
何といえば良いのかもう分からず、言葉を紡げずにいる巴の耳に聞こえたのは。
あまりに静かで淡々とした、誠志郎の言葉だった。
「……僕が殺されかけたのは、その数日後だった」
しんしんと、雪が静かに降り積もっていく。
何が起きたのか、誠志郎には分からなかった。
身体から止まる事無く命の流れが失われていくのを感じる。白い雪の上に、自分が流した紅い流れが次々と吸い込まれていく。
焼けつくような痛みを身体のあちこちに感じたけれど、もう何も感じない。何の感覚もない。
意識は薄れゆき、世界は薄い紗で覆われたように朧げになっていく。
ああ、このまま自分は死ぬのだ、とぼんやり感じていた。
遠くに、男達が忌々しげに呟いているのが聞こえた。
『金をかけて育ててきた金の卵を、こんな若造にくれてやるわけないだろう……』
『いくら上得意の連れでも、ただの雇われ人風情が目障りな……』
人気のない帰り道だった。突然、数人がかりで襲い掛かられた。
恐らく、最初から殺すつもりだったのだろう。そうでなければ、全員刃物など持っていない。
何かと問う暇もなく、誠志郎は全身を刃で貫かれ、倒れた。
辛うじて一人だけは顔を見る事が出来た。それは、嘉代の見世の男衆の一人だった。
「それじゃあ……」
「楼主にしてみれば、金の卵に虫が集ったのが目障りだったんだろう」
男達の独断ではなかっただろう、と誠志郎は苦い顔をした。
誠志郎を殺せと命じたのは、恐らく楼主だ。
嘉代には他に望むべくもない相手から水揚げの申し出があった。良い旦那となるであろう上客だ。
ユーインは上客であっても、誠志郎自身は裕福なわけでもないただの若造。
楼主とってみれば、嘉代についた悪い虫だ。虫は、排除しなければならない。
だからか、と呟こうとしても、一つの音も唇から紡ぐ事は出来なかった。零れるのは、鮮やかな血ばかり。
ふと、歩み寄る男の気配を感じた。
何故か、それがユーインだと感じた。
視界はもう明瞭とは言えないのに、何故かユーインが哀しそうに顔を歪めているのだけは感じ取れた。
ユーインは静かに問いかけた。『このまま死ぬか。守る為に呪いを継いで人ならざる者として生きるか、選べ』と。
誠志郎は、迷う事なく受け入れた。
まだ、死にたくなかった。人ではなくなったとしても、生きたかった。
守りたかったのだ、嘉代を。
たとえ呪いを受け継いで、人ならざる者となったとしても。たとえ、今までのように傍にいられなくなったとしても。
ユーインは、苦笑したように思えた。
月を背に佇むユーインの瞳が美しい赫に見えたのが、誠志郎の人としての最期の記憶だった……。
「次に気づいた時には、十年の歳月が過ぎていた」
「え……?」
静かに呟かれた言葉に、巴は思わず目を見開いた。
呆然とした様子を隠せない巴を見て、誠志郎は苦笑しつつ呟く。
「赫花の種が身体に根付くまで、時間を要したんだ。僕自体の相性が良くなかったのか、それとも東洋人だからなのかは、分からないけれど……」
それまでは、ユーインの従者に匿われ深い眠りについていたらしい。
目覚めた誠志郎は顔色を変えて従者にすがりつくと、必死に嘉代がどうなったかを問いかけた。しかし……。
「……目覚めた時、既に嘉代は死んでいた」
巴は絶句する。
どういう事、と問いかけたいけれど舌が張り付いたように声が出せない。
誠志郎は、嘉代を守りたくて人ならざる者の命を受け入れたのに。目覚めた時に、彼女はもうこの世の人では無かった。
言葉を紡げずにいる巴を見て、誠志郎は瞳を伏せた。続きを紡ぐために、過去を手繰り寄せる為に。
『せっかく咲洲様が水揚げを申し出て下さっているんだ。こんな奴になんか……』
死の際にあって、誠志郎は薄れゆく意識の中、去り行く男達が吐き捨てるようにそう言ったのを聞いたのだという。
それを聞いて、巴の口から呻きのような声が零れる。
「さきしま……?」
「水揚げを申し出ていた相手が、当時の咲洲の主。巴の先祖だ」
当時、既に豪商として名を馳せていた咲洲家の主が、嘉代を見初めたのだ。
そして、嘉代の水揚げの相手として、名乗り出たという。
楼主にとっては、願ってもない申し出だった。……目障りな虫さえ、いなければ。
「嘉代は咲洲家の主に身請けされ、妾として囲われ子を二人の子を生んだ」
巴の顔から、どんどん顔色が失せていく。
咲洲家の、巴の先祖にあたる人が原因で誠志郎は命を落しかけ、嘉代は奪われた。
咲洲の当主のものとなった嘉代は子供を生み、そしてその子は。
「息子は死んでしまったが、娘は生き永らえた。……正妻には子が居なかったから、その娘が婿をとって咲洲家を繋げた」
誠志郎の説明の言の葉は、あまりに冷静だった。静かで、落ち着きすぎていた。
だからこそ、残酷なまでに真実が巴の胸に突き刺さる。
漸く絞り出した巴の声は、聞いて分かるほどに震えていた。
「それじゃあ」
「……巴は、嘉代の血を引いている」
巴の身体が、膝の上で握りしめた拳が、目に見えて震え始める。
誠志郎は、守る為に……嘉代を守りたいから、吸血鬼の始祖の呪いを受け継ぎ、今に至る。
そして嘉代は既に亡いが、彼女の血を引く人間は。今日の咲洲家は……巴は、ここに居る。
何時も優しく自分を見守ってくれていた誠志郎。
母に拒絶された自分を、受け入れてくれた大好きな男性。巴に、温かな眼差しをくれたひと。
巴は静かに立ち上がると、店の奥、二階へと至る階段へ向かって歩き出した。
誠志郎はそれを黙って見送っていたが、ふと巴が問いを口にした。
「私は、嘉代に似ている……?」
「……哀しいぐらいに、ね……」
肯定が返らなければいいと願い続けた言葉に返ったのは、残酷な答えだった。
誠志郎の口から、それ以上の言葉が紡がれる事はなかった。
ああ、だからか、と巴は裡に呟く。
誠志郎が優しかったのは、自分が嘉代の血を引いているから。
いつも温かく見守ってくれたのは、守りたかったものから繋がるものだから。
誠志郎が自分に見ていたのは、巴ではなく、守りきれなかった過去の想い人の面影だったのだ――。
巴は何かを振り切るようにして、二階へと駆けていく。誠志郎は、追いかけてこなかった。
蝶ハンドルのティーカップに満たされた紅茶は、すっかり冷めてしまっていた……。
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