優しいご近所さん
巴と誠志郎が結婚した、という話は懐刻堂の客にすぐに広まった。
元々、巴が誠志郎に熱を上げていると言う事は古参の客には周知の事実だった。
ついに射止めたか、と祝福してくれる人もいた。誠志郎を、ついに観念したかと揶揄う人もいた。
だが、大体の人に好意的に受け止められ、巴と誠志郎の少しばかり不思議な新婚生活は始まった。
巴は、改めて誠志郎に紅茶の淹れ方や菓子の作り方について教わりながら、店の手伝いをするようになった。
今は主に言われた通りに注文を取りにいき、出来上がった一式を運ぶ事。あとは洗い物や掃除に専念している。
アルバイト禁止の校則に従っていた為、接客自体が初めてである。まずはそこに慣れなければと必死だった。
少しの失敗を常連は笑って見逃してくれるけれど、巴はそれに甘えたくない。
初めての客さんであっても、常連の客であっても同じ事。少しでもこの店で嫌な思いをして返って欲しくないから。
馴染みの客の中には、巴ちゃんの淹れる紅茶を飲んでみたいという人もいるけれど丁重にお断りしている。
理由は単純である。巴が『基準』に達していないからだ。
この店で出される紅茶は『懐刻堂』の紅茶、つまりは誠志郎の紅茶だから。
自分で未だ納得できないなら、この店において誰かに提供したくないのだ。
誠志郎は美味しいよと微笑んで言ってくれるけれど、店で出せるとは言ってくれない。何故なら、巴の淹れる紅茶の出来にはムラがあるのだ。
誠志郎は優しい人だ。けれど、懐刻堂の主人としてその辺りには確かな線引きがある。巴には、むしろそれが有難い。
あまり意識してはいなかったが、存外自分は負けず嫌いであるらしい。壁があるなら、乗り越えてやろうという気になる。
限りがあるというならば、無為に時間を過ごすのではなく充実してありたい。もしかしたら目標には最後まで届かないかもしれないけれど、挑み続けていたいと思う。
それが、今の巴の願いだった。
その日は、店を開けて暫くは混雑していたが気付けば夕暮れ時。
硝子窓の外が茜色を帯びる頃には、すっかり落ち着いていた。
巴は窓から外を眺めながら、軽く伸びをしつつ問いかける。
「大分温かくなったけど、今年の桜は何時ぐらいかなあ」
「連休に入るかな? でも温かくなるのが早いからもう少し早いかもしれないね」
函館の春は、本州に比べて少しゆっくりとやってくる。桜が咲く頃合いも、四月の下旬に入ったあたり。
雪はもう日陰に残っている程度で道路は元の色を取り戻している。時折降雪はあるものの、積もる程には降らない。
日中は温かいと感じるけれど、朝晩はまだ寒い。それでもプラス気温であるだけ大分心情としては温かに思う。
桜の見頃が連休にさしかかる頃も多く、ゆっくり桜見物に出かけられるのは函館の良いところかもしれない。
近くにある函館公園にも花見に行くが、二人が毎年訪れるのが『桜トンネル』と呼ばれる場所だった。
住宅街の中にある通りの両脇に桜が植えられた通りは、満開になると桜色のアーチのような光景が続く。
祖父が生きていた頃は三人で。祖父が亡くなってからは誠志郎に連れられて二人で、知人を訪ねつつ懐刻堂の休みの日に散策に出かけるのが毎年の恒例だった。
函館公園や五稜郭公園のような有名どころもいいが、巴としては渡島支庁前の通りも推したい。
美原の渡島支庁がある通りには、ソメイヨシノから少し時期がずれて満開になる八重桜が通りに沿って植えられている。
満開の時期も良いが、散り際の時期に通りを進む時、風が手伝ってくれれば桜色の渦の中を進んでいくような不思議で美しい光景を見る事も出来る。
二人で少し気の早い桜の話などしていた時だった。
「お邪魔します」
店の扉が開く音と、扉についているベルが小さく鳴る音が聞こえて、二人の眼差しがそちらに向けられる。
そこには、笑顔を浮かべた女性が立っていた。
薄い茶色のふわりとした髪をゆるく纏めた、可愛い系の美人。
温和で落ち着いた、小柄で華奢な雰囲気の女性だった。手には、何やら綺麗に包装された箱を抱えている。
見知った顔の来訪に、巴と誠志郎の顔にも笑みが浮かぶ。
「
「深雪さん! こんにちは!」
深雪と呼ばれた女性は、懐刻堂の近くある英国の骨董品を扱う店の店主だった。
数年前に近所に店を開いてから、今ではすっかり懐刻堂の馴染み客の一人である。
フルネームは、深雪・ハーシェル。亡くなったご主人が英国人だったという事だ。
今でも夫の墓参りや仕入れという事で時々店を空ける事がある。先日も結婚報告に行った際には不在であり、お知らせのメッセージを送る事となった。
店でよく顔を合わせるし、よく話す。巴にとっては姉のようにも思う人である。
「これ、少し出遅れたけど結婚祝い。改めて、結婚おめでとう!」
菫の絵が美しい、繊細な造りのティーポットと二つのカップのセットだった。
長年自分でも使ってきたし、この店でも色々と見て来た巴は、これが間違いなくアンティークの逸品だと分かる。
結婚祝いとしては、流石に上等過ぎるのではないか、と思わず言葉を失って見つめてしまう。
横目で見たら、誠志郎も言葉を失っている様子だった。
「二人にお祝いっていったら、やっぱりこれかなって。売り物でごめんなさい」
申し訳なさそうに深雪が言うのを、巴と誠志郎は首を左右に振りながら止める。
違う、そうではないのだと必死に訴える。次いで、二人揃って少し照れた様子で、改めて礼を述べた。
嬉しそうに微笑んだ深雪は、いつもの、とディンブラを注文する。
ほんのりとした花のような香りと適度な渋みがあって、香りと味のバランスがとれているディンブラは紅茶らしい紅茶と言われている。
深雪は、そこがお気に入りなのだという。懐刻堂にて彼女が注文するのは、ほぼこの茶葉だ。
以前、密かに教えてくれたのは、深雪の亡き夫が好んでいたのもディンブラという事だった。
少しして、彼女の前には芳香を漂わせるカップが置かれる。
目を細めてカップを手にしながら、深雪は笑みを浮かべながらしみじみと呟く。
「巴ちゃん、昔から誠志郎さん一筋だったものね。良かったわね」
実際その通りではあるが、改めて言われると照れてしまって頬が熱くなる。
深雪は、毎年のように誠志郎に本気で求婚する巴を知っているから、感慨深そうだ。
本気なのに、とかわされ続けて悔しい思いをした時に相談にものってくれたし、その都度諦めないでと励ましてもくれた。
妹の結婚を喜んでくれているような雰囲気の深雪に、気恥ずかしくてなかなか言葉が出ない。
「巴ちゃんは、私にとって可愛い妹分だから。泣かせたりしないで頂戴ね?」
冗談めかして言われた言葉を聞いた瞬間、僅かに巴は不思議なものを感じた。
笑顔で紡がれた言葉が、ほんの一瞬だけ冷やりとした翳りを帯びたような気がしたのだ。
ただ、それはほんの刹那。次の瞬間には消えていて、巴は気のせいかと裡で呟いた。
頷いて応える誠志郎を見て、安心したように笑みを深めると深雪は続ける。
「おめでたい話も、そう遠くないかしら。……って、ちょっと不躾だったわね」
気まずそうに笑いで誤魔化しながらいう深雪に、曖昧な笑みを浮かべるし二人。
多分、それは結構遠いと思う、と巴は心の中だけで呟いていた。
長年の想いが叶って、誠志郎と結婚出来た。戸籍上は、まごう事無き夫婦である。
だが現在、おやすみ、と言って戻る部屋は別である。一緒には眠っていないのだ。当然ながら、それ以上の事もない。
言葉にせずとも感じるのだ。誠志郎にそのつもりがないのだと。
求婚には頷いてくれた。しかし、本当のところで巴を受け入れてくれたわけではない。
仕方ないとは思う。心から巴を愛し、選んでくれたのではない。あくまで、願いを受け入れてくれただけなのだと、どこかで気付いている。
それが『まだ』なのかこの先もなのかは、分からないけれど……。
だから、どこか夫婦というよりも兄と妹の家族といった様子である、とは巴も感じている。
誠志郎は時折複雑そうではあり、巴もついつい「誠兄さん」と呼ぶのを変えられないでいる。
でも、巴は嬉しい。今までより少し近い場所で、家族として居られるというだけで、巴の日々はとても温かなものになったから。
だから、おめでたい話……子供が出来るという可能性は、今のところ低い。
けれど、それなら何故かを説明しなければならない。だから、曖昧に言葉を濁すに留まる。
今はまだ誠志郎と巴は、以前と少しだけ呼び方が変っただけの関係だ。
けれど、いつか。
そこに至るまで、二人で共に歩いていけるだろうか。
裡に小さな可能性への期待を秘めながら、巴は深雪に笑顔を向けるのだった。
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