私は生きたい


 差し伸べられた手が少しずつ近づいてくる中。

 巴は、俯いてしまっていた。

 肩が震えてしまうのを、もう隠せない。低く、呻くような声になってしまうのは、もう自分でもどうにもできない。


「……な」

「巴?」


 誠志郎が思わず肩越しに振り返りながら、怪訝そうな顔をする。

 微かに聞こえた低い呟きが、聞き間違いだったのだろうか、とでも言いたげな様子である。

 だが。


「ふざっ……けるなっ!」


 その場に響き渡ったのは、様々な感情が綯交ぜとなった怒りに満ち満ちた怒鳴り声だった。

 無論、それは誠志郎のものでもなければ、嘉代でもない。

 顔を上げて真っ直ぐ嘉代を睨みつけながら叫んだのは巴である。

 呆気にとられた様子の誠志郎の横を通り過ぎて前に出ると、やや目を見張ったように見える嘉代へと叫ぶ。


「そんな理由で、私を殺そうとして、今までの咲洲の娘達を殺していたってこと⁉」


 確かに語られた過去は哀しかった。

 自分が同じ立場であれば、咲洲の主を恨まずに居られなかっただろう。その哀しみは否定するつもりはない。

 巴が怒っているのは別の点だ。


「あなたが悲しかったのは分かる! ご先祖様は恨まれても仕方ないと思う! でも、叔母さんや大叔母さんたちは、今までの咲洲家に生まれた女の子は、何か貴方に悪い事をした⁉」


 巴の怒りが向いているのは、嘉代が『自分と仇の子だから道連れにしようとした。娘を連れていけなかった代わりに、血筋の娘を連れて行っていた』という点だ。

 子供達に何の罪があったのだろうか。咲洲の娘達には、何の罪があったのか。

 ただ生まれてきただけだ、嘉代たちのもとに。そして、咲洲という家に。

 それぞれにただその場所に生まれ、生きたかっただけだ。なのに、それを嘉代は自分の罪の証だという。

 哀しいのと腹立たしいのと、その他様々な感情のメーターの針が振り切れてしまっていて、言葉が上手く出てこない。

 驚きながらも巴が言いたい事を言えるようにと見守ってくれている誠志郎を視界の端に捉えながら、巴は尚も言い募る。


「恨むな、までいうつもりはない! でも、それを向ける相手が完全に間違ってる!」


 嘉代は確かに過去の咲洲の主に、愛する誠志郎を理不尽に奪われた。

 どん底にいた自分を立ち直らせてくれた、とよすがに思っていた相手の裏切りを知ってしまった。

 その悲しみは理解出来る。だから、先祖が恨まれる事については物申すつもりはない。

 しかし、その怒りが子供達に向いた事、そして連綿と血筋の娘達に向いてきた事については物申したい。許せない。


「自分が酷い事をされたから、他人に酷い事をしてもいいとかいう考え、大っ嫌い!」


 巴は、今までで一番の渾身の力を込めて叫んだ。

 肩で息をしている巴に、二つの眼差しが注がれている。どちらも、ただ沈黙しながら巴の様子を伺っている。

 嘉代に対して感じる哀しみと、同時に感じる堪えきれない怒りとに、言いたい事が思うように言えないのがもどかしい。

 こんな状況で喚き散らすなど子供のようではないかと思うと悔しいけれど、何とか呼吸を落ち着けようと試みる。


「……私は、先が見えていた。だから、最後まで後悔しないように。最後まで笑っていたいと思っていた」


 不意に変わる話題に、誠志郎が不思議そうにしているのが伝わってくる。

 変わらぬ深い澱みを湛えた瞳で自分を見据えている嘉代を真っ直ぐ見つめ返しながら、巴は続ける。


「でも同時に、二十歳前に死ぬことに対しては諦めていた。だから、予めそれ以上先を望まないようにして。……区切りを自分から設定して、それまでを充実させようとしていた。そこまでに、後悔を残さないようにって」


 人よりも終わりが早いというならば、その分後悔しないように日々を満ちたりたものにしようとしていた。

 最後まで後悔のないようにと思っても、理不尽に背負わされた死自体を覆そうと思っていなかった。そのことについては、抗うだけ無駄と何処か諦めていたのだ。

 理由がわからない事への恐怖と諦めを、日々笑顔でいる事で誤魔化していた自分に、巴は今になって気付いた。

 少し伏し目がちになりながら、巴は一呼吸おいてから続きを静かに紡ぎ始める。


「でも、今までよりもずっと、誠兄さんを好きになって、誠兄さんともっと一緒に居たいって思うようになった」


 思わぬ真実が明らかになったのを切っ掛けに始まった、不思議な結婚生活。思っていたのとは少し違う形で叶った幼い頃からの夢。

 楽しかった、幸せだと思った。誠志郎の事をもっと知る事が出来て、より近しいつながりが出来て。誠志郎は負い目に思っていたとしても、自分には幸運だと思った。

 共に過ごす日を重ねて、より誠志郎を知る事を重ねて、もっと誠志郎が好きになった。叶うなら、もっとこんな日々を重ねていきたいと思うようになっていた。


「誠兄さんが、失くしたくない、って思ってくれたのが、とても嬉しかった」


 花狩人に攫われた日に、誠志郎が口にしてくれた彼が心の内側に隠していた願い。それを聞けた時、どれだけ嬉しかった事か。

 あの言葉を聞いてから、巴の中にはある新しい願いが生まれたのだ。


「だから私は、自分の為に、誠兄さんの為に。足掻いても、藻掻いても。みっともなくても、死にたくない」


 毅然とした面持ちで嘉代を見据えながら、巴は一言一言、確かな声音で紡ぐ。

 自分は、もっと誠志郎と居たい。そして、誠志郎も巴を無くしたくないと願ってくれた。

 自分の為に、誠志郎の為に。巴はもっと強くなりたいと思った。

 諦めさえも越えて、理不尽さえも越えられるぐらいに、強く。

 そこで言葉を区切ると、沈黙したまま暗い眼差しで見据えてくる女の亡霊を睨みつけて、巴は再び口を開いた。


「私は、生きたい! だから、貴方には絶対負けない!」


 死にたくない。今までの咲洲家の娘のように、二十歳を迎える事なく終わりたくない。

 生きたい。生きていきたい。誠志郎と共に、何時か二人で笑って満足して最後を迎えられる日まで。

 数え切れない思い出と幸せと笑顔を積み重ねて、時を刻んでいきたい。

 宿命にも、呪いにも、負けたくない。

 それが阻むというのなら、宿命の元凶に――咲洲の娘に理不尽な死をもたらす目の前のこの女に、絶対に負けたくない。


 言い切った巴を嘉代が黙したまま見つめているが、巴は怯む事なく見つめ返す。

 瞳の奥に凝った闇に心では怯えがあったけれど、それと悟られまいと必死で唇を引き結んで強い眼差しを向け続けた。

 誠志郎な巴を見守るように巴の後方に控えて、やり取りを見ていた。

 嘉代を見ていた巴は、ふと手にしている小箱が熱を帯びたように感じた。

 かたかたと僅かに震えたように感じた。怪訝に思った瞬間、脳裏に閃光のようにその光景が過った。


 線の細い穏やかな男性が何かを記している。

 悔恨の表情で綴っていた男性は、やがて傍らにあった木箱を手にする。

 それは、巴が今手にしているものと同じ、金銀象嵌が美しい細工物の小箱で……。

 男性は、木箱の底を何やらいじっていたかと思えば、何かを持ち上げる。

 二重底、と驚いた巴の目の前で男性は記した手紙らしきものをそっと其処に潜ませた――。


 ぼうっとしていたのは一瞬の事だった。

 すぐに巴は我に返る。

 今のは何、と怪訝に思う巴の耳に、燃える怨嗟に揺れる声が聞こえて来たからだ。


『……ゆるさない』

「え……?」


 巴が思わず声をあげながら見た先で、燃え滾るような憎悪を込めて巴を睨む嘉代は叫んだ。


『許さない……! 罪が幸せになるなんて、許さない!』

「巴! 下がれ!」


 嘉代を中心に、生温い風が吹き始める。

 否、それは風ではない。黒い霞のようなものが、徐々に嘉代から吹き上がるように湧き出している。

 誠志郎が鋭い制止の声をあげながら巴を引寄せると庇うようにして立ちはだかる。

 長身である誠志郎越しにも、巴の目にはっきりと映る、黒い靄を……周囲に留まり続けた様々怨念を引寄せ、集めて、どんどん膨れ上がっていく嘉代の姿。

 繰り広げられる光景にさすがに蒼褪めた巴は、嘉代が自分を射抜くような眼差しで見つめているのを見た。


『誠志郎と、お前が幸せになるなんて……!』


 憎悪、怒り、哀しみ。そして……嫉妬。

 かつて自分が手に入れられなかった幸せを、よりにもよって嘉代が罪と思う咲洲の血筋の娘が掴む。

 それは、嘉代が完全に自分を失う程に黒い感情に支配されるには充分な事実だった。

 咆哮のような叫び声をあげながら、嘉代を核としてどんどん集まってきた悪いものが膨れ上がり、拡がっていく。

 あまりに禍々しい光景に、巴は顔色を無くし絶句してしまう。

 膨れ上がるそれは、徐々にその場に拡がりながら、二人を取り囲むように場に満ちていく。

 不思議にそこまで詳しいわけではない巴にも、流石にこれは窮地であるとわかった。

 この場をどう切り抜ければ震えを押さえながら思案していた巴の耳に、静かな声音で紡がれた誠志郎の言葉が触れた。


「巴。……俺に、血をくれるか?」


 巴は、弾かれたように顔をあげ、目を見張った。見上げた先には、誠志郎の真剣な眼差しがある。

 吸血鬼の始祖である誠志郎は、その身の内に強大な不可思議の力を秘めている。

 けれど、唯一つの糧となりうる花贄……巴からも頑なに血を吸おうとしない彼は、常に消耗した状態である。

 誠志郎は今、初めて巴に血を求めた。この自体を打開するために。二人で、この窮地から脱するために。

 始祖は花贄に血を願う。ただ奪うのではなく、共に生きるために。

 誠志郎の想いに気付いた巴は、目頭が熱くなるのを感じた。

 胸を満たす熱い想いになかなか言葉は出てこなかったけれど、やがて笑みを見せながら言った。


「言ったでしょう、誠兄さん。……ご飯は、作ったなら美味しく食べなきゃ、って」


 悪戯っぽく言われた言の葉に宿っている真摯な想いに気付いたらしい誠志郎は、優しい苦笑いを浮かべた。

 そして、静かに巴の首筋に唇を落す。

 どうしよう、と巴は心の中で呟いた。

 こんな状況だというのに、酷く胸が高鳴るのを押さえられない。触れる感触に、鼓動が早鐘を打つのを止められない。

 牙の存在を感じてもやはり痛みは無かった。

 肌を突き破る感触に続いて、吸い上げられていく身の内を巡る温かなもの。

 あの夜と全てが同じだけれど、何故か血が失われていく度に、幸せが身体に満ちていくように感じる。

 同時に首筋に全神経が集中してしまい、吸血という行為を酷く官能的にも感じてしまって、赤面しかけてしまう。

 牙が離れる間際、舌がちろりと撫でていったのを感じれば、もう頬の赤みは隠しようがなくなる。


「下がっていて、巴。……すぐに片づける」


 誠志郎の手から蔦のようなものが生えたと思えば、それは瞬時に刀の形を為していた。

 ただし、普通の刀とは違う、刀身も柄も血のように赤い、あやしいうつくしさを持つ。

 穏やかな誠志郎には似つかわしくない武器を油断なく構えながら、誠志郎はそれと対峙する。


 もはや嘉代では無かった。

 嘉代を核とし、嘆きに応じて集まり形を為した、怨霊たちだ。

 異国と日本、古きと新しきが入り交じるこの街にて、不運にも命を落し彷徨い続けていたものが、一人の女の怨嗟を憑代にして形を為したもの。

 光あるところには影がある。

 街が栄える。けしてそれは良い事だけではない。

 その裏には悪い事も起こり、不幸もあった。

 異国に開かれ栄えた港の影にて流され続けた血の無念を、今、巴達は目の当たりにしているのだ。


 でも、巴はけして恐ろしくなかった。

 だって、巴は今誠志郎と共に立っているのだ。

 誰よりも頼もしい、一番愛しい人と共にあるのだ。もう、怖くなどない。


 誠志郎は巴を守って立ちながら、向かい来る怨霊たちを言葉なく切り伏せている。

 もしかしたらその中には、誠志郎が知ったものもあったかもしれない。かつてを思わせるものも、あったかもしれない。

 だが、誠志郎はただ静かに過去からの怨念を断ち切っている。刃を受けた怨霊は、一つ、また一つとして散っては消えていく。

 巴は黙って、次々と消えていく力に口惜しげに顔を歪める嘉代から切り離されていく怨霊たちの姿を見ていた。

 その時、また手の中の小箱が震えた。

 不思議に思いながら木の箱へと視線を落した時、巴の脳裏に語り掛けるような声が響く。


 ――どうか、嘉代に届けてくれ……。


 気のせいではない、確かに聞こえた。悲痛な願いを口にする、男性の声が。

 どういう事、と問いを口にしかけた時、一際大きな呻き声が聞こえて巴は思わず視線を向ける。

 悶絶するような声と共に、嘉代に集まっていた怨霊の最後の一つが切り離されて、宙へと溶けるように消え失せていた。

 肩で息をしながら、嘉代は誠志郎に恨めしげな視線を向けている。

 対する誠志郎は、静かな眼差しを以てそれを受け止め、佇んでいた。


『私より、その娘を選ぶの……?』

「ああ」


 涙を零すのではないかという程、哀しみに満ちた声だった。滾るような憎しみではなく、切なく口惜しいというような。

 誠志郎は頷きながら、短く応える。

 一つ深く息を吐いた後、誠志郎は呟いた。


「俺もお前も、変わった。……変わらぬままではいられなかった」


 その声音は静かなものではあったけれど、底には哀しみと過ぎし日への追憶が感じられる。

 確かに幸せだった日々、二人は共にあった。

 お互いに若く幼く、何も知らなかった。だが、確かに彼らは幸せだった。

 でも、人は時の流れの中で、何時しか変わっていく。


「お前が、咲洲の主を葛藤の末憎む程に愛したように」


 絶望の末命を断とうとした嘉代を、献身的に支えた咲洲。彼女は、彼を何時しか心から愛していた。

 本当に愛していた。だからこそ、嘉代は知らされた真実に傷つき憎悪し、自らを怨嗟の焔で焼き尽くしたのだ。

 唇を噛みしめて、ただ誠志郎を見据えるしか出来ないでいる嘉代を真っ直ぐに捉えながら、誠志郎は続けた。


「俺も、巴を愛した。俺達はそれぞれに変わった。もう、あの頃の俺達ではないんだ」


 静かに穏やかに、けれど確かで深いこころを込めて紡がれた言葉に、巴の目の端に思わず涙が滲みかける。

 誠志郎が、巴を愛していると言ってくれた事が嬉しくて。

 そして、同時に嘉代と誠志郎が悲しくて。

 あの頃、確かに通い合いお互いを向いていた想い。

 それは、今それぞれに別の方向へ向いた。もう、違う相手に向いている。

 哀しいと言えるかもしれない。

 けれども、誠志郎も、嘉代も。お互いの胸にあるものを偽る事は出来ない。

 そして、巴も誠志郎の手を手放したくない。


『……わたしには、もう、誰も、なにも、ないのね……』


 項垂れながら、絶望の声音で嘉代は項垂れながら呻く。

 かける言葉が見つからないでいる巴の脳裏に、先程聞こえた言葉が蘇る。

 届けてくれ、と願っていた切ない声音が……。


「違う……!」


 弾かれたように咄嗟に叫んだ巴に、誠志郎と嘉代の視線が集中する。

 巴は叫びながら、胸に抱いていた象嵌細工の木箱を開いて、懐中時計を取り出した。

 美しい細工で彩られた時計を目にした嘉代は顔を歪めたが、すぐに驚いたように目を軽く見張った。

 巴が「持ってて」とその懐中時計を誠志郎に手渡したからだ。

 問うような声をあげながら時計を受け取り見つめる誠志郎に、応えているのも惜しいというように巴は焦りながら木箱の底に指を伸ばす。


「あの人の想いが、ここにある……!」


 確かに先程聞こえた男性の声。

 そして、遡って見えた、木箱に込められた秘密。

 箱の底に確かにある筈の希望を、巴は必死に探った。

 小さく音がして、指先にある感触を覚えた巴は表情を輝かせた。

 巴はそれをしっかりと掴み上げると、嘉代に見えるように掲げて見せた。


「これが貴方に残されたもの……。ううん、あなたと、ずっと共にあったもの……!」


 嘉代が驚いた表情で凝視する先、誠志郎が呆然と視線を向ける先。


 巴の手には、古びた手紙と思しき紙があった――。

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