むかしがたり・一


 暫くの間、巴も誠志郎も口を閉ざしたままだった。

 しかし、ややあって巴がぽつりと呟く。


「誠兄さん、驚かなかったね」


 誠志郎の瞳が僅かに揺れた気がした。

 巴は誠志郎を見据えると、静かに裡に浮かんだ問いを口にした。


「咲洲の娘が二十歳まで生きられないっていうの、知っていたんでしょう?」


 巴が咲洲家の娘の宿命に触れた時、アーサーは驚いた様子を見せたが、誠志郎は何も言わなかった。驚愕の声を上げる事もなく、ただ俯いていた。


「……ああ」


 予想していた通りに、誠志郎の口から重く紡がれたのは肯定だった。

 巴は思わず唇を噛みしめて、何かに耐えるように手を握りこむ。

 俯いてしまった巴の耳に、複雑な響きを帯びた誠志郎の言葉が聞こえる。


「知っていた。……始祖となってからずっと、咲洲家を見守って来たから」


 思わず巴は目を見張る。

 祖父の頃からの付き合いだと思っていたが、誠志郎はそのずっと前から咲洲の血筋と共にあった。

 咲洲の血筋を守ってきたという言葉に、もしかして、と思った事がある。


「誠兄さんが吸血鬼になったのは……咲洲家と、関係があるの……?」


 今までの情報から導き出された可能性であり。何処かで確信を持つ問いだった。

 問いに対して、すぐには応えが返らなかった。

 巴の見つめる先で、誠志郎は何かを躊躇っているようだった。同時に、過去の古い痛みを思い出しているような、苦しげでもあった。

 胸に刺すような痛みが走るけれど、巴は静かに見つめ続ける。

 裡に生じた問いも、想いも。誠志郎の言葉を聞かずにはおさまらない。

 この人の口から、真実が聞きたい。


「……守る為、だった」


 ややあって、誠志郎はゆっくりと口を開くと、掠れた声で言葉を紡ぎ始めた。

 短い言葉だった。それで全てを説明しきれない程に簡潔であるというのに、何故か万感の思いが籠っているように感じる。

 誠志郎は、巴に向かって僅かに笑いながら言う。


「長い話になる。……店仕舞いして、話そう」


 彼の口元に刻まれた笑みは、消え入りそうな程に儚くて、哀しいものだった。




「……僕が明治の人間だった事は、前に伝えたよね?」


 カウンター席に、巴と誠志郎は隣り合って座っている。

 二人の前には、それぞれのカップにて湯気をたてる紅茶がある。だが、どちらも手をつけてはいない。

 微かな燻製のような香りと、蘭や薔薇の香りにも似た甘い芳香が漂う中、誠志郎は静かに語り始めた。


「僕はあの頃、先の始祖……ユーインの通訳として働いていた」


 先駆けて開かれた港。

 混乱があった。動乱があった。

 歴史の激しい流れの中で、箱館という名の街は「函館」と変わった。

 入り来る異国の気配。行き交う異国の人々。齎されたのは物質だけではなく、知識であったり、思想であったり。

 変化を恐れる人間は多かったが、誠志郎は変化に対して柔軟であった父親の影響を受けてか、変り行く街の姿に心を踊らせていた。

 学問で身を立てようと考えていたけれども、事業に失敗した実家が傾いた。

 それでも幸いだったのは、彼は語学に長けていたと言う事だ。来訪する異国人が通訳を必要とする中、複数の言葉に通じる誠志郎は重宝された。


 ある日、英国領事に呼び出され赴いた領事館にて、彼は最後の雇い主となるユーインと出会う。

 銀を糸として紡いだような美しい髪に、光の加減によっては金に輝いて見える琥珀の瞳。

 男性を美醜で判断した事はなかったが、かなり繊細で整った容貌をしていると軽く目を見張ったものだ。


 大人しく落ち着いた雰囲気の外見に反して、彼はかなり気さくで面白い人物だった。

 驚く程に深い経験に裏打ちされた知識を持ち、誠志郎に惜しみなく与えてくれた。

 真面目すぎるのも考え物だ、と時折からかってくる事があり苦い顔をさせられる事もあったが、けして嫌だとは思わなかった。


 ユーインは、ともかく紅茶の好きな男だった。

 あの時代、日本の、それも北の地で茶葉を手に入れる事は容易では無かった筈だ。しかし、彼が日々の茶を欠かしたことはない。

 何でも、紅茶が飲めないなら招聘には応じない、と領事を脅したらしい。とんでもない男である。

 英国菓子の材料とて、入手はそう簡単では無かった。しかし、折に触れては自分で菓子を焼いていた。

 料理人は微妙な顔をしていたが、本人は至極満足そうだったのを覚えている。

 英国の男は皆こうなのかと問いかけると、料理人は無言のまま即座に首を左右に振ったものだった。


 領事もユーインには一目置いていて、特別な理由を以て招聘したのだという。

 その時は理由については秘されていたが、今ではその真実は誠志郎の中にある。


 雇い主と雇われ人。師匠と弟子。不思議で温かな関係の二人は、穏やかに日々を過ごしていた。

 そんなある日、ユーインは役人の接待を受ける為に遊郭を訪れた。嫌がる誠志郎を『お前は私の通訳だろう』と無理やり引きずって。


「遊郭……函館に……?」


 きょとんとした表情で、巴は首を傾げた。

 江戸の吉原などにあった話は聞いたが、函館にもあったとは思わなかったのだ。

 誠志郎は、一つ息をついて続ける。


「国が開かれて人が集まってきて。男が増えれば、自然と必要とされるようになる。……女性の『世話』を求める異人も居たしね」


 求めるものあれば、提供するものも集まる。繫栄の歴史の影に、確かにそれは存在した。

 歴史に埋もれがちな事実である。疑問を口にした巴のように、住んでいる人間であっても、函館に遊郭が存在した事を知らない人もいるだろう。

 誠志郎は、ある方角を視線で示すと呟いた。


「あちらに、姿見坂があるだろう。あれは、坂の上にあった遊郭の遊女たちの姿が見える、っていうのでその名前がついた」


 示された方角には、西ふ頭からまっすぐに山へ伸びる坂がある。そんなところに遊郭が存在したということに、巴は驚いた。

 何とも艶やかといえば艶やかな謂れだけど、と巴は裡で呟く。


「山の上にあったものが火事で消失して。次の蓬莱町……今の宝来町だね。その頃は、それこそ吉原にも並ぶ位の賑わいだったらしい」


 移り変わりを見て来た誠志郎によると、往時の函館の花街である蓬莱町は相当な賑わいだったらしい。

 東京以北最大の繁華街と言われる程で、料亭、カフェー、映画館、劇場が建っていたという。正直、今からでは想像も付かない姿である。

 誠志郎は、目を伏せて一度口を閉ざす。

 何かを思い出すように少し沈黙した後、再び瞳を開き、語り始める。

 その瞳には、何かに焦がれるような切ない光があった。


「……そこで、彼女にあった」




 酒の席の賑やかな雰囲気を遠くに感じる、人気のない廊下にて。

 誠志郎は蒼い顔をして呻いていた。

 今日は見世を貸し切っての総揚げということで、大層宴席は盛り上がっている。

 しかし、誠志郎はそれどころではない。気を緩めたならば、胃の腑にあるものをぶちまけてしまいそうだ。

 だから嫌だと言ったのに、と恨み事を言ってみるものの、元凶は今頃酒席で大層気分よく酒を飲んでいる事だろう。

 嫌々きたとはいえ、盛り上がりに水を差す気もない。ユーインが帰るまで、このままやり過ごせたらと願った。

 低い唸り声をあげて蹲る誠志郎の耳に控えめな声が聞こえたのは、その時だった。


『……大丈夫?』


 弾かれたように振り返ってみた先、そこには少女が立っていた。

 少しばかり怯えた様子があるが、心配そうにこちらを見つめている。

 年頃や着ている装束からして遊女ではない。恐らく、禿の一人だろう。


『いや、大丈夫だ……。少し放っておいてもらえれば……』

『でも……』


 禿の少女はなおも心配そうな眼差しを誠志郎へと向けたまま。

 気にはなるけれど、そう言われてしまえば強く出る事もできないと思っているのが伝わってくる。

 誠志郎は、視線だけを少女に向けた。

 ああ、美しい、と思った。

 まだ幼さこそ抜けないものの、人形のようにも見える目鼻立ちの整った娘だ。

 瞳の色が少し変わっているあたり、もしかしたら異人の血を引いているのかもしれない。

 年頃からして、そろそろ禿を卒業するあたりではないだろうか。

 誠志郎がぼんやりとそんな事を考えながら、改めながら大丈夫だと伝えようとした時だった。


『どうした、嘉代かよ

『あ、おとうさん……』

『何だ、その男は。こんなところで』


 柔和な表情を作ってはいるが鋭利な性根が透けてみえる男が、姿を現わしていた。

 嘉代と呼ばれた禿がおとうさんと呼んだということは、この見世の主だろう。

 かけられた声は険しい。

 遊郭に来て女も買わずに、人目につかぬ廊下で蒼い顔をしている男は不審人物以外の何者でもなかろう。楼主の声が険しくなるのも当然である。

 最低限の説明だけはしなければと誠志郎が口を開きかけた瞬間、緊張しかけた空気を霧散させる朗らかな声が響いた。


『どうしたんだ、誠志郎。戻ってこないと思えば、こんなところで』


 声がした方に視線を向ければ、ユーインが遊女と連れ立って立っている。

 禿が「ねえさん」と呼んだのが聞こえたので、あれがこの禿の姉貴分なのだろう。

 ユーインの言葉を耳にした楼主の表情が緩む。笑顔を交えて楼主はユーインへと声をかけた。


『リスター様のお連れ様でしたか』

『ああ、彼は私の通訳兼弟子でね。お堅い性質だから、偶には遊びも良かろうと思って連れてきたのだが』


 何時の間にか酒の席から消えていた、と肩をすくめていう男に対して、誠志郎は眉間に縦皺を刻みながら呻いた。


『俺は白粉の匂いで気持ち悪くなるから、と言ったでしょうが……!』

『まさか本当だったとはなあ』


 そう、誠志郎は別に女が嫌いという訳ではないのだ。

 何故か、白粉の匂いを嗅いだだけで酷く気分が悪くするのである。その所為で、自然と女性を遠ざけてしまっていた。

 だからこそ、白粉をはたいた女が数多いる遊郭など、訪れたくなかったというのに。

 蒼い顔で荒い息をしている誠志郎を見て、ユーインは苦笑して誠志郎の傍らに立つ嘉代を見遣る。


『お嬢さん。すまないが、そいつの守りを頼んでもいいかな? 適当についてやってくれればいいから』


 異人と思しき男性に突然声をかけられて、嘉代の肩が跳ねる。

 どう応えてよいかわからないと言った様子で、嘉代の視線はユーインと楼主の間を行き来する。


『楼主、良いだろう?』

『まあ、リスター様がそう仰るなら……』


 医者を呼ぶような面倒も避けたいのだろう。

 得意客となり得る総揚げの主役に言われ、仕方ないといった様子で楼主は頷いた。

 その夜、誠志郎は嘉代に看病されながら過ごす事となった。

 青白い顔で呻く誠志郎の額に浮かぶ汗を、嘉代はまめまめしく拭ってくれた。

 その白い優しい手が、とても温かに思えた……。



 ユーインはその店の遊女の一人の馴染みとなったようで、それから頻繁に誠志郎を連れて通うようになった。

 誠志郎も偶には、と女を勧められる事もあったが断り続けた。気が進まなかった。

 女も買わずただ本を読んでいるだけの人間など邪魔でしかないだろうに、何も言われなかったのは恐らくユーインが金払いのいい太客だったからだろう。


 通ううちに、嘉代がどのような事情を抱えているのかも知っていった。

 嘉代は、かつて見世にいた花魁の娘なのだという。

 遊里に置いて妊娠は禁忌であるから、本来は堕胎させられるはずだった。

 しかし、ある人間からの口添えがあった事で、嘉代は特別に生まれる事が許された。

 父と思しきその異国の要人は嘉代が生まれる前に本国の妻子の元に戻り、母は嘉代を生むのと引き換えに世を去った。

 嘉代は、生まれた時から末は遊女となる事を運命づけられ、成長し禿となった。

 楼主は、嘉代の見目の良さと頭の良さに母を越える資質を見出した。故に教育を与え、末には花魁と目する引き込み禿として育ててきたのだという。


 姉貴分の遊女がユーインと過ごす間、誠志郎の隣には嘉代が居るようになった。

 最初は、誠志郎は持参した本を黙って読んでいるだけだった。嘉代は、黙って傍に控えていた。

 しかしある時、嘉代が本に興味を示している事に気づいた誠志郎は、さわりだけでもと読んで聞かせた。

 嘉代は目を輝かせて聞いていたが、自分でも読んでみたいと言い出す。

 だが、その本はユーインから渡された英語の本である。大丈夫かと思いつつも、解説を交えながら読ませてやったところ。

 少し教えてやっただけで、嘉代は砂が水を吸い込むように言葉を覚え、読めるようになったのだ。

 嘉代のあまりの頭の良さに思わず言葉を失ったのを覚えている。

 そのうち、誠志郎は自分が読みたい本だけではなく、嘉代が好みそうな物語の本も持参するようになった。

 異国の言葉と美しい絵の物語に顔を輝かせる少女を見る事が楽しみで、次はどの本を、と何時しか自然と笑みを浮かべるようになっていた。

 ユーインについて遊郭を訪れる日を、心待ちにするようになっていた……。


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