弟の来訪
懐刻堂において、アフタヌーンティーセットは予約制である。
今日は、その予約があった。
一段目にはケーキ類。それぞれが一人分に丁度良い大きさに作ってあるのが懐刻堂のやり方である。
さっくりした土台にパン粉と糖蜜を使ったフィリング、しっかりした甘さと英国で好まれるというねっとりとした食感のトリークルタルト。
同じく歯触りの良いさくさくの土台に、爽やかな風味のレモンカードを敷き詰めて、甘くふわふわなメレンゲを乗せたレモンメレンゲパイ。
ラム酒につけたドライフルーツを混ぜ合わせて焼き上げた、しっとりと奥深い味のフルーツケーキ。
二段目には、濃厚なクリームと甘酸っぱいジャムを添えた、こんがりと香ばしいスコーン。三段目にはキュウリのサンドイッチと卵のサンドイッチ。
巴も以前に何度も予約を入れて食べた事があるし、更にいえば、作る過程で出た半端な部分などは夕食後のお茶の時間のお供の予定だ。
しかし、こうして三段スタンドに綺麗に乗せられている一式を見ると、ついつい「いいなあ」と心に呟いてしまう。
誠志郎は紅茶を淹れる事だけではなく、菓子作りも上手である。
菓子は、大元にあるのは先の始祖・ユーインの記憶にあるもの。それを時間をかけて誠志郎なりにアレンジして、現在の形に至ったらしい。
黄色の小花を意匠にしたポットに、ティーストレーナーを通して濃い赤褐色の水色をした紅茶が、スモーキーな香りを漂わせて注がれる。
ルフナという茶葉は渋みが少なくコクがあり、ストレートで飲むのもよいがミルクティーにしても美味しい。
誠志郎が三段スタンドを持ち、巴が紅茶のポットを手にして予約した客の元へセットを運んでいく。
そして、予約した相手というのは。
「……巴。その何か言いたげな目は止めろ」
並んだ美味しそうなセットを前に満足そうな笑みを浮かべたのは、巴の主治医である亮だった。
巴の視線を感じたのか、亮は目の座った眼差しを向けて口の端を引き攣らせる。
亮に一瞥されて、巴は誤魔化すように笑う。
繊細な細工の三段スタンドを前にしたガラ悪く見える強面の男性、というのは何とも言えない雰囲気を醸し出している。
職務質問も日常だという見た目は全くもってその筋の人、である医師は何を隠そう大の甘党である。
スーパーで出会って興味を抱いたという亮は、それから左程時を置かずに懐刻堂を訪れていた。
出された紅茶と菓子を大分気に入ってくれたらしい。最近では、すっかり常連であり、休憩時間や休みの日などによく顔を出してくれる。
「別に、休みの日ぐらい好きなもん満喫してもいいだろ⁉」
「駄目なんて言ってないから」
本日お休みということで、亮からアフタヌーンティーセットのご予約を頂いたのだ。
店としてはご予約ありがとうございますだし、誠志郎の紅茶と菓子を楽しみにしてくれていたのは素直に嬉しい。
ただ、見た目だけみた場合の取り合わせが、何とも言えないものであるだけだ。
顔の傷は学生時代についたものだが、聞いた限りでは喧嘩などではなく、むしろ人助けをしてついたものと看護師さんにこっそり聞いた。
割と怖い感じの人相である事に加えて、本人の好む服装が割と派手であるし、雰囲気が荒っぽい。
いい人だし、名医なんだけどなあ、というのは巴の内心にて溜息と共に呟かれた言葉である。
店内には、現在亮以外の客はいない。
先程までは数組いたのだが、それぞれに満足そうな顔で店を後にして行った。
落ち着いた音楽が流れる店内。亮が嬉しそうに菓子を食する様子を視界に捉えながら、巴は今日も誠志郎に紅茶について教わっている。
「大分安定してきたよね」
「でも、私としてはまだまだなんだよね」
カップを満たす赤褐色の水色は美しいと言えるし、優雅で芳醇な香りも充分と言えるかもしれない。
取っ手を摘まみ上げて、一口。
「……やっぱり、一味足りない気がする」
「巴は結構自分に厳しいよね」
苦笑しながらいう誠志郎に、巴は渋い顔で唸っている。
巴にとっては何故か納得できないのだ。
だって、誠志郎が淹れてくれた時は『これだ!』と思う味なのだから。
まあ、恋心という補正があるのかもしれないが、巴としては自分に及第点をつけられない。
「もう少し茶葉の味と香りが出ないかなあ。水に原因があるわけじゃないし……」
そもそも、水も茶葉も、道具も。同じ物を使っているのだから、原因がそこにあろうはずがない。
湯気を吹きかねない様子で考え込んでしまっている巴を見ながら、誠志郎も思案する表情で呟く。
「そうだね。日本の水は基本的に軟水だしね」
水の硬度というのは、含まれるマグネシウムとカルシウムの量にて決まるらしいのだが。
日本の水が硬度の低い軟水であり、紅茶の色や香りを引き出すのに良いというのは紅茶をたしなむ人々の間では有名な話である。
対して、紅茶の本場とも言える、紅茶失くして一日が成り立たないとまで言われている英国においては。
「ユーインが日本にきて驚いていた。日本の水は繊細な香りを引き出しやすいって」
かの国の水は大体が硬度の高い硬水であるという。
硬水で紅茶を淹れると、水色が濃くなりがちであり、香りや渋味が出にくい。その為蒸らし時間も変わって来る。
人によっては口を揃えて、紅茶に向くのは軟水だと言うのだが。
「でも、イギリスのミルキーブラウンの色と深いコクのミルクティーは、あの国の硬水とミルクでこそ出せる色と味なんだよね。そこはイギリスを恋しがっていた」
「あー、確かに美味しかったよね」
巴の祖父は生前、時折巴と誠志郎を連れてイギリスへ旅行に出かける事があった。
その時ミルクティーを飲む事があったが、確かにあれはあの国の水であり材料であるからこそ出せる味なのだろう。
誠志郎は懐かしそうに目を細めながら、口元に笑みを浮かべて語る。
「そもそも、ユーインは牛乳の確保もそれなりに大変だったからね。……いや、大変だったのは本人じゃなくて周りだったけど……」
それは確かに、と巴は頷く。
彼がユーインと過ごしていた時代において、いかに北海道と言えど牛乳の調達は今ほど容易ではなかった筈。
以前聞いた話だと、紅茶が飲めないなら招聘を断ると領事を脅したらしい先の始祖は、牛乳にも同じような事を言ったのではなかろうか。
巴の顔に浮かんだ疑問を読み取ったのか、誠志郎は優しい苦笑いをして頷いた。つまりは、そういう事らしい。
最近、誠志郎はユーインの事や、かつて自分が生きた時代の函館について柔らかい表情で語ってくれる事が増えていた。
彼の話によると、先の始祖は中々に面白い人物だったようだ。
アーサーの事を弟、或いは息子のように可愛がっていたらしい。
ただ、可愛がっていたが、同時に遊んでもいたようである。今のアーサーの気性は、ユーインに散々からかわれた影響であろうと。
実に分かりやすいツンデレ気質だった吸血鬼を思い出していると、入口の扉についているベルが鳴った。
新しいお客さんか、と思ってそちらを見た巴は、思わず目を見張って声をあげた。
「和!」
「こんにちは、お邪魔するね」
やや線が細く大人しい雰囲気の少年――巴の弟・和が、穏やかな笑みを浮かべて立っている。
思わぬ来訪に巴も誠志郎も驚き、紅茶のカップを口元に運んでいた亮も少し驚いた風に目を見張った。
学校はどうしたのかと問えば、今日は午前で終わりだったと温和な性質の弟は控えめな声音で応える。
一体何の用事だろうと巴は不思議に思う。
以前は船見町の家に休みの日に顔を見せる事があった。だが、巴が結婚し懐刻堂に移ってからは、調度本人が高校に入って忙しくなった事もあって顔を見ていなかった。
亮に気づいてそちらに頭を下げてから、和は少し苦笑しながら口を開いた。
「一応、今から行くって連絡はいれたけど見てないよね。既読ついてないし……」
「ごめん、見てなかった」
巴は、反射的に手を合わせて頭を下げる。
一応、店舗にスマホは持ち込んではいた。
しかし、あまり頻繁に見る性質ではないのに加えて、開店時間中にそうそう覗いているわけにもいかない。
言われて見てみれば、確かにその通りにメッセージが届いているではないか。
謝り、改めて訪問の理由を問う。すると、和は手にした鞄から少し古びたファイルを取り出した。
「これ、姉さんに届けようと思って」
受け取りながら、巴は首を傾げる。
何かの資料のようだが、一体何の、と不思議に思いながら表紙を開いてみる。
そして、小さく驚きの声をあげると目を見開いた。
巴の様子を見て怪訝な表情をした誠志郎がファイルを覗き込むと、同じ様に驚いた表情を浮かべる。
そこには、巴が祖父から譲り受けたあの懐中時計の写真が綴じられていたからだ。
十年の歳月を経て少しばかり色は褪せているものの、写真の時計の、金無垢に精緻な細工の花模様もあしらわれた小さな貴石も、寸分違わずあの象嵌細工の小箱に入ったものと同じだ。
目を見張って言葉を失っている姉に、弟は静かな声音で説明する。
「今年で十年になるから、って母さんが父さんの遺品を整理してきて見つけたんだ。写真の懐中時計は、確かお祖父ちゃんが姉さんに遺したものだよね」
何でもほぼ手つかずだった父の書斎を、漸く母が整理する気になったようで。このファイルはその中で出て来たものだという。
それを聞いて、亮がしみじみといった風に声をあげる。
「そういや、親父さんが亡くなってもう十年か。早いもんだ」
巴の父が亡くなったのは、十年前だった。
祖父に連れられて懐刻堂を訪れる半年ほど前の事だ。
特に健康に問題を抱えていたわけでもない、病気を患ったわけでもない。まだまだ第一線で活躍していける年齢だった。
父はある日、第三者の通報を受けて駆け付けた警察により、公会堂裏手にある古民家の前で亡くなっているのが見つかったのだ。
一時期は事件を疑われたものの、外傷など見られなく自然死という事になった。
だが、家からも遠く、仕事に関わるわけでもない。ましてや実父の家からも距離があるその場所に何故行ったのかについては、未だに謎のままなのである。
母はその後、父を亡くした哀しみに浸る間もなく、咲洲家の権益を耽々と狙い続けた叔父と対峙し続けている。
長男である和に家を継がせるまではと頑張っているらしい。その間、書斎にある遺品を整理する事も無かった。
和の言葉によると、和の高校入学を機に色々と目を向けるようになったらしい。
「資料の中身については良くわからなかったけど。これは姉さんの手元にあったほうがいいと思って」
「ありがとう、和。……助かったかも」
ここの処、懐中時計について、そしてその持ち主について気にかかる事が増えていた。そこへ齎された手がかりである。これは素直にありがたい。
礼を言って頭を下げる姉を見て、良かった、と表情を明るくしていた弟だったが、不意に表情が曇る。
どうしたのか問いかける前に、一瞬の逡巡の後に和が真剣な様子で口を開いた。
「……姉さん。今度、家に顏を出してよ」
弟の言葉を聞いた瞬間、巴の表情が凍り付いた。
思わず怪訝そうな眼差しで相手を見てしまう。
和は知っているはずだから。姉と母親がどんな状態か。
母は、昔から巴を避けていた。
幼い日の巴が覚えている母の顔、全て何かを恐れているように影のある表情だった。
抱き締めて欲しくて手を伸ばしても、その手を避けるように母は巴に背を向ける。
そんな中、弟が生まれた。
跡継ぎとなり得る弟が生まれて、母は漸く笑顔を浮かべるようになった。
安心したように弟を腕に抱く様子を見て、巴は幼心に理解した――自分は、母に愛されていないのだ、と。
母は巴が年を重ねるにつれて、次第に狂乱したような様子を見せる事が増えていく。
妻の異変に気付いた父親は、祖父に巴を預けるという選択をした。
そして、父が亡くなった後も、祖父が亡くなった後も。
母親の口から一言として「戻ってきなさい」という言葉が紡がれた事はない……。
誠志郎も亮も、黙したまま視線を対峙する姉弟へ向けている。
沈黙が満ちて、響くのは長時計の時を刻む音と、異国の郷愁を思わせる音楽だけになった。
「嫌な思いするのもさせるのもわかっていて、行きたいと思うの?」
やがて、盛大な溜息と共に呆れたような巴の声が響く。
母とは、誠志郎と結婚の報告に行って以来会っていない。
そもそも実家に近づく事すら倦厭されている状態だ。嫌な思いをするのがわかっていて、用事らしい用事もないのに進んで会いに行こうと思う訳がない。
勿論、顔を合わせる事になる母とて同様だろう。それなら、お互いに合わないで話を伝え聞くぐらいが調度いい。
だが、それを聞いた瞬間、弾かれたように和が叫んだ。
「違う! 母さんは、いつも泣いてる! ……姉さんが帰った後は、いつも」
悲痛な響きを帯びた言葉を聞いて、巴が顔を歪める。この弟は何を言っているのだ、と言いたげに。
泣いているというならば、嫌過ぎて泣いているのではないか。会いたくなかったものと顔を合わせてしまって、不快すぎて。
そう思いはするけれど、皮肉として返してやりたかったけれど、何故か凍り付いたように舌が動かない。
弟が泣き出しそうに顔を歪めているのを、目にしてしまったからだ。
「僕がこうして姉さんのところに来て。帰った僕に姉さんがどうしてたかの話を聞いたら、部屋に籠って泣いてるんだ」
和は巴と会った後、巴の様子を母に伝えていたのだという。
母は決まって安堵したように息をつくと、すぐさま父の書斎へ籠ってしまう。
心配した和が部屋の外から中を伺うと、母が巴の名を呼びながら咽び泣いている。
切れ切れに『ごめんなさい』『私が弱いせいで』と自分を責めながら。自分が身代わりになっていい、だからどうか二十歳を越えて生きてくれと願いながら……。
「母さんは、姉さんが心配なんだ! だから……!」
完全に強張った表情のまま言葉を失ってしまっている姉に、弟は必死に訴えた。愛されていないのではない、疎まれているのではないと。
母と姉との間にある溝を、少しでも埋めたいという思いが伝わってくる。
今、和が語った話はその想いゆえの作り話ではないかと疑う心がある。姉を傷つけない為の、優しい嘘ではと……。
けれども、否定も肯定も紡げない。
裡は混乱し、思いが錯綜している。嘘と思う心と、信じたいという心が鬩ぎ合っている。
言葉を返す事も出来ずに愕然とした面持ちで立ち尽くす姉を見つめていた弟は、やがて哀しげに息を吐く。
「ごめん、お店の邪魔をしてるよね。……帰るから」
夕には家庭教師が来るのだという。それまでの間を抜けて、資料を持ってきてくれたようだ。
誠志郎と亮に頭を下げながら挨拶し、身を翻す和。
軋んだ音を立てながら静かにドアを開けると、外に踏み出す直前に肩越しに振り返り微笑う。
「……待ってるから」
願いの事一つ残して、和は懐刻堂を後にした。
沈黙したままの巴に視線を向けつつ、亮も立ち上がる。
「俺も帰るわ。美味かった、また頼む」
「ええ、お待ちしています」
声をかけられた誠志郎はすぐに我に返ると、笑みを浮かべて応じる。
会計を済ませた亮は、和の消えた入口を見つめたまま唇を噛みしめていた巴の横を通り過ぎる際に口を開いた。
「巴」
「なに? 亮先生」
呼びかけられて何とか応えたものの、巴の声音は硬い。
亮は一つ大きく嘆息すると、巴の頭を軽くはたく。
何するの、と恨みがましく見上げた巴に対して、亮は何かに対する後悔交じりの視線を向けていた。
「あんまり意地張り過ぎてると。……肝心な時に後悔してもしらねえぞ」
咄嗟に巴が言葉を返せないでいる間に、亮の背中は扉の向こうに消えていく。
残ったのは、父の遺した資料を手に唇を噛みしめてうつむく巴と、巴を心配そうに見つめる誠志郎。
暫くの間、巴は無言で佇んでいた。だが、再び扉が開く音とベルの鳴る音が響き渡ると、二人の眼差しがそちらを向く。
女性数人グループである。どうやら、観光客のようだ。元町観光の途中、通りすがりに見つけたので立ち寄ったといったところだろう。
巴の顔に、瞬時に笑顔が戻る。
手にした資料をカウンターに置くや否や女性達の元に戻り、席へと案内する。
その様子に、先程までの葛藤も躊躇いも、哀しみも感じられなかった。
巴の切り替えの良さと、同時に、少しばかりの頑なさ。
苦笑しかけたのを接客用の笑顔に覆い隠して、誠志郎もまた客に対する準備を始めるのだった。
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