月の無い夜に
巴の現在住んでいる彼女の祖父の家は、市電の終点の一つである『どっく前』で下りてから、魚見坂という坂を上った先にある。
左手に神社、右手に公園を目にしながら坂を上っていくのが何時もの帰り道。疲れている時には辛い事と思う時もあったが、おかげで足腰は鍛えられた。
家に帰ると、夕食の支度を終えたところだった通いの家政婦が出迎えてくれた。
巴が懐刻堂に寄り道してくるのは何時もの事であり、少し遅くはなったものの特に心配した様子はない。
卒業証書を見せると、付き合いの長い老婦人は目を細めて祝ってくれる。
帰る家政婦を見送って、コート等一式を自分の部屋に放り込むと用意してくれた夕食を食べる。
味気ないように思うけれど、これは恐らく気分的なものだ。だって彼女は料理上手なのだから。
箸の進みは遅いけれど何とか食べ終えて片づけて、巴は自室に戻るとベッドに身を投げ出す。
無言のまま突っ伏していると、考えないようにしても懐刻堂での出来事が蘇ってくる。
真正面から失恋した形になったのだが、すんなり切り替えられる程器用ではない。何せ、十年越しの想いである。
何時かを信じて突き進んだ自分を愚かだと思うけれど、だからといってすぐに諦められそうにない。
まるで罰を受ける咎人のような表情で、震える声で、自分を拒絶した誠志郎。
誠志郎が、あまりに深い『何か』を抱えているのをあの時感じてしまった。
知りたいと思うけれど、触れてはいけないとも思うもの。誠志郎が、巴を拒絶する根源ある『何か』。
過去の恋愛だろうか、それとももっと別の事だろうか。
恋していると言っても、誠志郎については謎に思う事は多い。
店を開く前まで何をしていたのかもそうだし、家族についても分からない。あまり語りたがらないので聞く事が出来ずにいた。
英語に長けているのは知っている。時折店に訪れる外国人とも気さくに談笑しているし、客同士のやり取りの通訳のような事も自然に行っている。
それに、函館の歴史にもとても詳しい。分かりやすく歴史を語ってくれた事があったが、詳しいだけではなくとても臨場感のある話で、楽しかったのを覚えている。
巴のような学生であっても、もっと小さい子供であっても、一人のお客として尊重して接するし、誰に対しても丁寧だ。
もしかすると、それは壁だったのかもしれない。丁寧である事で一定の距離を保ち、必要以上に踏み込ませない為の。
巴がその際を踏み越えようとしたから、あの拒絶となった……?
考えても、考えても、答えは出ない。
巴は盛大に溜息をつきながら、誠志郎の言葉を思い出す。
「今から大学を目指しなさい、って言われても」
予備校に行くなどして来年に備える事は可能だ。予備校に通う事も、合格した場合大学に通う事も、母は何も言わずに許してくれるだろう。
成績としても問題ないし、幸いにも実家の経済的にも問題はない。望めば市外の学校だろうと行けるはずだ。
けれど。
「行きたい大学も、なりたい職業もないもの。それに……」
目標のない浪人生活は相当に辛いだろう。
ないなら、探せばいいと言われるかもしれない。まだ十八歳なのだから、と。
世間から見ればまだ十八歳。けれども、『咲洲家の娘』である巴にとっては『もう』十八歳なのだ。
だからこそ、後悔しないように唯一抱いた願いを叶えたかった。けれど、あのように拒まれたならば。
これから先、少しでも何か夢のようなものを見出せるだろうか。わからない、今は何も見えない……。
未練がましいと思うが、誠志郎の姿が見たい。
一枚だけ撮らせてくれた写真を見ようと、起き上がり鞄からスマホを取り出した。
……取り出そうとした。
桜模様のカバーがお気に入りのスマホが、鞄の中をどれだけ探っても見つからない。何処に紛れてしまっているのかと、最終的には鞄の中身をひっくり返してみたものの、やはりない。
落とした? と怪訝に思うが、そもそも最後にスマホを手にしたのは何時だったか。
目を閉じて唸りながら、答えに至った時に巴は蒼褪めた。
「しまった……」
懐刻堂にて。誠志郎に卒業証書を見せる為に取り出そうとして、スマホを一度隣の席の椅子に乗せたのだ。
そして、あのやり取りに至る。
普通の状態であれば気付けただろうが状況が状況だった。誠志郎も半ば逃げるようにして外出した為に気づけなかったのだろう。
市電の乗り降りはICカードがあればいいし、会計の時にもスマホは使わない。
帰りは物思いに耽っていた為に、現在に至るまで使う場面が無かったから気付かなかったのだ。
このまま、また何れ……とは出来ない。取りに行かざるを得ない。幸い、まだ電車がある時間だ。
巴は溜息交じりにコートを手にすると、再び外に出る準備をする。
誠志郎は懐刻堂の二階を住居としている。帰っていれば開けてくれる筈だ。
しかし、とても気まずい。相当に気まずい。
流石に、あの別れ方をしてのこのこと出向いていくのは気が引ける。しかし、そう言ってばかりは居られない。
家に施錠すると、一度気合を入れ直すように頬を軽くはたいて、巴は白い息を吐きながら電停へと向かった。
見上げた空には、月の見えない闇が広がっていた。
ややあって、巴は再び懐刻堂の前に立っていた。
しかし、店の中にも、二階にも灯りが灯っている様子はない。
まだ帰っていないのだろうか、と恐る恐るドアから中の様子を伺おうとした時。
「あれ……?」
ドアには鍵がかかっていない上に、かすかに開いていた。
少し押すだけで、扉は容易に錆びついた音を立てて中へと押し込まれた。
誠志郎は帰っているのだろうか。けれど、それなら何故に明りが点いていないのだろう。それに、こんなに不用心な真似をする人ではない。
疑問に首を傾げた時、巴の目にあるものが映った。
白に散らばる紅い点。それは、離れた処から徐々に店へと近づいてきて、店の前にて途切れている。
まさか、と巴は蒼褪める。
白い雪の上に鮮やかに零れる鮮やかな赫は、血ではあるまいか。
点にて描かれた筋は店の前まで続き、恐らくは店の中へと。
窓から街灯の明りはさしこんでいるものの、微かなものだ。薄暗い店内を恐る恐る覗き込みながら、少し逡巡した後巴は一歩踏み出す。
せいにいさん、と僅かな怯えを滲ませながら暗闇へと呼びかけながら進む。
あれが血ではないと思いたい。そうだとしたら、流した人間はそれなりの怪我を負っていることになる。その人物は、恐らく懐刻堂へと入って行った。もしも、それが誠志郎だとしたら……?
唇を噛みしめながら奥へと進もうとした巴は、視線の先に生じた影に思わず悲鳴をあげかけた。
今日、巴が座っていたカウンター席の傍に誰かが倒れている。人影であると気づいたのは一瞬遅れての事だった。
人影はカウンターにもたれかかって片足を立て、もう片方を力なく投げ出している。
均整の取れた長身の傍には、暗い中でも妙に鮮やかな紅色が小さな水たまりを為しているではないか。
巴は息を飲んだ。当たって欲しくない想像が現実となってしまった事を呪いながら、悲鳴に似た声音で叫ぶ。
「誠兄さん⁉」
倒れていたのは誠志郎だった。コートを着たままであるということは、外から帰ってきて、脱ぐ間もなく倒れ込んだのだろう。
落ち着いた色味のコートには、既に黒くなりつつある染みがある。押さえる手はべっとりと赤に塗れている。
叫び声に僅かに顔を上げた誠志郎は、唸るように低く呟いた。
「来るな……」
何時もの優しく穏やか様子は何処にもなかった。まるで追い詰められた手負いの獣のような雰囲気に、思わず近づきかけた足が止まる。
気圧されたように思わず肩をびくつかせた巴だったが、直ぐに自分を叱咤しながら誠志郎へと駆け寄った。
誠志郎は、あくまで巴を遠ざけようとする。乱暴な仕草で払いのけようとするが、今度は怯まない。
「近づくな……離れてくれ……」
「そんな事できない! こんな怪我してるのに! 病院……いや、救急車呼ぶから!」
唸りを上げる手負いの狼のようだ、と思った。
けれども、今も尚誠志郎が押さえる染みは拡がり続けている。放っておけるわけがない。
見回してみると、やはり巴のスマホは座っていた隣の椅子の上にあった。
巴は免許も車もない。あれば市立病院の夜間救急にでも連れていっただろう。
いや、状態が状態だ。素人目にもかなり深手に見える。ここから市立病院までは遠い。近所の診療所に診てくれるあてはあるが、そこまで女一人で長身の男をどうやって連れていけばいい。
これは、救急車を呼ぶべきだろう。そう判断して巴は誠志郎の傍らに膝をついたまま、スマホに手を伸ばそうとした。
けれど、その手を痛い程の力で誠志郎が掴んだ。
「だから! ……『俺』に、近づくな……!」
不意に強い力で引寄せられたかと思えば、視界が揺れて世界が反転する。
背中を床に打ち付ける痛みと感触に顔を顰めた巴は、次の瞬間茫然とする。
くらくらと揺れる視界が落ち着いた時、巴に見える光景は一変していた。
覆いかぶさるようにして視界をふさぐのは、誠志郎だ。その両手は巴の両腕を床に縫い留めるようにして押さえている。
怪我人とは思えない力で掴み上げられた腕が嫌な音をたて、巴は顔を顰める。
押し倒された状態であると認識できたのは、首筋に吐息を感じた瞬間だった。
湧き上がり続ける疑問は脳裏を駆け巡り、言葉は震える唇からは掠れた吐息が過ぎるだけ。言葉は一つとして形にならない。
今日、想いは拒絶されたばかり。この人は、それなのに、何故。
誠志郎はこんな振舞いに及ぶ人ではなかった。それに、こんな余裕のない様子を見せた事は、一度として無かった。
分からない。理由も、今の状況も。思考は完全に停止してしまい、巴は凍り付いたように動けずにいた。
しかし、次の瞬間小さく悲鳴を上げる。全身が強ばり、目が見開かれる。
牙のような感触を感じた次の瞬間には、皮膚を突き破り何かが首筋を貫く感覚が走ったのだ。
痛みはない。けれども、尖ったものが肉にめり込むような妙に生々しい感触がある。
噛みつかれたのだと気付いた時には、既にそれは起きていた。
自分の中から温かい何かが、牙が突き立った場所からどんどん奪われていく感覚が生じる。
ああ、自分は血を吸われているのだと遅れて理解が追い付いた。
まさか、そんな事ある訳がない。有り得ない、だってそんなの、まるで物語の吸血鬼みたいな。
現実逃避のように笑おうとしたけれど出来なかった。その間も自分の中から、どんどん、どんどん、命の雫が消えていく。
急激に身体が冷たくなっていくのを感じる。視界が揺れて、揺らいで。靄がかかったように朧げなものになっていく。意識が急速に薄れていく……。
首筋に感じる不可思議な感覚はまだ続いている。巴は、力を振り絞って誠志郎の頭に手を伸ばし、癖のない柔らかな髪に触れる。
「せい、にいさん……?」
巴は、掠れた声を振り絞って何とか誠志郎を呼んだ。
次の瞬間、弾かれたように誠志郎が顔を上げたのを感じた。
不確かな視界の中、巴の焦点定まらぬ視線の先で誠志郎が身を強ばらせているような気がする。
見えないのに、激しく動揺して、酷く傷ついたような表情をしている気がする。
薄れゆく意識の中、霞む世界にて誠志郎は呆然と巴の名を呼んでいる。
泣き出しそうな震え声の誠志郎の瞳が、美しい紅色に見えたのは何故だろう。
唇に何か触れた。それを最後に、巴の意識は遠のいていった……。
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