存在意義と決意
懐刻堂に戻った頃には、周囲は暗くなりかけていた。
小さなベルの音を鳴らして扉を開けたのと同時に、カウンターから出てきた誠志郎と目があった。
「巴、遅かったね。どこかに寄って来た?」
「ただいま。……それが、ちょっと色々と……」
届け物をして、そのまま帰ってくるだけならとうの昔に戻っている筈だった。
実際、先程の出来事が無ければ真っ直ぐ帰るつもりだった。
事故にあいかけたという事にするつもりだったが、どのみち心配させてしまう。
どう言ったものかと迷っていたものの、すぐに後ろに人を待たせていることに気づいて我に返る。
誠志郎も、扉の外に人の気配を感じたようだ。それと併せて、一体何事かと問いたげな様子である。
「お客さん。……というか、恩人、かな……」
「それって、どういう……」
間違った事は言っていない。嘘ではない。だが、要領を得ていないという自覚はある。当然ながら、誠志郎の顔から疑問の色が消える事はない。
更に問いを重ねようとしかけた誠志郎の視線が、巴の背後へ――そこに居た異国の少年へと向けられる。
次の瞬間、何とか説明しようと巴が口を開くより先に、誠志郎が驚愕に目を見開いて叫んでいた。
「アーサー!」
「え……?」
叫ばれたのは人の名前だった。それも、外国人の名前である。
そう、静かに店内に足を踏み入れた少年のような異国の人間が関するに相応しい名前であって。
少年は黙したまま。肯定する事もないが、否定する事もしない。
視線を二人の間で行き来させた後、巴はまさか、と誠志郎へと問いかける。
「誠兄さん、知り合い……?」
二人の反応からして、初対面ではない気がする。
誠志郎は少年の名を知っていて、少年もまたそれを驚かない。確実にお互いを知っていたという反応だ。
ただ、アーサーと呼ばれた少年が誠志郎に向ける眼差しは非常に険しい。
敵意ではない。だが、好意的とも言い難い、複雑なものが入り交じる眼差しを向けた侭、唇を引き結んでいる。
疑問を抱いたまま立ち尽くす巴を見て、誠志郎は大きく嘆息し、呻くように呟いた。
「過去に、ユーインが同族にした……吸血鬼だ」
誠志郎の先代の『始祖』であるユーイン。
彼に始祖という名の呪いを引き継いで世から去った男性の名を聞いて、巴は驚愕に目を見開き、弾かれたようにアーサーの方を向く。
アーサーからはまだ黙したままだ。
巴は言葉を失ってしまう。
謎の人間に襲われたところを助けてくれたのは、何と誠志郎の先代による吸血鬼の少年だったのだ。いや、少年に見えるだけだろう。先代によって吸血鬼となったというなら、誠志郎よりも年上の筈だから。
誠志郎以外の吸血鬼と呼ばれる存在を見るのは、当然ながらアーサーが初めてだ。
見た目だけならば、ただ美しいというだけで普通の人とは違わないのに。彼は、彼らは人の理の外に生きている。
そして、今自分もその理と共に生きている……。
「警告にきたはずだが、早々に体たらくを見る事になるとは」
アーサーは厳しい蒼の眼差しを誠志郎に向けたまま、硬い声音で告げる。
視線を一度巴に向けると、糾弾するような語調でアーサーは続けた。
「……一人で出歩かせるなど、迂闊にも程があるだろう」
巴の肩がびくりと跳ねるのと、誠志郎が目に見えて蒼褪めるのはほぼ同時だった。
何があったのか、詳細まではわからなくても『巴に危機があった』という事だけは察してしまった様子だ。
何と申し開きしたものかと巴は内心で冷や汗をかくけれど、誠志郎は唇を噛みしめて黙っている。瞳には、明らかに自分を責める光がある。
「あの、私が一人で大丈夫だって言ったんです! 知ってる場所だし、一人でお出かけできない年齢でもないから!」
「始祖を狙う連中にしてみたら、一人で出歩いている花嫁など絶好の標的だ」
誠志郎とアーサーの間を遮るように立ちはだかりながら、巴は叫ぶ。
巴は一人歩きが咎められる年頃ではない。それに函館は、たまに事件は起きるものの、女子供が一人歩き出来ない程に危ない街でもない。
必死に訴える巴を見て、アーサーは見て分かる程に顔を顰めて低く告げる。
始祖を狙うもの、と今聞こえた気がする。
つまり、先程の不審な者達は巴ではなく、巴を介して誠志郎を狙っていたと言う事なのか。人質にでもするつもりだったのだろうか……。
「私が、花贄だから……?」
「……花贄? お前は、そいつの花嫁だろう?」
疑問だらけの脳裏を何とか落ち着けようとしながら、巴は半ば無意識に問いを口にしていた。だが、それを耳にした途端、アーサーが怪訝そうに眉を寄せる。
何やら呼び方に相違があるのかだろうか。それとも、自分の事ではないのだろうか。
思わず首を傾げた巴を見て、アーサーは険しい問いの眼差しを誠志郎に向ける。
「花贄は、ブライド……花嫁の事だ。巴の事で間違っていない」
大きな溜息の後、冷静な誠志郎の言葉が応える。その声はどこか震えていて、努めて冷静であろうとしているのが伝わってくる。
誠志郎はかつての時へ思いを巡らせるように目を伏せると、静かに続けた。
「ユーインは花嫁という呼び方を嫌っていて。……日本では犠牲となる者を何と呼ぶと問いかけてきた」
花嫁と響きの良い呼び方をしたとして、所詮は始祖の為の犠牲者。
形ばかりの呼称を先の始祖は嫌悪していたという。犠牲は犠牲として、けして誤魔化したくない。その為により真実に即した呼び名は無いかと考えていたらしい。
「贄という言葉を教えたら、ならば『花贄』と呼ぶ事にしようと自嘲していた」
溜息と共に紡がれた言葉に、アーサーが目に見えて顔を歪めた。
思い出しているのだろうか。彼にも、もしかしたら先の始祖の想いに心当たりがあったのかもしれない。
「犠牲……」
「この娘は、花嫁の背負う者と運命を知らないのか? 花嫁が、どういうものであるのか、全く」
巴は言葉に聞こえた単語を思わず鸚鵡返しに呟いてしまっていた。
呟きに宿る微かな疑問の色を感じ取ったらしいアーサーが、一瞬責めるように誠志郎を見据えた後、息を吐いて語り始めた。
始祖と花贄の在り方に関する、包み隠さぬ事実の全てを。
「始祖から赫花の蜜を受けたものは、始祖の命の糧となる。血を求められ続けた花嫁は命を擦り減らし……いずれ朽ちて死ぬ。始祖はそれを見届け、次の花嫁を定める」
赫花の蜜、と聞いて瞬間に何故か唇に甘い味と優しい感触が蘇ったような気がする。
無意識のうちに唇に触れる巴には気付かぬ様子で、アーサーは更なる説明を紡ぎ続ける。
「花嫁は一度に一人だけ。人間の結婚と同じだ。妻は一人だけ。死別するまで次を得られない。……始祖は花嫁の血で力を得られる代わりに、花嫁の血以外を受け付けなくなる」
アーサーの言葉を聞いて、巴の顔から色が失せていく。背筋に冷たいものが伝う。
弾かれたように、巴は誠志郎を見ていた。
つまりは、巴以外に花嫁……花贄は存在する事が出来ず、誠志郎は巴の血以外を受け付けられない。
けれど誠志郎は、今に至るまで。
「何も知らされていないのだな。花嫁だというのに。自分の事も、吸血鬼についても」
二人の様子から何かを察したらしいアーサーは、呆れとも同情とも取れる複雑な表情になる。
巴は、唇を噛みしめてうつむいた。
聞けなかったのだ。詳しく触れたくないという雰囲気を察してしまい、問う事が出来ずにいた。その痛いところを、見事に突かれてしまった。
黙り込んでしまった巴から視線を誠志郎へ向け、アーサーは更に糾弾を口にする。
「何も知らせず、ただ血を奪い朽ちるに任せるつもりだったのか?」
誠志郎は沈黙したままだ。咎める言の葉を、一言も返さず。ただ受け入れている。
違うのに、この人は、違うのに。
呆然としていた巴は、首を左右に振ると、震える声で絞り出すように口を開いた。
「吸ってない」
呻き声にも聞こえる巴の言葉を聞いて、二人の吸血鬼は弾かれたように巴を見た。
巴はもう一度首を振ると、今度はアーサーに向かって一言一言、声の震えを必死で抑えながら言う。
「誠兄さんは、私から血を吸ってない。あれから、一度も」
誠志郎は、巴を花贄にした夜から一度も巴の血を吸っていない。
巴以外の血を受け入れられないというなら、誠志郎はあの後一度も糧を得ていない事になる。
人間と違うから、平気なのか。それとも、もしかして。
「花嫁が、何の為にいると思っている。だから、そこまでお前は消耗しているのだろうが……!」
「アーサー……」
「何でユーインは、お前になんか始祖を引き継いだんだ……! 延命するなら、血族にする選択肢だってあったのに、何故……!」
アーサーの叫んだ怒り交じりの言葉が、巴の危惧を肯定する。
誠志郎は、摂るべきものを摂っていない。その為に今、けして良いとは言えない状態なのだ。巴の血を吸わずに、自分を擦り減らしているのだ。
アーサーは、誠志郎を責め続ける。かつて、先代が誠志郎に引継ぎ、世を去った事を心から悔いているのが伝わってくる。
先代への想いと、それ故に募る誠志郎への苛立ちが抑えきれずに吹き上がっている。
様々な想いが折り重なり、入り交じった『何故』が、酷く重くて苦しい……。
それを聞きながら、巴もまた誠志郎にどうして、と問いかけたいが言葉にならない。ただ、問いを込めた眼差しを向けるだけしか出来ない。
誠志郎は巴の眼差しに気付くと、苦し気な表情のまま俯いてしまう。
「私の血を吸って、誠兄さん。ご飯はちゃんと食べてって、言ったでしょう」
泣き笑いのような表情になってしまった巴から、誠志郎は顔を背けて沈黙している。
誠志郎が巴の血を吸わない理由は分かる。巴を死なせたくないからだ。
血を求め続ければ巴はそれだけ早く擦り減り、朽ちる。そうしないために、自分を苛み続けている。
だって、あの夜言っていたではないか。自分と居なければ普通の人間として生きられる。だから一緒に居てはいけないと。
それを押して傍に居たいと願ったのは巴だ。いけない、と言われたのにそれでもと願ったのは、自分だ。
ならば、事実を知ったからといって、何を恐れる事がある?
それに……。
「どのみち、私はそう長くないから」
「……どういう事だ」
巴がそれを口にした瞬間、俯いていた誠志郎の肩がぴくりと震えた。
アーサーが怪訝そうな顔をして巴に問いかけてくる。
巴は、誠志郎に視線を向けたまま、ぽつりと語り始めた。自身の血筋に纏わる、動かせぬある事実を。
「私は二十歳まで生きられない。……それが、咲洲家の娘の宿命なの」
少年の姿をした吸血鬼が息を飲む。言われた言葉が理解できないという風に蒼い瞳が巴を凝視している。
誠志郎は俯いたままで、その表情はよく読み取れない。
巴は、微かに苦笑したまま一つ息をついて続けた。
「叔母さんも、大叔母さんも。今に至るまで咲洲家に生まれて逃れられた娘はいない」
咲洲家に生まれた女子は、二十歳までに亡くなってしまう。
それが、今まで一人の例外も出さずに続いてきた咲洲家の娘の『宿命』。
母が巴を疎んでいたのも、好きにしろと干渉してこなかったのもそれが理由だ。
何時死ぬかわからない娘に心を砕くだけ無駄だと。何時死ぬかわからないというなら、望むようにすればいいと、母は思っているのだろう。
「原因はわからない。突然衰弱する、謎の遺伝病だって事にはなっているけど……」
代々咲洲家の主治医をしてきた時生の医者たちがどれだけ手を尽くして調べても、原因と呼べるものは見つからなかった。
今でも定期的に診察にくるようには言われている。しかし、巴としてはもう時生家の人々に、亮に、咲洲の事で手を患わせてほしくない。
理由は分からぬまま、咲洲の娘達は二十歳を越える事なく朽ちていった。
今の処、巴に異常らしき異常はない。だが、確実にその時は近づきつつある。砂時計の砂は、止まる事なく落ち続けている。
「だからって、簡単に絶望してやるつもりはない。確かに何時死ぬかわからないけど、それならその時まで後悔のないように、精一杯生きてやるって決めた」
巴は顔を上げてまっすぐに正面を見据えながら言った。
かつては、誰もいらない子だからと捨て鉢になった事もあった。
けれど、あの日出会った優しいひとは、灰色になりかけた巴の人生に彩をくれた。紅茶の温かさは、巴のこころにもぬくもりをくれたのだ。
誠志郎と過ごす日々が巴にくれたのだ。
どれだけ生きるかではなく、どう生きるかを想う強さを。
「最後の一呼吸まで戦い抜いてやるって。どうせなら、意味のある死に方をしてやるって。だから」
巴の瞳には、迷いはなかった。
清冽なまでの眼差しに、アーサーも、弾かれたように顔を上げた誠志郎も沈黙している。
そんな二人を見て、巴は笑いながら告げた。
「どうせなら。……誠兄さんの中に命として残れるなら、私は本望だと思う」
何れ避けられないのならば、せめて意味のある形で逝きたい。それは偽らざる巴の本心だった。
だから怖くないのだと、巴は告げたかった。
誠志郎と視線がぶつかる。彼は、酷く哀しげで、泣き出しそうにも見えた。
三人とも口を閉ざしてしまえば、重く痛い程の沈黙がその場を支配する。
時計の針が乾いた音を立てるなか、口を開いたのはアーサーだった。
「……『
アーサーは言うと、二人に背を向けて歩き出す。
聞きなれない言葉であるが、何か良くない言葉である事、誠志郎に対して危険なものである事だけが感じられる。
厳しく難しい表情をした誠志郎は、一度だけ頷いて見せる。
アーサーはそれを見ると、硬い靴音を響かせてそのまま店から出て行く。
後には、それぞれに抱えた想いに言葉を紡げずにいる二人だけが残された――。
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