花の贄
誠志郎が語り終えると、二人の間には深いものを含んだ重い沈黙が満ちた。
何とか力を振り絞り問いを紡ぐけれど、巴の声は少しばかり掠れていた。
「私は、どうなったの……?」
吸血鬼になったのかと問うと、否定が返ってきた。
けれども、大量の血を吸われて死にかけた自分はこうして生きている。
あの時揺らいだ命は、むしろ今より確かで強固なものとして自分を形作っている。巴はそう感じるのだ。
問われて、誠志郎の顔に僅かな動揺が過る。
考えるように唇を噛みしめていたが、少しの逡巡の後、誠志郎は再び口を開いた。
「血族に……吸血鬼にしてしまえば、巴も人の血を糧に、夜に生きる存在になってしまう。それだけはしたくなかった。だから……」
誠志郎は真っ直ぐに巴を見据えて、ゆっくりと答えを口にする。
「君を『
「……『花贄』……?」
呆然と、聞いたばかりの言葉を口にする巴。
問いに知らずの内に首を傾げていた巴に、誠志郎は苦い表情で続く言葉を告げる。
「始祖にとっての、食料である人間だ」
再び言葉を失った巴の目が大きく見張られる。
流石に、自分が何者かの食料、などと言われて驚かない人間はいない。相手が愛しい男性であっても、だ。
次なる言葉が紡げずにいる巴を苦いもの交じりの眼差しで見つめながら、更に誠志郎は続けた。
「始祖に血を提供し続ける代わりに、花贄には人にはない回復力や身体能力が備わる。花贄の血を得た始祖は更なる力を得る。そして、他の人間を必要としなくなる」
感じていた不思議な調子のよさがあるのはその為かもしれない。
先程までの朦朧とした冷たさが嘘のように、身体には力が満ちている気がする。
花贄となったが為の回復力に救われたのだろう。けれども、誠志郎はそれを悔いているのが伝わってくる。
「血族と違って花贄はあくまで人間だ」
人の血を糧とする存在の贄である以上、不可思議を宿したとしてもあくまで人なのだという。
誠志郎は真っ直ぐに巴を見据え、言い聞かせるようでいて、何処か懇願するような声音で言葉を紡ぎ続ける。
「僕の側に居なければ、少し能力的に優れてはいるけれど普通の人間として暮らせる。だから、もう僕に近づいちゃいけない」
「嫌!」
聞いた瞬間、弾かれたように巴は叫んでいた。
幼い子供が駄々をこねるように、激しく拒絶を表しながら必死に訴える。
「私は、誠兄さんと一緒に居たい! 私から、誠兄さんを取り上げないで!」
初めて会ったあの日から、誠志郎は巴にとっての世界の意味であり、大切な『光』だった。共に過ごした時間は、どれ一つとっても大切な宝物だ。
この店に来ると、何時も優しく出迎えてくれる笑顔の人に、どれだけ救われたか分からない。
もう誰からも必要とされなかったわたし。誰の世界にも要らないわたし。
捨て鉢になっていた自分の世界に、あの日風穴を開けてくれた彼と紅茶。
哀しみにも恐怖にも負けたくない。前を向いて、笑っている姿を見せていたい。最後の一呼吸まで戦い抜いてやるという決意も覚悟も、共に過ごした日々と重ねた想いがくれたものだ。
絶対に失いたくない。みっともなくても、無様でも、手を離したくなんかない。
ここで引いてたまるか、と気が付いたなら、巴は両腕で誠志郎に縋りついていた。
激しく動揺する眼差しをうけながら、巴は必死に叫んでいた。
「ご飯は、作ったならちゃんと美味しく食べてください!」
誠志郎が絶句したのが伝わってくる。
食料だという贄の自分を遠ざけて、彼はこれからどうするのだろう? 自分をそうしたように、別の誰かを花贄にする?
いやだ、そんなのいやだ。醜い嫉妬だと思うけれど、嫌なものは嫌だ。それぐらいなら、自分が食べられたほうがましだ。むしろ、食べてくれと思う。
贄という言葉からも、食料という説明からも、誠志郎の様子からも。自分に、長く続く明るい未来はないのかもしれない。
だから何だというのだ。そんなものは元々だ。
むしろ、彼との繋がりとして役得と思いながらずっと笑っていられそうだし、最期の瞬間も笑顔で逝ってやる。
無為に消えていくよりも、誠志郎の中に残れるならば、巴にとっては余程幸せだ。
限りあるならば、尚更悔いのないように生きたい。少なくともこのまま別れて、彼の中に罪悪感として残るのだけは御免だ。
真っ直ぐに誠志郎へと眼差しを向けて、巴は再び彼女の内にある唯一つの願いを口にする。
「責任をとって、わたしと、結婚して下さい!」
一度は拒絶された願いを、更なる想いを重ねた、新たな決意を以て告げる。
巴の顔には、笑顔が浮かんでいた。恐れも何もない、満面の笑みだった。
強張った表情のまま目を見開いた誠志郎は、黙って巴を見つめていた。
再び二人の間に沈黙が満ちて、暫し。無言に揺蕩う時は永劫に続くのではと錯覚させる程だった。
不意に、階下から長時計が刻を告げて鳴る音が伝わり響く。同時に、大きく息を吐く音が響いた。
やがて、一歩も引かない構えの巴に、誠志郎は大きく嘆息したのだ。
流石に駄々っ子のように騒ぎ過ぎたか、と不安が過ぎった次の瞬間、表情が少しだけ緩む。誠志郎の顔には、哀しみを宿した、けれど優しい苦笑が浮かんでいた。
「……わかった」
告げられた言葉に、巴は思わず目を見張ってしまう。
望み通りの返事が得られた事に、理解が追いついてこなかったのだ。
誠志郎は、今『わかった』と言った。それはつまり、願いを受け入れてくれるということで。
願いが叶うのだと、巴が気付けたのは誠志郎が静かに頭を下げ、続く言葉を口にしてからだった。
「不束者ですが、よろしくお願いします」
ふわりと、温かな感触が自分を包んだのを巴は感じた。
誠志郎越しに見える硝子窓の向こう。夜闇にひらり、ひらりと白い雪が舞っているのが見えた。
それは私の台詞、巴はそう言おうとした。だが、言葉として紡がれてくれない。
幼い頃にしてくれたように、誠志郎は巴を腕に抱いてくれている。
愛されているからではないかもしれない。同情のような感情からかもしれない。
それでも、灯り続けた明りをもう少しだけでも、胸に抱いていけるのだと言う事を。
巴は、たまらなくしあわせだ、と思っていた――。
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