新しき日々
月が替わり、四月。
少しずつ風が温かさを帯びて、地面に彩りも見え始める頃だが、完全に春が来たともまだ言えない。
そんな中、巴と誠志郎は市役所に婚姻届を提出し、正式に夫婦となった。
挨拶に伺いたいという誠志郎と共に、巴は気が進まないが実家に報告しに行った。
来なくても大丈夫と言ったものの、そういうわけにはいかないだろう、と押し切られた。
父は祖父が亡くなる前に既に世を去っている為、巴にとって保護者と呼べるのは母親だけである。
娘から「結婚する」とだけ伝えられた母・
誠志郎は、丁寧に頭を下げて巴との結婚を許して欲しいと伝えてくれて。
暫し無言だった母は、やがて「好きにしなさい」とだけ告げて姿を消した。
式は行わなかった。
巴としては花嫁衣裳に夢がないわけではなかったが、そこまでのこだわりがあるわけではない。
それよりも新婚生活への準備が忙しかったのだ。
懐刻堂の二階の居住空間の内、倉庫となっていた一室を巴の部屋とするために店が閉じている間を使って二人は奮闘した。
その日は定休日。少しずつ運び入れていたものを、一気に片づけてしまおうと言う事になった。
と言っても、大物を抱えて頑張ってくれたのは主に誠志郎だったが。
本棚に机、ベッドを軽々持っては設置する誠志郎を見て、目を丸くしてしまった。
今までそこまで気にしなかったが、かなり、いや相当な力持ちである。話によれば、それも吸血鬼になって備わった力の一つであるという。
祖父の家は一通りの必要なものと大切なものだけ引き上げて、人に頼んで管理することにした。いずれ希望者が居たら貸す事も考えている。
狭くてごめんね、と誠志郎は言うけれど六畳に収納付きとあれば充分だ。
そもそも、巴はそこまで荷物が多い方ではない。パソコンの他は、精々がよく読む本や思い出の品を纏めてきた程度。服だってそんなに多い方ではない。
高校の時に使っていた参考書や教科書は、一部のものを除いて潔く処分した。
その一部の行先は。
「和君も高校生か」
「今年から目出度く男子高生」
この春に市内の有名私立高校入学となった弟である和。
和が欲しいと言ったものは譲ったのだ。
姉のお下がりなんて使わなくても幾らでも買ってもらえるだろうにとは思ったが、弟の願いを無碍に却下するほど薄情でもない。
書き込みがあるものも、これがいい、と言って嬉しそうに引き取って行った。
「昔から勉強が出来る子だと思っていたけど、納得の進路だね。当然、大学まで見据えているんだろう?」
「それはもう。和には進学しないっていう選択肢がないの」
和が進学した学校名を聞いて納得したように頷く誠志郎。
口にされた問いに頷いて応えながら、巴は肩をすくめて続ける。
「幼稚園からお受験だもん。今も家庭教師付き。上の子が当てに出来ない分、弟に全部負担が行っちゃって少し申し訳ない」
「巴……」
市内でも有名な進学校である男子校に入学した弟を思い、巴は小さく息を吐く。
この後否応なしに大学受験となるだろう和。
本人は市内にある公立大学に興味を示していたが、母は和に北海道の最高学府を目指して欲しがっているとか。
和に対して、咲洲家の跡取りとして相応しい学歴を、と求める母。なまじ努力すれば届くであろうという場所に居るからこそ、期待は尚更重いものとなる。
意見の相違に悩まなければいいが、と弟の事は心配だが、口を出す権限は巴にない。巴は、あの家においてほぼ完全に外野なのだ。
巴と母親の確執を感じ取った誠志郎が、複雑な表情で言葉に窮してしまっているのを見て、巴は小さくごめんと呟く。
以降、家族の話題に触れず作業に戻った巴は背中に視線を感じていたが、誠志郎はそれ以上何も言わなかった。
あらかた片付いて、あとは残りの細かい物を巴が片づけていくだけという頃合いになって、誠志郎が提案してくる。
「お茶を淹れるから休憩しよう」
お茶のお供にチョコレートブラウニーがある、と誠志郎は笑って言い添えた。
こくり、と頷いて見せながら巴は口を開く。
「うん。……淹れるところ、見ていてもいい?」
「勿論、いいよ」
おずおずと巴が上目遣いに申し出ると、誠志郎は微笑んで頷いてくれる。
最近、巴は頓に誠志郎が紅茶を淹れる際に横に居させてもらうようになった。
何とかコツを掴めないものか、と思うのだ。
懐刻堂に通うようになって十年。誠志郎は丁寧に色々と教えてくれたのだが、未だに「これだ」という味が出せていない。
どうせなら自分の納得のいく紅茶を淹れてみたいし、叶うなら、それを誠志郎に飲んでもらえたらと思う。
少しでも誠志郎に近づきたいと思う。いつか、お店を手伝えるぐらいになりたいというのは身の程知らずだろうか。
何よりも、幼き日に魔法使いと思った姿を誰より隣で見ていたい。少しでも誠志郎と一緒に居たいのだ。
紅茶を淹れている時に、誠志郎はとても楽しそうな笑顔を見せる。
誠志郎の隣で、笑顔を見ていたい。あの日、彼の顔に浮かんでいた哀しい顔ではない、穏やかな表情を。
交わせる他愛ない会話が愛しい。共に過ごせる事、何かを共に出来る事。一つ一つが、巴の心に温かなものが灯っていく。
思わず誠志郎の腕を抱き締め甘えるように身を寄せてしまったが、少しばかり苦笑する気配を感じるものの誠志郎が咎める事はなかった。
「巴は、今日は何が飲みたい気分?」
「うーん。ブラウニーと一緒だし、個人的にはアールグレイかな?」
胡桃の香ばしさとチョコレートの甘く濃厚な風味、さっくりとした食感を思い出しながら、巴は答える。
お菓子やその日の気分に応じて茶葉を変えられるというのはなかなかに贅沢だ、と思う。
アールグレイは、ベルガモットで着香した茶葉全体を指し、ベースが何であろうとそう呼ぶ、というのは大分前に誠志郎に教えてもらった。てっきり産地の名前だと思ってた! と驚いたのを覚えている。
爽やかな柑橘の香りは、チョコレートなどの風味の強い食べ物の口直しに向いている。他の茶葉でミルクティーでも合うとは思うが、何となく今日はアールグレイを願いたい気分だった。
その時、巴を伴って歩き出しかけた誠志郎の歩みが、ふと止まる。
疑問に思った巴が見つめた先、彼が目を留めていたのはある小箱だった。
開かれた段ボールの中に無造作に置かれたそれは、巴のような年頃の少女の持ち物としては些か不釣り合いなものなのだ。
ああ、これか、と呟きながら、巴は金銀象嵌の施された芸術品とも言える小箱を手に取り、蓋を開ける。
巴が中から取り出したのは、金線細工の首掛け式時計鎖、金無垢に精緻な花模様や小さな貴石をあしらった年代物の懐中時計だった。
針が時を刻む事はない。ある時間のまま、時計は時を留めてしまっている。一度職人に見せたものの、内部に問題はないと返って来た。
来歴は不明であるが、刻まれた文字から察するに海外から来た品である事だけは確かなようだ。
アンティークとして見たなら、それなりに価値のある品に見えるだろう。いや、実際アンティークとして『だけ』ならかなりの価値がある筈だ。
「これは、お祖父ちゃんが『巴に』って遺言に書いていたから、って」
疑問を含んだ誠志郎の眼差しをうけて、懐中時計を手に巴は一つ息を吐いて説明を始めた。
祖父はアンティークジュエリーの蒐集家だった。何でも亡き祖母に由来するらしい。それについては、恐らく誠志郎も知っているだろう。
ただし集めるものは、何故か『曰くつき』のものばかり。古今東西有名無名関係なく、必ず何かの曰くを持つ品々を集めていた。
それらは現在、祖父の遺した資金を元に開かれた小さな個人美術館に収められている。
父達は渋い顔をしたようだが、最後の我儘と納得したらしい。今そこは祖父が信頼した人間に託されている。
祖父の蒐集品の中にあって、この懐中時計だけは巴の元にやってきた。他ならぬ、祖父の遺言に従って。
「僕はそう詳しい訳ではないけど。これは、かなり価値がある品なんじゃないか?」
「……買い手がいて、値が付けばね」
財産目録に載っていても然るべき品であると、誠志郎も察したのだろう。
何かと物申している叔父が口出ししてきてもおかしくない。
実際、巴に遺すとされた遺産についてはうるさく大分あれこれと言われた。叔父と反目している母が珍しく巴を庇ってくれた為、遺言通りに受け継ぐ事が出来たのだ。
だが、この懐中時計については何も言われなかった。
宝飾品を資産と目するならば、それも価値が評価されてこそ。
祖父が集めていた品は、皆須らく曰くつき。つまり、この懐中時計もその例に漏れない。
希少価値の高いかつての舶来品。細工の見事さに求められ、様々な人間の手を巡った事はあるらしい。
しかし、手にした人々には次々と良くない事が起きた。
悪夢をみただの、幽霊を見ただの、というだけならまだ可愛い。
手に入れた途端に全財産を失っただの、寝たきりになっただの。怖いもの見たさなのか悪趣味なだけなのか、面白がって手にした人々にも不幸は襲い掛かった。
噂は噂であり、何処まで本当かは分からない。しかし、最終的には皆揃って蒼い顔で手放したらしい。
曰くが有名すぎて今では買い手が居らず、売る事もできないという。
叔父も、むしろそんなものは要らないと言わんばかりに、これが巴の手に渡る時にも何も言わなかった。
「そんなこんなで、悪い噂がたんまり出回っているから。価値がどれだけ高かろうが売れないの。買いたいっていう人がいないの」
「そんなものを持っていて大丈夫なのかい……?」
誠志郎が眉をひそめながら問う。
その疑問は自然なものだろう。逸話だけ聞いたなら、何故そのような物騒な物をわざわざ孫娘に遺したのかと不思議に思う筈だ。
事実、自分も最初はそう思ったし、母や弟も渋い顔をしていた。
巴はゆるゆると首を左右に振って答える。
「今の処、私は大丈夫。私の手元に来てからは、それらしいことは何も起きてないの」
不幸が起きるというから身構えていたが、何も起きない。
時々、不思議な夢を見る程度だった。その夢も、悪夢というわけではない。
巴とよく似た顔立ちの女性が、懐中時計を手に穏やかに微笑んでいる光景。静かで、仄かに温かくすらある様子がふわりと浮かぶだけ。
それも思い出した頃に見る程度。怪異と言えなくもないが、あまりに害がないために気にしてはいなかった。
もしかしたら、巴と何らかの相性があるのをわかっていたから、祖父は巴にこれを遺したのだろうか……。
それならいいけど、と言葉を濁す誠志郎は、言葉程納得しては居ない様子だった。まだ、視線や言葉の端に巴を気遣う様子がある。
「まあ、修護さんは平気だったんだよね……?」
「曰くつきなものが手元にあり過ぎて、それぞれが拮抗しすぎていたのかもね」
自分を納得させようという様子で呟いた誠志郎の言葉に、肩を竦めながら巴は言う。
呪いの品同士、喧嘩でもしていたのではないだろうか。
曰くは曰く同士で、悪さをする主導権争いでも繰り広げていたのかもしれない。そんな事を考えると、少しだけ楽しい気がしなくもない。
まあ、多少の曰くや不吉程度ではあの豪快な祖父はびくともしなかっただろうが、と大真面目に呟く巴。
誠志郎それを聞いて、思わずと言った風に吹き出した。確かに、と頷きながらもついつい笑いが零れてしまっている。
祖父は気風の良い豪快な人だった。
巴にとっても大事な祖父だが、誠志郎にとっても恩人であると以前聞いた事がある。
懐刻堂を開くように勧めてくれたのは、祖父なのだという。
その時は『祖父が世話になった縁で』と言っていたが、彼についての真実を知った今ではそれは誠志郎自身の事だったのだと分かる。
祖父は、誠志郎が人間ではない事を知っていたのだろう。
誠志郎がどのようにして祖父と縁が出来たのかは分からない。だが、祖父が誠志郎に対して心を砕いていた事も、信頼を寄せていたことも、確かな事なのだと巴は知っている。
本当にお嫁さんにしてもらいました、などと言ったら祖父はかつてのように大笑いする気がする。さすが俺の孫だといって、笑いながら喜んでくれた気がする。
いつか、祖父との出会いについても聞いてみたい。
小箱を段ボールの中に静かに戻しながらそんな事を考えて、巴は促すようにこちらを見る誠志郎に続いた。
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