揺らぐ平穏

 街が春の彩りに満ちて、残っていた雪も姿を消して。いよいよ市内各所にて桜の蕾も綻ぶかと思われる頃。

 懐刻堂では平穏な日々が続いていた。


 巴と誠志郎は、相変わらず不思議な夫婦ではあったけれど、二人の間には笑みが絶える事はなかった。

 多少強引な始まりであっても、ぎこちなさはあっても、少しずつ穏やかな時間を積み重ねていた。

 そんな二人を見守り続ける周囲の人々の視線は優しかった。

 常連客や深雪は、一生懸命に店の手伝いをする巴と、それを気づけば見つめている誠志郎の眼差しに微笑みをかわしていた。当人たちは気付かぬ事であったが。


 懐刻堂の裏手には、小さなキッチンガーデンがある。今日は二人でその手入れをしていた。

 アフタヌーンティーセットで出されるサンドイッチのキュウリは、季節によってはこの庭から使われる。数はそう作れないけれどせっかくだから、と誠志郎が以前笑って話していた。


 こまめに指示をくれながら手を動かす誠志郎を、巴は裡に抱く懸念を察されないよう気を付けて見つめている。

 今、巴には、ひとつ気がかりな事があった。

 巴は『花贄』と呼ばれる存在である。花贄は、吸血鬼の始祖たる誠志郎に糧である血を提供し続ける、食料と言うべき者であるという。

 だが、今に至るまで。彼が人ではない事を知ったあの夜以降、誠志郎が巴から血を吸った事はない。

 血を吸わず、巴と共に食事を取り、変わらぬ様子で店に立つ誠志郎を見ていると、実は吸血鬼であったという事実を忘れてしまいそうになる。

 時折蘇る血を吸われた時の衝撃や、ふとした瞬間に感じる自分の中に宿る不思議な感覚に、思い出しはするのだが……。

 もしやこっそりと他で紛らわしているのだろうか、と思うと心中に靄のようなものが立ち込めるが、それらしい気配も感じられない。

 ならば『食事』をしていない、という事になるのではと思うのだ。

 吸血鬼がどれぐらいの頻度で『食事』をするのかわからないし、一度したらどの程度もつのかもわからない。

 分からないというなら、聞けばいい。吸血鬼の事も、誠志郎の事も。

 そう思うのに、何故か本人を前にすると問いを紡げない。曖昧な笑みを浮かべて当たり障りのない話題を振ってしまう。

 自分が恥をかいたり傷ついて終わるだけなら、幾らでも踏み出せる。だが、誠志郎が傷つくかもしれないと思うと躊躇してしまうのだ。

 この臆病者、と自分を裡にて叱りつけるけれど、どうにも効果はない。

 聞けないままでは。このままでは、疑問や後悔を抱えたままになってしまうかもしれないのに。


 気が付けば、巴? と首を傾げながら誠志郎がこちらを見ている。

 道具を片づけ終えて、一休みしようと声をかけていたらしい。思索にふけり過ぎて気付けていなかった。

 具合が悪いのかと心配されている事に対して首を左右に振って否定すると、巴は誠志郎の手を引いて、笑みを浮かべながら先に立って歩き始めた。




 逡巡を秘めながらも静かに過ぎゆく平穏の中に、不穏が入り交じり始めたのはその数日後の事だった。

 巴は、市電に揺られて共通の知人宅にお使いに出ていた。

 西ふ頭近くに住む老年の男性は懐刻堂の古い客の一人であるが、腰を痛めたとかで自宅にて静養している、と深雪から伝え聞いたのだ。奥様と行き会った時に話題にあがったと言っていた。

 無類の紅茶好きであった老人に、見舞いとして誠志郎は茶葉と菓子を用意した。それを巴が届けに行ったという次第である。

 お届けものは無事喜んでもらえて、巴は安堵しながら家路についた。

 海沿いの道を、温かな風の中に潮の匂いを感じつつ歩みを進めた。生憎の曇り空でお日様の光こそ感じられないものの、そこかしこに確実に春を感じる。

 大町電停を目指して歩き、そろそろ電車道路沿いに出るかという時だった。

巴は向こう側から物凄い勢いで走行してくる車に気づいた。

 危ないな、と顔を顰めて巴が距離をとるように避ける。周囲に人が居ないからいいものの、一歩間違えば大事故だ。

 巴が溜息を吐いた、次の瞬間だった。


「え……⁉」


 やり過ごしたかと息を吐いた巴の横を掠め通り過ぎたと思った車は、なんと耳ざわりな音を立てて旋回した。そして、もう一度巴の方に向かって速度を上げ迫って来る。

 驚愕に目を見開いた巴は、絶句してしまう。

 まさか、とすぐには認識できなかったが、間違いない。


 ――あの車は、明確に巴を狙ってきている。


 巴は車に背を向けて走り出すと、襲い来る車から更に距離を取ろうとした。そのまま、人通りのある電停沿いまで向かおうとする。

 再び耳ざわりな音を立てて車が急停車したかと思えば、複数の人影が車から下りて来た。

 明確に外国人と分かる顔立ちの男女は、巴を指さすと一斉に向かってくるではないか。

 飛び交う『ブライド』という単語だけが聞き取れた。それ以上は早口すぎて聞き取れないし、落ち着いて分析している余裕などない。


 彼らは明らかに巴に対して害意を抱いている。

 身代金目的の誘拐か、と思いもしたが今の巴に理由はない。確かに咲洲家の娘だが、巴は嫁に出た人間だ。誘拐を狙うなら跡取りである弟のほうが余程価値がある。

 何が目的かわからなくても、伸ばされてくる手に捕まってしまえば、良くない事になるのが目に見えている。人通りのあるところまで逃げなくては。 


 巴が速度をあげると、何やら叫びながら、男女は尚も巴を追って来る。

 以前に比べて全力疾走しても息が切れないのを不思議に思う余裕すらない。走る速度も、段違いに早い。

 しかし、数人がかりで追いかけてくる彼らを振り切りきれない。

 伸びてくる手をかわして、かわして。捕まらないようにと必死で、先に進む事が出来ない。


 苛立った男の一人の手が、巴の髪を掠めかけた時。

 突如として響き渡る轟音と、吹き荒れた暴風。何かがぶつかったような鈍い音。

 目を開いて居られず一瞬目を閉じた後、広がる光景に巴は呆然とする。

 震える眼差しの先では、巴を負ってきた男女が呻きながら地に転がっていた。

 それぞれに壁や地面に身体を打ち付けたらしい。起き上がろうとはしているが、ダメージが大きく出来ない様子が見て取れた。


 そして、その場には一つ人影が増えていた。


 巴は、先程までとは違った意味で目を見張ってしまう。

 男達と巴の間に立ちふさがった人影は、巴と同年代ではと思う少年だった。

 日本人ではない。緩く一まとめにした風をうけてそよぐ長い髪は、光を弾く美しい淡い金色だ。

 転がる者達を見据える厳しい眼差しは、煌めく蒼玉。

 整った目鼻立ちも、線が細いものの均整がとれた体つきも、まるで何処かの絵画から抜け出してきたよう。

 昔見た宗教画を思わせる雰囲気を持つ少年だった。


 漸く起きあがった男達が少年の姿を見て、顔を引き攣らせて何かを叫んでいる。

 やはり早口で癖が強く聞き取れないが、叫んでいる雰囲気からして、少年がここに居る事に驚愕している様子である。

 驚きの中に恐怖が混じる顔で固まっていたが、女が何事か指示すると直ぐ様身を翻して車乗り込み、急発進させた。

 理解が追い付かないままの巴と、不思議な美しい少年を残して、車はあっという間に見えなくなった。


「無事か?」

「え……。え、ええと……大丈夫です……」


 呆然として車が消えた方角を見つめていた巴は、突然問いかけられて狼狽えた。

 英語で答えるべきかと悩んだものの、一瞬の後に日本語で話しかけられた事に気づく。次いで、相手が自分を助けてくれたのだと言う事を認識して、慌てて頭を下げる。


「あの……ありがとうございました!」

「必要ない。……そうする理由があったからしただけだ」


 恐縮しながら頭を下げる巴に対する少年の答えは実に素っ気ない。

 取り付く島もない気配を感じて、ただでさえ疑問だらけの巴の裡は、思考があれこれと交錯して絡まって次の言葉が出てこない。

 あの男女は一体何だったのか。何故自分が狙われたのか。

 そして、目の前の少年は何故に自分を助けてくれたのか。そもそも、この少年も何者であるのか。

 少年が口を閉ざしてしまえば、何とも言えない重い沈黙がその場に満ちてしまう。

 やがて、意を決した巴はおずおずと口を開いた。


「ご迷惑じゃなければ、お礼をしたいなと思うのですけど……」


 危ういところを助けられたのは事実である。相手が必要ないと言ったとしても、では、と立ち去る訳にいかない。

 恩が出来た相手に何もせずに去られる事にも、気が引ける。何もせずに、このままさよならは出来ない。矢車菊の色を思わせる蒼の一対が自分に据えられているのを感じながら、巴は続ける。


「うち、紅茶専門店で。良かったら、紅茶などいかがですか、と……」


 相手の様子からして拒絶されそうではあるが、駄目元で。表情を伺いながら恐る恐る申し出てみる。近いので、と言い添える声は小さくなってしまう。

 少年は思案している様子だった。

 だが、やがて頷くと静かに告げた。


「伺おう」


 一瞬言われた事が理解できずに目を瞬いたが、相手が冗談ではなく本気でそう言っている事に気づくと、すぐに巴は笑顔を取り戻す。

 応じてくれた事に対して礼を言うと、先導して歩き出す。

 ただ、誠志郎にどう説明したものかと思案はする。危ない目にあったと言ったなら、絶対に心配するだろうし……。

 先に立って歩きながら思案する巴は、気付かなかった。

 少年が盛大に嘆息しながら、低い声で呟いた事を。


「……言ってやりたい事ができたからな」


 少年はもう一度息を吐いた。そして、静かに巴の後について歩き出した。


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