祖たる花


 何かが追いかけてくる。

 ずっと、私を、私たちを追いかけてきたもの。

 綺麗だけれど、恐ろしいものが、追いかけてくる。

 今までの人は皆あれに捕まってしまった。

 私も、もう少しで捕まってしまう……。



 瞼を震わせてゆっくりと瞳を開くと、ぼんやりした視界が緩やかに輪郭をはっきりさせていく。

 巴は、最初自分が何処にいるか分からなかった。

 落ち着いたたたずまいの内装に、簡素と言える程に物の少ない室内。懐かしくて落ち着く、けれども何処か寂しい雰囲気を持つ場所。

 ここが、以前入れてもらった懐刻堂の二階……誠志郎の住居である事に漸く気付く。

 柔らかな感触を感じるの。自分が横たわっているのは、多分彼の寝台だろう。


 誠志郎を感じる場所に、昔の事を思い出す。

 かつて祖父が巴を連れていけない所用で出かける際、誠志郎の元に預けられた日があった。

 祖父としては実家に預けるより余程安心できたのだろう。

 巴としては誠志郎と過ごせる事に大はしゃぎだった。

 しかし、はしゃぎ過ぎたせいか中々眠る事が出来ず、寝付けない事が何故か不安になって思わず涙ぐんでしまう。

 それを見た誠志郎は、優しく苦笑しながら巴を腕に抱いてくれた。

 温かで頼もしい落ち着く場所に、幸せな気持ちで眠りにつく事が出来たのだ……。


 追憶から戻れば、目の前には明瞭になった視界がある。

 天井から視線を少しずらしたなら。


「巴……」


 不安げに表情を曇らせた誠志郎が居た。

 巴と目があって少しだけ安堵したような光が過ったものの、表情はあまりにも暗い。

 巴を見つめる彼の瞳は、黒い。紅い色の瞳。あれはただの見間違いだったのかと思ってしまう。

 しかし、次の瞬間巴は目を見開く。


「誠兄さん! 怪我は⁉ 怪我、は……」


 意識が明瞭になると共に、彼が怪我を負っていた事を思い出す。

 血の跡の先にいた、手負いの獣のような余裕のない様子だった誠志郎。自分は救急車を呼ぼうとした筈だ。

 それで、どうした?

 呼ぼうとして、スマホに手を伸ばして……誠志郎に引寄せられて。

 蘇ってくるのは背中に感じた床の固さ。そして、首筋に覚えた、突き立てられる牙の感触……。


「……怪我はもう大丈夫。血の跡も、後始末してきた。……僕は、大丈夫だから」


 巴の身体に次々と返ってくる感触に目を軽く見張って言葉を失っていると、誠志郎が苦い声音で呟いた。

 自分『は』大丈夫、と口にする彼は何かを悔やんでいるように感じる。

 誠志郎は大丈夫、というならば大丈夫じゃないのは……?


 巴は手を動かしてみようとする。ちゃんと動かせるし、感覚もある。

 誠志郎が手で止めようとするけれど、ゆっくりと身体を起こす。

 意識を失っていただろう身体は、覚醒した直後だというのに不思議と軽い。

 ただ『何か』が違う気がする。今までの自分とは何処かが違う。


「ごめんね」


 自分の中に感じる変化に戸惑っていた巴の耳に、哀しい呟きが聞こえた。

 まるで泣いているようにも思える声音に驚いて視線を向けると、誠志郎が俯いている。

 何で誠志郎が謝るのか、と問いたい心を抑えて、巴は彼の言葉の続きを待つ。


「……僕は、君を殺しかけた」


 顔を上げながら言った誠志郎は、悲痛な面持ちをしていた。

 言葉を奪う程に辛そうな、自らの存在すら厭う光に、巴は息を飲む。

 血が抜けていく感覚が生々しく蘇ってくる。

 身体がどんどん冷たくなっていき、力が失せていく。鼓動が緩やかになっていく、自分が消えていく。途切れていく……。

 思い出せば思わず身体が強ばる。そんな巴を見つめながら、裁きを待つ罪人のような空気を纏いながら、誠志郎は告げた。


「巴には聞く権利がある。……話すよ、僕が何者なのか」


 誠志郎は、そこでひとつ息を吐いた。一度目を伏せた後、迷いを断ち切るように口を開く。


「僕は……人間じゃない。人間が、吸血鬼と呼ぶ存在だ」


 朧気な意識の中で、まるで吸血鬼みたいと思った。

 牙を突き立て血を吸い上げられながら、そんな物語みたいな事、と笑いたかったのを思い出す。

 けれど物語は、今事実として誠志郎の口から語られた。

 まさか、と言いたいけれど言えない。だって、誠志郎はこんな時に冗談を言うような人ではないから。

 その自らの行いを悔いる、哀しみに満ちた表情を見てしまったなら。嘘だ、などと言える筈がない。

 それに、感じるのだ。彼が語る事、彼が人ではないと言う事が事実であると。理由は分からないけれど。


「物語に語られている吸血鬼とは異なるところがあるけれど、人の血を糧にしている事は間違いない」

「でも、誠兄さんは……」


 確かに、誠志郎の日頃の様子には吸血鬼についての一般的なイメージに当てはまらない処がある。口籠る巴の顔に浮かんだ疑問を察したのか、誠志郎が静かに続ける。


「日光の下で限りなく無力化されるけれど、灰にはならない。十字架は元々信仰があったかどうかで変わるらしい。……銀だけは苦手だけどね」


 そう、誠志郎は積極的に出て歩きはしないが太陽のある時間に外に出ていたし、この店の近所には教会が幾つかあるのに気にした様子もなかった。

 でも、確かに茶器に様々なアンティークを使うのに、銀製品だけは使おうとしなかった。アレルギーがある、と言葉を濁していたが。


「僕は確かに吸血鬼であり、そして……『始祖』と呼ばれる存在だ」

「始祖……?」

「……吸血鬼の血統の始まりとなる者。吸血鬼を生む事が出来る者のことだよ」


 腑に落ちた様子の巴を見て、誠志郎は苦い笑みを浮かべながら改めて紡ぐ。

 誠志郎の言葉に耳慣れない単語を聞いて鸚鵡返しに呟いてしまった巴に、誠志郎は答える。

 『始祖』……始まりとなる吸血鬼、新たな吸血鬼を生みだす事が出来る存在。

 巴は、そんな存在に血を吸われたのだ。それならば、と首を傾げながら巴は問う。


「……私も、吸血鬼になったの?」

「吸血鬼に噛まれても吸血鬼にはならない。それぞれの血統の中枢である始祖が血を、厳密に言うと血から成る『花玉』を与える事によって吸血鬼は増える」


 先程から自分が以前までとは違うような気がしたのは、と疑問を抱いて口にした言葉を、誠志郎は緩く首を左右に振って否定する。

 そして、静かに彼らについて教えてくれる。幾らでも誤魔化せるだろうに、あくまで落ち着いた声音で真摯に。

 巴と真正面から向き合い、語ってくれている。だから、巴も真剣な面持ちで頷いて聞きながら、続きを待つ。


「吸血鬼は、元は人間なんだ。……僕も、そうだった」


 過ぎた遠い昔に思いを馳せるように目を細めて、誠志郎は呟く。

 言葉に思いの外深いものを感じて目を瞬いた巴だったが、続いた言葉に思わず目を見開く。


「僕が生まれたのは、黒船来航の次の年……まだ『箱館』で、ペリーが入港した年だったな」

「え⁉」


 歴史の教科書で聞いた出来事をさらっと口にされて、思わず巴は素っ頓狂な声を上げかけた。

 それが本当であれば、誠志郎は明治の……いや、その前の人間ということだ。

 当然ながら巴の亡き父よりも、いや。


「……おじいちゃんより、ずっと年上って事……?」

「そういう事になる」


 重々しく頷きながら、誠志郎は巴の問いを肯定する。

 想い人が人ではなかったという事も驚愕の事実であるが、元は人間で、それも祖父よりもずっと年をとっているという。

 道理で函館の歴史に詳しいと思った、と巴は裡に呟く。語りに臨場感があるのは当然だ、実際に見て来たのだから。


 目を白黒させて言葉を失っている巴に苦笑すると、誠志郎は自分の過去について静かに語り始めた。

 何でも、誠志郎の家は函館の開港に合わせて移住してきたらしい。

 元を辿ればそれなりの家門の分家であるらしいが、詳しくは知らないと言う。

 家を継ぐのは兄に任せて、誠志郎は学問にて身を立てようとしていたらしい。だが。


「悪い事に家が傾いてね。それでも英語と幾つかの国の言葉は身に付けられたから、運よく異人相手の通訳の職につけた」


 誠志郎の父は、今後異人との関わりが重要になってくると見ていたらしい。

 いち早く自身も異国の言葉を学び、息子達にも同様に学ばせた。それが役に立ったのだという。

 彼は英語だけではなく数か国語に通じているということで通訳として重宝され、家計の助けになれた。

 そして、その人物との出会いが訪れる。


「最後に僕を通訳として雇ったのがユーインという男だった」


 通訳としての評判を聞きつけた英国領事に呼び出され出向いた先で出会ったのが、ユーインという英国人だった。

 彼は英国領事に招聘されて函館の地を踏んだらしいが、その詳細については伏せられていた。


「紅茶と菓子が好きな気さくな奴だった。雇用主であると共に、色んな事を学ばせてくれた、師とも言える相手だった」


 ユーインは学びの早い人物で通訳をしている内に自分で簡単なやり取りなら出来るようになっていった。

 それでも、ユーインは誠志郎を続けて傍においた。何でも『言葉が分からないと思われている方がやりやすい』と言っていたと。

 誠志郎が他国の言葉に通じていたのもある。

 だが、それ以上にユーインは誠志郎に様々なものを教えてくれた。惜しみなく進んだ異国の知識を授けてくれた。

 真面目な誠志郎をからかいつつも、教え子の成長を喜ぶ教師のような顔を見せる事もあったという。

 師について口にする誠志郎の表情には、僅かに笑みが浮かんだ。しかし、次の瞬間にその笑みが消え、表情が曇った。


「でも、ある時に僕は何者かに殺されかけた。……ほぼ死んでいたのだと思う。その時、ユーインに……先代の始祖に問われた。『このまま死ぬか。守る為に呪いを継いで人ならざる者として生きるか、選べ』と」


 巴は思わず目を見張る。誠志郎にとって師と呼べる存在は、先代の始祖であった事に……人では無かったことに驚いて。

 当時を思い出しているのだろうか。誠志郎の表情は苦しげであり、様々な感情を内包した複雑なものだった。

 巴はただ黙って誠志郎が語るのを見つめていたが、ふと気になった。

 誠志郎は、何を守ろうとしたのだろう、と。

 けれど、今それを問う事が出来ない。出来るのは、黙したまま続きを待つ事だけ。


「僕は問いに頷いて、赫花かくかの種である紅玉を受け継いだ」


 巴の目の前で、誠志郎が右手の平を差し出した。

 腕全体からまるで血管のような赤い蔓が浮き上がり絡みついたかと思えば、蔓の先、手のひらの上に花が咲いた。

 燃えるような紅に硬質な輝きを宿した、幾重にも重なった花びらが美しい花だった。


「これが、始祖を始祖たらしめるもの。……呪いの源である『赫花』。今の僕の核と呼べるものだ」


 巴の目は誠志郎の手に咲いた紅に釘付けだった。

 あまりに美しくて、惹きつけられる。今がどのような時かを忘れてしまそうな程に。

 ただ美しい、と思うだけではない。何故か、花を見て口に柔らかな感触と『甘い』という感覚が生じる。

 裡に生じた不思議な感覚を打ち消すように、聞いていて生じたある問いを口にした。

 

「ユーインさんは……」

「死んだ。……跡形もなく、消えてなくなった」


 抑えた声音で語られた言葉に、巴は凍り付く。

 存在の中枢となるものを受け継いだのであれば、もう存在を保てないのかもしれない。それならば、先の始祖は自らが死ぬのを覚悟の上で誠志郎を延命したのだろうか。


「恐らく、ユーインは……死にたかったんだと思う」


 誠志郎の手から花が消える。それと同時に絡みついていた蔓も腕に吸い込まれるように消えた。元の通りに戻った手を己の胸にあて、誠志郎は目を伏せる。


「始祖は、力と共にそれまでの記憶を全て受け継ぐ。ユーインが辿ってきた道のりも、今、僕の中にある」


 彼が今思いを巡らせているのは、眠る過去の始祖の記憶だろうか。それを受け継いでから歩んできた彼自身の時だろうか。

 一度沈黙した後、誠志郎は巴にふと問いかけた。


「童話の、呪われた渡し守の話は前に聞かせた事があっただろう?」

「うん。確か、誰かに櫂を渡すまで舟を渡し続けるっていう……」


 突然問われた内容に、少し混乱しかけるものの巴は思い出す。

 あれは何時の事だっただろう。誠志郎が巴に童話を語って聞かせてくれた事があった。何故この話を聞かせてくれるのだろうと、当時は不思議に思ったものだが……。


「あれと同じだ。……始祖とは、吸血鬼という種族にかけられた呪いそのもの。誰か次の人間に『櫂』を渡すまで終わる事が出来ない」


 核となる花を受け継ぎ続いていく存在を、誠志郎は今『呪い』と表した。

 彼自身もそう思っているのだろうし、恐らくその想いは。

 誠志郎は嘆息と共に、彼に始祖を渡して消えた男が抱いていた心について触れる。


「ユーインはあまりに長い時を生き過ぎて、生きる事に疲れきっていた。だから、終焉の地を求めて遥か東の異国にやってきたんだ」


 世には不老長寿を、或いは不老不死を夢見る権力者が居る。それを真っ向から否定するような望みを抱いて、海を越えてやってきた男性。

 彼と誠志郎はどのような時間を過ごしたのだろう。先の始祖は、何を思いながら逝ったのだろう。そして、誠志郎は何を想い、これからを生きていくのだろう。

 巴には知る事が出来ない。答えは、誠志郎の中にしかない。

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