函館幻想懐古譚 おしかけ花贄と吸血鬼の恋紡ぎ

響 蒼華

結婚して下さい!

 三月某日。未だ雪の積もる道南の函館市。

 一人の少女の姿が路面電車の車内にあった。

 小刻みに揺れるつり革に、様々な広告が貼られている。

 老年の夫婦が語り合っているかと思えば、キャリーケースを傍に置いた観光客と思しき人々もいる。

 『五稜郭公園前』で増えた人々は、多くが駅前にて下車していき、今では人影はまばらである。

 規則的な音と身体に伝わる振動に少しばかりうとうとしかけていた頃、電車の中に次の停車のアナウンスが響く。

 少女ははっとして顔をあげる。このまま寝過ごしていたら終点まで行ってしまうところだったと胸を撫でおろし、下りる準備をした。

 家の最寄り電停が終点であるから、家に帰るだけなら終点まで寝ていてもいいのだが、行きたいところがある。

 次が『十字街』で停車である事を確かめてブザーを押すとショルダーバックを肩にかけ直し、電車が動きを止めると共に立ち上がる。


 ダッフルコートにしっかりマフラーを巻いて。コートの下には、紺色のセーラー服。きっちりとまとめた髪型もスカート丈も何もかも校則に則り、少しの違反も見られない。

 以前、歩く校則などと言われた事もある。

 別に模範的な生徒でありたかったわけではない。余計な軋轢を教師との間に生みたくなかっただけだ。

 長い物には巻かれろと言うではないか。無駄に衝突して心証を敢えて損ねる事もあるまいと思っただけである。

 まあ、それも今日で終わるのだが。

 少女がショルダーバッグから天鵞絨張りのような質感の角が覗く。

 それは、所謂『卒業証書』と呼ばれるものだった。

 そう、彼女はつい先程高校の卒業式を終えたばかり。制服であるセーラー服に袖を通すのも、今日が最後なのだ。


 二つの終点への分岐点にあたる電停に降り立った時には、吹く風に雪が少しちらついていた。

 白い息を吐き出す少女の顔は、冷たい外気に触れて赤く色づいている。

 桜と共に卒業と洒落込んでみたかったけれど、北の大地の三月にそれは叶わない夢である。むしろ吹雪と共に卒業と為る可能性もあったが、今日はまだ天候には恵まれた方ではなかろうか。

 視線を向けた先には坂がある。名前は大三坂。教会や和洋折衷の建築が風情ある佇まいの、日本の道百選にも選ばれた坂だ。お目当ては、その中ほどにある。

 傾斜を描く石畳の上には雪が積もっている。

この街は、本当に坂が多い。坂の町と呼ばれているぐらいである。

 傾斜のきつい上り坂が白く凍りついているのを見た時など、スキーのストックが欲しいと思う事もある。

 靴底スパイクは必須だと思う。無ければ、この時期に怖くて外など歩けない。

 だが、それも今日は気にならない。ぱっちりとした瞳は期待に輝いている。頬を寒さではなく胸に抱く想いに染めながら、白に覆われた坂を一気に駆け上がる。

 どんな風に声をかけよう。どんな風に応えてくれるだろう。

 きっと、まず何時ものあの笑顔を向けてくれるに違いない。

 それを思えば、肌を刺すような寒さも気にならない。

 早く、早くと急く心を原動力にして一気に駆けて、淡い翠色の壁の古民家の前に立つ。

 一階が和風の造り、二階が洋風の造りという函館に見られる典型的な古民家である。

 雪が少し積もった立て看板には『懐刻堂かいこくどう』と流暢な白文字で記されている。

 少女は自分の肩などに微かに積もっていた雪を丹念に払い、鞄からコンパクトを取り出して髪を整える。

 そして、息をひとつ吐いて少し軋んだ音と、小さなベルの鳴る音と共に店内へと足を踏み入れた。


 中は扉や窓枠も翠が基調となった落ち着いた内装であり、不思議と郷愁を誘う海外の音楽が控えめな音量で流れている。

 席数はけして多くないものの、店主の目が隅々まで届いているのがわかり、清潔感と安心感を与えてくれる。

 置かれている調度は、質にはこだわっても威圧感を与える事のないように気を使った、という事を以前こっそり教えてもらった。

 今日は寒さがある故か、偶々か。店内に他の客の姿は見られない。

 店の奥にはカウンターがある。その向こう側、壁一面に据え付けられた棚には、上段にずらりと並ぶ紅茶の缶。手入れされた金属の持つ深みのある光沢が美しい。

 幼い頃はまるで魔法使いの棚のように思えてみる度にドキドキしたものだ。

 そして、それを背にして立つのは……。


ともえ、いらっしゃい」

「こんにちは! せい兄さん!」


 少女――巴は、人影を認めると頬を紅潮させて満面の笑みを浮かべた。

 彼女に誠兄さんと呼ばれた人こそ、この英国喫茶・懐刻堂の店主である緋尾誠志郎ひおせいしろう

 均整の取れた長身に、切れ長の瞳の端正な顔立ちに眼鏡をかけた、落ち着いた雰囲気の男性である。

 年齢については若く感じる時もあるし、時として祖父のような老成した雰囲気を感じる時もある。本人に確認してもはぐらかされるばかりであり、年齢不詳なのだ。

 誠志郎は巴を見て優しい笑みを浮かべると、手招きする。巴はコートとマフラーをハンガーにかけると、いそいそと嬉しそうにカウンター席に腰を下ろす。誠志郎が働いている姿を一番近くで見られる席が、巴の定位置なのだ。

 彼が紅茶缶の棚の下の戸をあけると、そこには様々な特徴を持つティーカップが並んでいる。

 そこから迷う事なくあるカップを取り出すと、誠志郎は問いかける。


「今日は卒業式だったよね? もう終わったのかい?」

「無事終わりました! 終わってすぐこっちに来たの」


 ショルダーバックから卒業証書を取り出して見せながら巴は明るく告げる。

 高校の卒業式は恙無く進行し、何事もなく終了した。

 残りながら別れを惜しむ同級生を尻目に、巴は終わりを確認するとすぐに支度を整えて学び舎を後にして市電に乗った。

 高校三年間に特に悪い思い出はないが、特筆すべき良い思い出もない。

 友もなるべく作らないようにしていた為に、他の皆のように別れを惜しむ事もない。

 巴には、それよりも大事な用事があったので振り返る事もなく校舎を後にしたのだ。

欠片の未練も滲ませずに言い切った巴を見て僅かに苦笑しながら、誠志郎は重ねて問う。


「実家に帰るのかと思ってたよ」

「帰って来いって言われてない」


 室内の温もりに強張っていた手足の緊張が解れていくのを感じながら、巴は何事でもないように答える。

 巴の今住まう家は市電で更に終点まで進んだ先にあり、実家は高校から出て市電で反対方面に進んだ方にある。

 実家に帰るのであればこの店にくるのは大分二度手間になるのだ。それを誠志郎は心配したのだろう。

 けれど、必要が無いならそれも無用の懸念である。

 何故なら、帰って来いと言われていないし、そもそも帰る事を良しとされていない。

 されているなら、実家から通った方が近い高校に、反対側に位置する終点から乗って通ってなどいない。それは、あるひとの意向である。

 巴は溜息すら吐く事なく、顔色も表情も変えずに続けた。


「卒業式にも来ないって言ってたし」


 主語を口にしなかったが、それが誰の事かは誠志郎には伝わったようだった。

 言葉に窮した様子を感じ取って、巴は首を振る。


「いいの。あの人の子供はなぎだけだから」

「……巴」


 弟の名を出しながら呟く言葉は、誠志郎を更に複雑そうな表情にしてしまう。

 内心しまった、と溜息を吐きながら、巴は殊更明るく首を緩く傾けながら口を開いた。


「いつもの、お願いします!」


 巴の顔に浮かぶ笑みを見て、苦笑しながら誠志郎は手を動かし始める。

 『いつもの』と言えば注文は決まっている。スコーンとミルクティーの、所謂『クリームティー』と呼ばれるセットである。

 誠志郎はその日によって違う英国菓子を提供しているが、一番巴が好んでいるのがその組み合わせである。

 合わせる紅茶は誠志郎にお任せだ。その日によって選ばれる茶葉は違う。

 誠志郎が手に取った缶から察するに、今日はアッサムが選ばれたようだ。

 濃厚で力強い味わいが特徴のアッサムは、ミルクとの相性がよくミルクティーに向いている。

 誠志郎は菫の意匠が描かれた白磁の丸型ポットを温めておき、次いで沸騰したお湯、ティーメジャーでさっと計った茶葉を耐熱ガラスのポットに入れる。

 くるりと逆さにされた砂時計の砂が音もなく落ちる中、透明なガラスの向こう側で茶葉が上下にゆらゆらと動いているのが見える。

 その間にも淀みなく誠志郎は手を動かし続け、準備は整っていく。


 巴はその様子を見つめるのがとても好きだった。

 幼い日に初めてここに連れてこられた日には、目の前で素敵な光景を繰り広げてくれる誠志郎を魔法使いのようだと思った。

 流れるような動きで淹れられた紅茶とスコーンを口にした時、彼女の心は定まった気がする。この店に通うようになって十年。

 何時も優しく、子供の巴も一人の人間として扱ってくれる誠志郎。

 訪れる度に温かな笑顔と紅茶で出迎えてくれる彼は兄のような存在であり、温かなものを胸にくれる、それ以上の存在でもあった。

 今に至るまで変わる事なくずっと灯り続ける明りは、出逢ったあの日に胸に宿ったのだ。

 それを折に触れて伝え続けているものの、残念ながら今に至るまで実を結んではいないのだが……。


 誠志郎は白磁のポットの湯を捨てるとティーストレーナーを介して硝子ポットにて抽出した茶を移す。

 一つ一つの動作がいつ見ても優雅に思えて、目が釘付けになる。

 少しの間惚けたように見つめていると、気が付いた時には巴の前には美味しそうな一揃えが並べられていた。

 どうぞ、と微笑みと共に供されたセットを見て、巴は幸せそうにうなずいてみせる。

 白磁に菫のポットを傾けると、緩やかに豊潤で甘味のある香りが漂う中、透明な赤褐色の水色がカップへと注がれていく。

 まずはストレートで、と静かに口を吐ければ思わず息を吐く。

 渋みはあるけれどまろやかで、甘い香りが鼻孔を抜ける。舌に感じる味と喉を通り過ぎる感触にしみじみと心が温まり、幸せだと頷きたくなってしまう。

 次いでポットと同じ意匠のミルクジャグを手にして、ミルクティーにする。

 紅茶が先か、ミルクが先かの議論が百年以上続いてきた事は知っている。先年ついに決着がついたらしい事も聞いた。

 しかし、巴としては好きに飲ませてくれと思うし、誠志郎も特にどちらが正しいよという事はない。

 多めに入れてみたものの、濃厚な味の紅茶はミルクにもけして負けることなく、濃いものに濃いものだというのに飲みやすい。

 繊細な意匠のカップを手に満足そうな吐息を零す巴を、誠志郎が嬉しそうに見つめている。

 巴は、次いでスコーンが二つのった皿に手を伸ばす。

 こんがりと狐色に焼かれた、美味しいスコーンの証と言われる「狼の口」と呼ばれる割れ目の入った逸品。

 皿の側には、淡い桃色が愛らしい花天秤のような器――ジャムディッシュ。

 その片方には、誠志郎手作りのイチゴジャム、もう片方には、生クリームよりも濃厚で滑らかなクロテッドクリームが乗せられている。

 実はこの繊細な造りの器がアンティークであると巴は知っているが、誠志郎は特にかしこまった様子もない。

 紅茶に対してミルクが先か後かの議論があるように、スコーンにもクリームが先か後かの議論があるらしいが、誠志郎は「好きに食べるといいよ」と笑うだけなのだ。

 手で押し上げて二つに割って、巴はまずクリームをたっぷり塗ってジャムを乗せる。

 スコーン自体の甘さは控えめだが、その分クリームとジャムとに調和する。

 さくさくほろっとした食感のスコーンを一口食して紅茶を頂けば、ぴたりと巴の動きが止まる。


「おいしい……」


 呼吸を忘れる程に身が震える。感嘆の溜息と共に漸くそれだけ口にする。

 小麦の香りの芳ばしいスコーンに、濃厚なクロテッドクリームに、甘酸っぱいジャム。そっと寄り添う優しいミルクティー。

 美味しい。何時だってその言葉に全てが持って行かれてしまう。

 食べている間は色々な想いが巡るというのに、口に出そうとすると隠れてしまう。

 もう何年も通っているというのに、気の利いた言葉ひとつ言えないのがもどかしい。

 巴は本当に美味しそうにしてくれるから作り甲斐がある、と誠志郎は笑ってくれるが。うんちくめいた事を長々と語られるよりも、巴の一言のほうが嬉しいよ、と。

 それを聞いて尚更美味しい、幸せだと心の中を明るい言葉が駆け巡るのである。

 暫し顔を輝かせて紅茶とスコーンを喫する巴へと優しい眼差しを向けていた誠志郎は、ふと何かに気づいたように巴の手元へ視線を移す。


「卒業したなら、そのカップも家に引き取ったほうがいいんじゃないか?」


 実は、巴が手にしているカップは彼女の私物である。

 矢車菊と薄蒼の蝶を意匠にした磁器のカップは、持ち手の部分が少し普通とは変わっている。

 蝶の羽を象った持ち手のカップは、知る人は知る有名なブランドのものだ。

 亡くなった祖父からの最後の誕生日プレゼントであり、21世紀に入っての復刻版ではなくオリジナルとされるアンティークである。それを此処で預かってもらっているのだ。

 この店は巴にとっては家への帰り道の途中。寄り道がてらに寄っていたのならば、もう通学する事がなくなる以上店への来訪も減ると思ったのだろう。

 しかし、巴は静かに首を左右に振る。


「私、基本的にここ以外で紅茶飲みたくないから。ここに置いておきたいの」


 懐刻堂以外では、巴は紅茶を飲まない。否、飲もうとしない。外では大体珈琲か日本茶である。

 誠志郎に折に触れて教わった通りに、自分で淹れてみる事もある。

 飲んでもらった人は美味しいと言ってくれるので、ある程度上手には出来ているのだとは思う。

 だが、どうにも納得できた試しがない。

 機会自体が滅多にないが、他の店で飲んでも懐刻堂で飲む紅茶以上の満足感は得られない。不味いとはけして思わないけれど、心から『美味しい』を感じる事もない。

人によっては、巴は紅茶を好まないと思う事もあるようだ。

 違う、むしろ逆だ。好きすぎるのだ、紅茶が。

ただ、そこを厳密に言うと『誠志郎が淹れてくれる紅茶』が好きすぎて、他で飲みたくないとなってしまう。

 教えてもらった。自分なりに勉強もした。けれど、この人の淹れる紅茶とは何かが違うのだ。

 感情による補正かもしれない。だが、誠志郎の紅茶は別格だと素直に思っている。


「僕も、特別な淹れ方をしている訳じゃないんだけどね」

「でも、一番美味しいもん」


 誠志郎は、困ったような、照れたような複雑な表情で首を緩く傾げた。

それに、と巴は思う。卒業したからといって、ここに通う頻度が減るとは思っていない。

 むしろ、そうならない為に今日はある覚悟を決めてここにやってきたのだから。

 スコーンを一欠片も残さず綺麗に食べ、紅茶も最後の一滴まで美味しく頂いて。

 満ち足りた気持ちでいた巴は、茶器を片づけ始めた誠志郎とカウンター越しに向き合った。


「それで、本題です」


 大真面目な表情と声音で紡がれた言葉に、誠志郎は動かしていた手を止めて怪訝そうな顔をする。

 何をと問いかける眼差しをうけながら、巴は重々しく口を開いた。


「私、今日無事に高校を卒業してきました」

「うん、おめでとう」


 聞いた誠志郎は、更に怪訝そうな様子を深めてしまう。

 確かに、此処に来た段階で既に知られている事実を改めて口にする意図は何だと不思議に思うだろう。

 眼鏡の奥の瞳に戸惑いの色を見出しつつも、巴は一つ大きく息を吸い込むと、意を決してその一世一代の覚悟が籠った言葉を紡いだ。


「かねてからのお約束通り! 結婚して下さい!」

「……は⁉」


 叫びと共に驚愕に目を見張った誠志郎は、思わず手にしたポットを取り落としかけた。

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