吸血のすすめ


 巴の誘拐未遂から、幾らか時間が過ぎて。

 深雪はあの日以来姿を消してしまい、彼女の店も数日後には空き店舗となっていた。


 アーサーからは、花狩人の動きが一先ず止んだと知らせが届いていた。

 近隣に数年かけて潜んでいた深雪の正体が露見した上に誠志郎を討ち損じた今、次の手がすぐに打てないのだろうと言っていた。

 元々、人に対する害の度合いからして花狩人にとって誠志郎の優先順位は低いのだという。他に活発に動く者達があれば、その対応を優先せざるを得ないだろうと。

 深雪が今どうしているのかは、知りようがない。

 けれど、何処かで元気で居てくれる気がする。

 誘拐されかけたというのに、甘い事だなと我ながら思うけれど。


 懐刻堂には、以前とは少しだけ違う日常が帰ってくる。

 季節は春めいた雰囲気から夏の気配を感じさせるようになり、上着の要らない日も多くなった。

 もう直ぐ半袖で過ごせるようになるだろうが、まだ夜間などは薄手の羽織り物が欲しくなる時がある。

 温かくなると共に、各ご家庭では本格的にガーデニングに力を入れるようになり、ホームセンターの園芸コーナーは盛況だという。かくいう巴達も、外に出た際には随分目を楽しませてもらっている。

 ただ、今年は取り込んでいたうちに時期が過ぎて、五稜郭公園の藤棚の盛りを見に行く事が出来なくて随分悔しかった。来年は絶対見に行こうという言葉に、誠志郎が「勿論」と頷いてくれた事は嬉しかったが。

 次の目当ては、旧イギリス領事館の庭園だ。もう少しした辺りから、庭園の薔薇が咲き始める。

 薔薇を満足するまで眺めた後は、中のショップで気に入った雑貨を探して、カフェでティータイムをして帰ってくる。

 自分の家で幾らでもティータイムなど出来るのでは、と言われた事もあるが、誠志郎だって偶には外でゆっくり人の淹れてくれた紅茶とお菓子を楽しみたい時だってある。

 薔薇の満開の時期に窓辺の席に座り、窓からの景色を眺めながらゆっくりするのが、何れくる時期の二人の楽しみの一つだった。

 穏やかに過ぎゆく日々。巴は、その夜も夢を見ていた。

 


 誰かが泣いている。

 ああ、あの女性だ。懐中時計を贈られて幸せそうに笑っていた。

 見るのは大抵、彼女が幸せそうに笑っている夢だった。

 しかし、その日の夢は違ったのだ。

 女性は、行き場のない悲しみと怒りと、そして憎しみにむせび泣いている。

 どうしたのだろう、と巴は心が傷んだ。

 夢の中の感覚はとても不思議で。自分の感情と、そうではない感情が入り交じって曖昧になっている。

 あんなに幸せそうだったのに――あんなに、しあわせだったのに。


 しんじていたのに。

 あいしいていたのに。

 あなたが、うばったなんて。

 あなたが、ころしたなんて――!


 身を焼くような苦悩が伝わってきて、辛くて、苦しい。信じていた分だけ、大切に思っていた分だけ、知ってしまった事が女性を苛んでいる。

 小さな男の子と女の子が、泣かないでというように女性に縋る。

 女性は子供達を見て、何か考えていた。

 急に、弾かれたようにその心がわからなくなる。

 閉ざされた壁の向こうで、暗い焔が燃えているような感覚を覚えて、寒気が走る。

 遠ざかり行く景色。小さくなりゆく親子の姿。

 女性の手がやがて、ゆっくりと男の子の首へと手が伸びて……。



「……っ!」


 巴は、弾かれたように目を開いた。

 激しい動悸に呼吸が荒い。一筋、二筋、汗が頬を伝って枕に落ちていく。

 巴は呆然としながら、何とか息を整えようとしていた。

 視線の先にある自分の手が、宙空へ向けて伸ばされている。

 何かを掴み損ねて力なく曲がった指先、何かに、誰かに、伸ばされていた手。

 止めようとしたのだ。だって、止めなければいけない気がした。止めなきゃ、あの子達は。あの女性は――!

 何故、そう思ったのか分からない。止めなければ、あの三人がどうなるのか、その先すらわからない。それなのに。

 胸の鼓動はまだ少しばかり早いまま。呼吸は少しずつ楽になってきているけれど、もう少しだけ落ち着けたい。

 多分、きっと巴は今蒼い顔をしている気がする。

 荒い息のままそんな顔を見せたら、誠志郎が心配してしまう。

 緩慢な動作で起き上がりベッドを離れると、チェストの前に立ち小箱を手にした。

 ゆっくり開くと、姿を現わすのは時を刻まなくなった美しい懐中時計――あの女性の胸元に揺れていたのと、寸分変わらぬもの。

 夢が徐々に哀しみを帯びていくのを感じていた。

 幸せと笑いながら、少しずつ何かが忍び寄るのを感じる事があった。

 けれど……。

 誠志郎に相談しようかと思った事もあるが、躊躇ってしまって言えていない。

 以前に何も影響はないと言ってしまった手前があって言い出しづらいというのもあるが、躊躇う理由はそれだけではない。

 だって、あの女性は。

 不思議なほど、巴に似ているから――。

 


 それから暫し後、懐刻堂の二階の誠志郎と巴の住居にて。

 二人は揃って「いただきます」と言って、食卓に着いていた。


 朝ご飯の準備は、大体二人で手分けして行う。

 以前は、巴が起きるより前に誠志郎が終わらせている事が多かった。

 吸血鬼とは、朝が弱そうなのに。むしろ、夜起きていて朝に寝るものではないのか、と疑問に思った。

 誠志郎は元々朝が早かったし、吸血鬼となって確かに夜に強くなったが、朝に起きて夜に眠るのは特に変えていないという。

 その辺りは彼個人の習性らしい。話によると、他の吸血鬼たちは主に夜に生きるものもあれば、陽の光を避けつつも昼に生きるものもあるらしい。

 そういうあたりも、物語などで語られる吸血鬼とは違うところだなとは思う。

 頑張って起きるから一緒にご飯の支度をしたい、と頼み込むと誠志郎は待っていてくれるようになった。

 当然あまり待たせたくないので、巴は結婚以降頑張って早起きしているのだ。


 工芸品を扱う店で買ってきたお揃いの皿の上に並ぶのは、二人で開店と同時に買ってきた焼きたてパン。

 頂き物の卵で作ったスクランブルエッグに、近くの専門店で昨日買ってきたベーコンとソーセージ。その脇には鮮やかなブロッコリーとミニトマト。

 彩りが綺麗な上に、漂う素敵な香りの調和を感じれば幸せな気持ちになる。今日一日が良い日であるのが保証されたような気になってしまう。

 香りばかりでは無く味も素晴らしいのだ。

 焼くと耳がカリっとして美味しい食パンには地元産のバターを塗って一かじりすると、口の中に広がるとろける味と香ばしさを感じる。

 ベーコンは独特の風味があるけれど、脂がきつく感じないし胃にもたれない。ソーセージは歯を立てると肉汁が溢れる。

 少し甘いスクランブルエッグとの相性はとても良い。合間にブロッコリーとミニトマトで口の中をさっぱりと。


 ただでさえ美味しいのに、目の前に大好きな誠志郎が居るなら更に美味しく感じる。

 しかし、巴の様子を見ていた誠志郎は、緩く首を傾げた。


「……食欲がないのかな?」


 美味しく頂いてはいたけれど、何時もより少し食事の進みが遅い事に気付かれてしまったようだ。

 食事は美味しいし、食欲がないわけではない。ただ、心に気にかかる事があっただけだ。

 夢見が悪かった、と言えない巴は口籠る。


「まさかと思うけど。……ダイエット、とか言わないよね?」

「気を付けてはいるけど、食事を抜いてしようとは思ってない」


 誠志郎は、巴が最近サプリメントも含めて、意識して運動するなど、色々気にしている事にも気付いていた。

 確かに気を付けている事があるが、断じてダイエット目的ではない。

 それは速やかに否定して、巴は話題を何とか変えようと試みる。


「それより、誠兄さん」


 問いかけられて、調度トーストの最後の一かけを食べ終えたところだった誠志郎は首を傾げる。

 真正面から誠志郎を見つめると、一度咳払いをしてから巴は口を開いた。


「誠兄さん、あの時以来血を摂ってないよね? それに血液パックは、吐きそうな程不味いって言ってたよね?」

「……確かに、その通りだけど」


 誠志郎はあくまでも血を吸う事を拒み、先日の有事の際には、何処から手に入れたのか医療用の血液パックを摂取した。

 その時、むしろやつれていた。問い詰めたところ、吐いて暴れそうな程不味いらしい。アーサーは毒でも摂取したような狂乱振りだったと表していた。

 花贄である巴の血以外は、誠志郎にとって糧となる以上に身体に悪い筈だ。


「こうして、普通の食事だけしていて。……間に合うの?」

「……意味がないとは言わない」


 視線が僅かに逸れたところを見ると、足しにはなるが根本的な『空腹』の改善には至らないという感じだろう。

 多分、人の食事はとらなくても支障はないのだと思う。

 それでもこうして食卓についてくれるのは、巴が居るからだ。

 祖父が亡くなって以来、巴が朝に誰かと共に食卓を囲む事がなくなっていて寂しい、と言っていたのを覚えていて……。

 しかし、それはそれ。これはこれ、だ。


「それなら! 私の血を吸ってください!」

「それは駄目!」


 もう何度目かわからないやりとりである。

 必死に食いつく巴に、必死で拒絶する誠志郎。

 大体の願いは、多少我儘であっても誠志郎は苦笑しながら受け入れてくれる。だが、この願いだけは、一度として聞き入れられた事はない。

 即座に却下されるが、巴だって負けていない。 


「何で? 私がいいって言っているのに! 妻として、夫にそんな不味い食事をさせるわけにはいかないし!」

「気持ちは嬉しいけど、僕が良くない!」


 巴は諦めない。しかし、誠志郎も折れない。

 縋るような必死の眼差しを向けても、気まずそうな顔にはなるが、是とはけして言わないのだ。


「あの夜みたいにガブ飲みしなきゃいいんでしょう!? なら問題ないじゃない!」

「そういう問題じゃないんだ……」


 誠志郎は胸に衝撃でも受けたように、呻きながらテーブルに肘をついてしまった。

 我を忘れて血を貪ってしまった痛い記憶に触れられて、手で顔を覆いながら呟く。

 しまった、とは思うけれど、巴は拗ねたような様子で続ける。


「誠兄さんに美味しい血を飲んで欲しいから、食事も運動も諸々も頑張ってるのに」

「最近やたら色々と気を付けているのって、まさかそれが理由……」


 巴は、最近色々と体調に気を遣っていた。正確に言うと『血液の状態改善』についてだ。

 血の味の良し悪しは当然ながら巴には分からない。試しに指先を怪我した時に舐めてみたが、鉄の味がするだけだ。

 味の確かめようはないものの、やはり健康無くして良質な血液はないはずだ。

 故に、最近健康には気を付けているし、特に血液の質に良いというものを色々試している次第である。

 巴が健康増進を頑張っている理由を知ってしまった誠志郎は、何とも言えない表情だった。

 けして悪い事をしているわけではないが、彼にとって手放しで喜べる理由でもないのだと思う。


「まあ、結果的には巴の健康に繋がるから、いいんだけどね……」


 たっぷり沈黙していたが、やがて絞り出すようにそれだけ言うと、誠志郎は立ち上がると空いた皿を重ねていく。

 後片付けも二人でするのだ。その様子を見た巴も、立ち上がると皿を持って後に続く。

 並んで歩きながら、誠志郎は一つ息を吐いて、違う話題を持ち出した。


「今日はアフタヌーンティーの予約が入っているから。少し休んだら、準備始めるよ」

「はーい」


 本日も、吸血されたい希望は叶わなかった。

 だが、諦めない、と巴は心の中で決意を新たにする。

 いつか誠志郎に美味しく血を飲んでもらえる日まで。その日まで頑張って健康を維持していこう、と心の中で拳を握りしめたのだった。

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