買い物にて一騒動
ある日、店を閉めてから買い物に行こうと言う事になった。
電停沿いの通りまで下りて、少し歩けばスーパーがある。
流石に腕を組んでとはいかないが、二人で並んで歩いていると近所の顔見知りの人から仲が良いね、と声をかけられたりする。
巴は照れてしまうが、嬉しそうに笑みを返す。誠志郎は苦笑いしているけれど、嫌がっている様子はない気がする。
温かくなったのを肌に感じながら、市電沿いの道を二人で歩く。程なくして、お目当ての店へと辿り着いた。
店で必要なものと、家で必要な物。買い物リストを手に二人でかごにあれこれと入れていく。
カートを押して進む誠志郎の元に、あっちかに行きこっちに行き、リストにあるものを巴が運ぶ。
その間に、ついつい予定にないものも入れてしまうのは仕方ない。
買い物も後半、そろそろレジに向かうかという頃になり。
棚から商品を手にして、身を翻して巴が誠志郎の元に戻ろうとした時。
「とーもーえー……!」
「うげ……!」
低い呻きのような男の声が聞こえて、巴は顔をひきつらせて固まった。
そこには、一人の男性が居た。
控えめに言っても人相の悪い男性だ。顔に傷などあるあたり、が更に。
派手目な服装とかけているサングラスも相まって、どう見てもチンピラ……というか、その筋の方にも見える相手である。
「……こ、こんばんは……」
「こんばんは、じゃねえ! 随分呑気だな! 約束すっぽかしてからどんだけ経ったと思ってやがる!」
巴の頭を鷲掴みにして拘束しながら、男性は青筋を浮かべつつ怒鳴りつけてくる。
二人を周りが遠巻きにしている事に、気付いているのか居ないのか。
じたばたと抵抗するものの、手のひらの拘束力はなかなかのもので逃げられない。
これはまずい、と巴が呻いていた時に救いの声が耳に届いた。
「巴、どうした?」
「あ、誠兄さん……」
巴が戻らない事に心配したらしい誠志郎がカートを押しながらその場に現れていた。
見知らぬ男が巴の頭をがっしりと掴んでいるのを見て、誠志郎は目に見えて警戒の色を濃くする。
若干、複雑な心情が過ったような気がしたのは気のせいだろうか。
怪訝そうな様子を隠さず男性を見据える誠志郎に、僅かに手に籠った力が緩んだのを巴は察知した。
今だ。
「ごめん、後よろしく!」
「あ、こら! 待て巴!」
盛大に暴れて拘束から抜け出す。
誠志郎に後を頼むと、巴は脱兎のごとく店の外へと逃げだして行った。
呆気にとられたまま残された形となった男二人。
誠志郎は少し唖然としていたものの、我に返ると男性へと硬い声音で問いかけた。
「あなたは、どなたですか」
「俺は……」
誠志郎の問いに、男性が答えようとした瞬間だった。
男性の方に、誰かが手を乗せた。
誠志郎と男性がそちらを向いたなら、そこには中年の警察官が固い笑みを浮かべて立っているではないか。
固い様子を崩さず、警察官は次々に男性の挙動について問いを重ねてくる。これは、どう見てもあれだ。所謂、職務質問、と言われるものだ。
男性の眉間の縦皺と青筋が更に増える。
「俺は! あいつの主治医だよ!」
怒鳴るように名乗られて、誠志郎も警官も一瞬目を瞬いた。
しかし、すぐに警官が怒りを露わに怒鳴り返す。
「お前みたいな、どう見てもチンピラが! 医者なはずないだろう!」
「チンピラじゃねえ!」
喧々囂々とやり取りが始まる。
どう声をかけたものかいいか逡巡する誠志郎の横を、比較的若い警官が通り抜けていく。
そして、男性と対峙している中年警官へ歩み寄ると、腕を引いて何とも言えぬ表情で声をかけた。
「あの、こちらお医者さんです……」
「は⁉」
気まずそうな声音でかけられた言葉に、中年の警官から素っ頓狂な声が上がる。
若い警官は、溜息と共に少しばかり沈痛な表情で続けた。
「南部坂にある診療所の先生です。俺の母がお世話になっています」
「あんた、本当に医者なのか⁉」
「そうだって言っているだろうが!」
申し訳なさそうにも聞こえる言葉を聞いて、中年警官が目をむいた。
驚愕に震える声を聞いて、男性が更に怒りの声をあげる。
誠志郎は事の成り行きに呆然とするばかりだ。
男性は舌打ちしながら懐から簡素な名刺を取り出すと、中年警官と誠志郎に放り投げるように手渡す。
誠志郎が名刺に視線を落すと、そこには確かに『南部坂診療所 医師
憤然とした様子の男性……亮医師を前に、名刺と若手警官の言葉があっては信じないわけにはいかない。
何とか謝罪すると、気まずそうに警官たちは去っていく。
後には、どうしたものかと思案する誠志郎と苛立ちを隠さぬ亮が残された。
「申し訳ありませんでした」
「別に、あんたは悪くないだろ。……慣れてる」
取る物もとりあえず、謝罪することにした誠志郎。直接物申してはいないが、勘違いした事は確かだったから。
それを遮るように手を振る亮。慣れている、と言う下りでは渋面に苦い翳りが色濃くなる。恐らく普段からこの手の騒ぎはよくあるのだろう。
「僕は……」
「いい。あんたが巴の旦那だろ? 確か、誠志郎とか言ったか」
名乗らぬままだったことに気づいた誠志郎が口を開いたのを、再び亮が制する。
初対面の相手から思わぬ言葉が出た事に誠志郎が目を瞬いて言葉を失うと、亮が大きく息を吐いて言う。
「恭子さんから聞いている」
「巴のお母さんから……」
ああ、この人は本当に巴の主治医なのだ、と誠志郎は思った。巴の母とも面識があるというならば、間違いないだろう。
次の言葉に迷いながら自分を見ている眼差しに気付いて、亮は更に大きな溜息交じりに髪をぐしゃぐしゃとかき上げながら吐き出した。
「あのバカ娘に言っておけ。せめて定期の診察ぐらいまともに受けろ。そうじゃなきゃ何があっても責任とれねえぞってな」
その言葉と先程の短いやり取りから察するに、巴は定期の診断を受ける約束があったらしい。しかも、それをすっぽかした。
確かに怒られても仕方ないな、と誠志郎は裡で思うけれど、同時に巴らしくないな、という思いも生じる。
巴は、決められた約束事を一方的に破る人間ではない。嫌であろうと、我慢して守るはずだ。
巴の行動に疑問を抱きつつも、誠志郎は他に浮かんだ問いを口にする。
「巴は何処が悪いんで……」
「頭」
紡ぎかけた問いを遮って返ってきたのは、実に容赦のない一言だった。
咄嗟に言葉が返せず微妙な表情で絶句する誠志郎に、亮は真顔で続ける。
「身体は全く以て健康体だ。言っても言っても診察を受ける事を忘れる脳みそ以外は、至って元気だ」
確かに巴からは、持病があるなどの身体に関する不調について聞いた覚えはない。
それなら何故、と思いかけて誠志郎はある事を思い出す。
ああ、そうか。だからか、と裡に苦く呟く誠志郎には気付く事なく、亮は視線を伏せながら苦々しい声音で呟く。
「あいつも。あいつの叔母も、大叔母も。……健康体だったから性質が悪いんだ」
その言葉から、亮が、そして恐らく彼の前任者と呼べる存在達も咲洲家と関わりがあると知れた。
何故巴は定期の診察を義務付けられているのか。何故、咲洲家の女性達が医師からそう嘆かれるのか。
気付いてしまった誠志郎は、何も言えず心に生じた苦い想いを押し隠して沈黙していた。
次の診察は引きずってでもあんたが連れてこい、そう念押しするように言って亮は去っていった。
一つ息を吐いた後に誠志郎は会計をすませて、スーパーを出る。
物陰に隠れるようにして立っていた、気まずそうな巴を見て、誠志郎は静かに苦笑した。
誠志郎は、何も言わなかった。
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