巴と誠志郎

 巴と誠志郎の出会いは、十年前に遡る。

 あれは巴の祖父である咲洲修護さきしましゅうごがまだ存命だった頃の話だ。


 咲洲家は、明治になる少し前頃に函館に移り住み、海運業で財を為した豪商であったという。

 名高い四天王にこそ及ばないものの、それなりに権勢を誇っていたらしい。

 海運業から他業種へと主軸を移した後も好調であり、そのおかげで現在でもそれなりの資産家として名を馳せている。

 祖父はある程度の基盤を築くと早々に息子達に跡目を譲り、船見町に居を構えると趣味に打ち込み悠々自適の生活を送っていた。


 巴は、祖父の元で育てられた。父の意向であったらしい。

 理由としては簡単な話である。跡継ぎとなる弟の養育に打ち込む母は、娘である巴を疎んじていたからだ。

 跡継ぎにならない、というだけでは無い事は今なら巴は知っている。

 母は今でも巴を傍に置こうとしない。祖父が亡くなった後も、家政婦を雇って巴が船見町で暮らす事を許している。いや、言外に実家に帰らないでくれと言っている。

 学校に通う事を考えたら距離的に実家のほうがいいだろうが、巴は戻ろうとしなかった。

 居心地悪い場所で暮らすより、祖父の思い出の残る家で暮らしたい。幸いにも市電一本で通う事が出来るのだから。

 娘を拒絶するあまりにノイローゼを起こしていた妻を慮る父は、祖父に巴を託した。

 事の経緯と、咲洲家の娘である巴が背負った『宿命』を哀れに思った祖父は、巴をとても可愛がってくれた。

 何処へ行くにも巴を連れて歩いてくれて、多くの物を見せ、体験させてくれた。おかげで巴は少しも寂しくなかった。


 そんな祖父がある日連れてきてくれたのが、懐刻堂だった。巴は、その日初めて誠志郎と出会い、彼の紅茶と菓子を知った。

 世界が変わった、と言ったら大げさだろうか。

 あの日誠志郎が淹れてくれた、葡萄を思わせる香りと、光を受けて輝く夏摘みダージリンの明るい橙色の水色は、今でも忘れられない。

 出されたお菓子は、英国では定番として愛される伝統的菓子であるヴィクトリアサンドイッチケーキ。

 紅茶はストレートで、お菓子もどっしりと重めのスポンジで甘さと酸味が調和したジャムを挟んだシンプルなもの。故に互いの繊細さが合わさってそれぞれの味と香りを堪能できた。

 当時八歳だった巴には、詳しく分からないけどとても美味しいもの、として脳裏に焼き付いたのを覚えている。

 今でも夏摘みダージリンが入荷すると、誠志郎にねだってあの日の組み合わせを再現してもらう。

 魅せられたのは、紅茶と菓子だけではない。

 落ち着いた優しい笑みの年上の男性に、巴はすっかり心を奪われてしまった。

 つまりは、初恋である。

 気付けばその場で「わたしと結婚して下さい!」と叫んで居た。

 誠志郎は目を白黒させているし、祖父はさすが俺の孫だと腹を抱えて笑っていた。

 祖父と祖母も当時にしては珍しい熱烈な恋愛結婚だったという。

 当然ながら八歳の女児に結婚を申し込まれたとして、本気に受け取ってもらえるわけがない。

 困ったような顔で「大人になったらね」と丁寧にお断りされてしまった。


 それ以来、折に触れて巴は誠志郎に求婚し続けてきた。

 最初は当然ながら「大人になったらね」とかわされるだけだった。

 だが、巴は諦めずに毎年一つ年を重ねる度に繰り返し申し込み続けた。

 けれど、徐々に戸惑いが交じりながらも「大人になったらね」の答えは変わる事なく。自分は年寄りだからと笑いながら、もっと釣り合う人を探しなさいと返されるばかり。

 確かに出会った頃から誠志郎は年を取っていないように感じる事がある。見た目からは若く感じるが、そもそも十年前出会った時に既に店を構える程の大人だった。

 何度か年齢を聞いた事があるが、正確なところは答えてくれていない。

 しかしながら、断られ続けても優しい年上のお兄さんに対する巴の恋心はけして色褪せることなく。むしろ自身が年を重ねていくにつれて募るばかり。

 だから、待ったのである。

 大人になったらね、と誠志郎は言ったのだ。だから、大人になるまで待った。

 結婚が可能な年齢になり、学業に一区切りがつくまで。

 そして、今日この日、覚悟を決めて一世一代の申し込みに来たのである。


「まだ、諦めてなかったんだ……」

「そうそう簡単に諦められる程柔な想いと思わないで下さい」


 片手で顔を覆い、沈痛な声音で呻くようにして呟く誠志郎。

 対する巴は、真っ赤な頬を膨らませて不貞腐れたように返す。

 けして冗談を言っている訳ではないのだと全身で主張する巴に、誠志郎は盛大に溜息を吐く。

 そして、悲痛な表情で何とか巴と視線を合わせると、弱弱しく言葉を紡ぐ。


「僕みたいなおじさんを追いかけてないで、もっと他に巴に相応しい人がいるからって言っていたのに……」

「私にとって、誠兄さん以上に素敵な人はいないもん!」


 真正面から見据えて力強く巴が言い切ると、誠志郎は僅かに顔を赤らめてまたしても片手で天を仰ぐようにして顔を覆う。

 僕が幾つだと思っているんだ、と呟いているのが聞こえた気がする。

 だが、その動きが止まる。ゆっくりと手を下ろして、揺れていた視線が巴に向けられる。何かに気づいたように目を見張った後、誠志郎は恐る恐る口を開く。


「待って、巴」


 気付いてはいけない事に気付いてしまった、と言った風な様子で、声は震えていた。

 真っ向から交差する視線。一歩も退かぬ構えの巴を見つめながら、誠志郎は続ける。


「まさかと思うけど。……進学も就職もしなかったのは」


 誠志郎のいう通り、巴は進学も就職も決まっていない。

 対外的には浪人するという事になっているのだが、当然ながら巴の目的はそんな事ではない。

 目的あって、それらの道を放棄したのだ。今更中途半端に目指してどうするという感じである。

 揺れに揺れている誠志郎の言葉は、尚も続く。


「成績が良かった筈なのにおかしいなって思ったけれど、まさか……」


 自慢ではないが、巴の成績は上から数えたほうが早かったのだ。

 その巴が進学も就職もしないと決め、それが本気であると知った時、教師たちは散々驚いた挙句に総出で説得にかかった。

 親まで呼ばれる始末であったが、巴の意思が固いこと、そして母親が娘の好きにさせますと淡々と告げた事で漸く渋々引き下がったのだ。


「誠兄さんに嫁入りする気だったから!」

「今からでもいいから大学目指しなさい!」


 固い決意と長年温め続けた想いによる決意を叫んだ巴に、誠志郎は悲鳴にも聞こえる叫びを上げる。

 やっぱり! と顔を顰める誠志郎は頭痛に耐えているような雰囲気である。

 修護さんにどう申し開きすればいいんだ、と呻く誠志郎に、巴は尚も言い募る。


「私が決めた事だから、別に責任とってとかは言わない。理由は、他にもあるから。でも、今度こそ私は本気!」


 あなたの為に進学も就職も諦めましたと言い訳にする気は全くない。それは巴が自分で決めた事だから。それを負い目に思って欲しくない。先を望まなかった理由は他にもあるのだ。

 幸いにも祖父は巴に遺産を遺してくれた。『その日』が来るまで働かずとしても生きていけるだけの額を。

 巴に目標らしき目標はなかった。それこそ、誠志郎の嫁になる事以外には。特に目標がないのに上の学校に行って、無為に時間を使いたくなかったのだ。

 叶えたい願いは唯一つだけ。巴にある想いは、唯一つだけ――。


「駄目だ」


 短い言葉が誠志郎の口から放たれた瞬間、水を打ったようにその場が冷えた気がした。空気が凍り付いたようにすら感じる。

 誠志郎の口から紡がれたのは、明確にして固い『拒絶』だ。

 必死に訴えかける巴に対して向けられるのは、何かの苦痛に苛まれているような辛そうな眼差しだった。

 拒否される事は今までもあった。その度に『大人になったらね』と困ったように笑っていた人は、今、罰を受ける咎人のような表情で巴と向き合っている。

 今までとは違う、本当の『お断り』だと巴は悟った。


「申し訳ないけど。僕は巴とも……誰とも結婚するわけにもいかないから」


 誠志郎は首を左右に振って、俯いたまま告げた。

 これまで毎年繰り返されたものとは違う、本気の求婚に対する本物の答え。

 そこに立っている人は、誠志郎である事には間違いない。

 けれども、悲痛な『何か』を裡に抱え、自分に触れないでくれと言葉に依らず拒絶する様子は別人のようですらある。

 今まで見た事がない誠志郎の、違う一面だった。


 ああ、と巴は裡に呻いた。

 巴は知らないのだ。誠志郎が何を抱えてこの店に立っているのか。どんな道のりを経て、ここに辿り着いたのか。

 過去にどんな恋をしたのか。そもそも、心に誰かいるのかいないのか。

 折に触れて問いかけても、笑みと共にはぐらかされ続けた答え。本当は何処か触れるのが怖かった誠志郎の過去。

誠志郎の本当の心に、巴は触れる事が出来ていなかったのだ。それに、今ここで初めて触れた。

 巴に対する嫌悪は感じられない。慮ってくれる心と、彼が罪の意識を感じて居る事は伝わってくる。

 でも、誠志郎は巴を拒絶するのだ……。


 掛け時計が時を刻む音だけがその場に響き、二人の間には沈黙が横たわる。

 巴は言葉を紡げずにいるし、誠志郎は俯いたまま唇を引き結んだまま。

 永遠に続くかと思われた、重い沈黙を破ったのは誠志郎の方だった。


「ごめんね。少し用があって出かけるから」


 店の鍵を手にしながら、誠志郎はコートを奥から取り出して羽織る。

 それはつまり、店を閉めると言う事であり――今日は帰ってくれという意思表示。

 店の主が閉めるというなら、客の立場で長居を主張するわけにはいかない。

 会計をしてもらうと、無言のまま巴はコートとマフラーを来た時のように身に着ける。ショルダーバックを肩にかけて一足先に店の外に出る。

 誠志郎は立て看板を閉まってから明りを消して施錠する。

 何時の間にか夕暮れの茜色が辺りを支配する中、誠志郎と巴は扉の前で向き合った。


「……またね、誠兄さん」

「うん、またね」


 それは、一つの小さな願いだった。

 誠志郎は、少しだけ哀しそうな笑顔で頷いてみせる。

 そして、巴は下へ、誠志郎は上へとそれぞれ違う方向へと歩いていく。

 風に交じり雪がちらつきはじめ、一つ結晶が巴の頬に触れては、溶けて消える。

 雫となった六花は、巴の頬を伝ってぽつりとマフラーに染みを作る。

 願いは拒絶されたけれど、最後の小さな願いだけは叶えられたと思いたい。

 またね、と言った言葉に返された、またねという答え。

 少なくとも二度と会わないという拒絶では無いという事。それだけが、今の巴にとっての救いだった。

 頬に当たる風が、酷く冷たく痛い、と感じた――。

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