嘉代
「嘉代……」
誠志郎は低く険しい声で、かつての想い人の名を呼んだ。
緊迫した空間の中、二人の視線が交錯する。
張り詰めた空気の中、そこだけ違う何かがある。
かつては相愛だった二人。けれど、嘉代は既にこの世ならざる存在であり、誠志郎は人ならざる存在。
今のお互いの在り方はかつてと違いすぎて、あまりにも哀しい。
『生きていたのね、誠志郎……』
「殆ど、俺も死んだようなものだけどな……」
心の中に直接響くような不思議な声で紡がれた嘉代の言葉に、苦い笑いを浮かべながら答える誠志郎。
その気安さと何時もと僅かに違う口調と、そして明確に違う一人称に、少しばかり痛む胸を押さえながら巴は二人のやり取りを見守っている。
嘉代は確かに巴とよく似ている。あと二年か三年経てば、双子と言っても通る外見になる気がした。
ただ、その淡い茶色の瞳には、あまりにも深くて暗い光が凝っている。見る者を地の底まで引きずり込む程に恐ろしい光が。
嘉代の視線が不意に巴に向けられて、思わず巴の肩が跳ねる。
息を飲んだ巴に向けられた眼差しにあったのは、複雑な愛であり、憎しみであり、そして嫉妬だった。
表情を凍り付かせる巴から再び誠志郎に視線を戻しながら、嘉代は表情を歪めながら言葉を紡ぎ始める。
『誠志郎が死んだと聞いて、私は死のうとした』
楼主から、誠志郎は死んだと伝えられた。
最初は信じなかった。何かの間違いだと思って、彼を連れてやってくる異国の男性に話を聞こうとした。けれど、男性も二度と見世に上がる事はなかった。
人に頼んで、頼んで、調べて。誠志郎の家で、遺体がないまま葬儀が行われた事を知る。
何故、どのように彼が死んだのかはわからないままだった。でも、誠志郎がもう居ないのだと言う事だけは、少しずつ事実として自分の中に染み込んでいく。
自分の世界に彩りをくれた愛しい男を失ってしまったのだと認識した時、何故か涙は出なかった。
哀しみが過ぎて心が麻痺してしまっていたのかもしれない。
気が付いた時には、能面のような表情で嘉代は小刀を手にしていた。
躊躇いなく引いた刃に焼けつくような痛み、飛び散った紅が鮮やかだと思いながら倒れ伏した。
遠くで誰かが悲鳴を上げたのが聞こえた気がしたが、もうどうでも良かった……。
『けれど、死にきれなかった』
意識を取り戻した時、死にきれなかった事を後悔しながらぼんやりと天井を見上げていた。
楼主が何事かを喚いていた気がするが、嘉代にはどうでも良かった。
同じ場所に行けなかった事が悲しくてならなかった。
『助かってしまった私は、ただの抜け殻だった。そんな私を支えてくれたのが、咲洲の旦那様だった』
馬鹿な真似をして、自ら傷物となって。楼主はひたすらに嘉代を怒鳴りつけていた。
価値を下げた事を罵られても、嘉代の心には何も響かない。ただぼんやりと眼差しを宙に向けていた。
苛立った楼主が更に声を荒げかけた時、誰かが楼主を制止してくれた。
優しく柔らかな口調だけれど、有無を言わせぬ強さを持った声。
視線をそちらに向けると、そこに居たのは最近良く店に上がるようになった商家の主である咲洲だった。
知人と共に訪れても敵娼を定める事はなく、知人が嘉代の新しい姉貴分と過ごしている間、嘉代と話す事を望む不思議な人である。
何故ここにこの人が。いまだ宙に浮いているような感覚の中、嘉代は大層不思議に思ったものだ。
咲洲は、嘉代と目が合うと泣き出しそうな顔で、良かったと呟いた。
彼は、それから左程時を置かずして嘉代を身請けした。
不祥事を起こして傷を負った嘉代に対して、かなりの金を詰んでくれたらしい。
楼主は一も二もなく申し出を受け入れ、嘉代は咲洲のものとなった。別宅にて囲われる身となったのだ。
請け出したものの、咲洲は嘉代がただ穏やかに静養できるように、それだけに心を砕いていた。
愛しんでくれた、慈しみ、大事にしてくれた。だが、けして男女の間柄になろうとはしなかった。
身体の傷が癒えても、愛しい男を失った心の傷はすぐには癒えない。
だが、季節が移りゆくにつれて、時を重ねていくにつれて。言葉にせずとも見守ってくれる優しい眼差しを傍に感じ続けるにつれて。
少しずつだが、嘉代は再び笑えるようになっていった。笑みに笑みが返る度、心が温かくなり、満ちていく。
いつしか、嘉代は咲洲を一人の男性として慕うようになっていた。
自分の意思で彼を唯一の男性と想い、咲洲もまた長らく抱いていた想いを嘉代に伝えた。想い想われる事を、嘉代はしあわせだ、と感じていた。
『それがお前の手にあるのは、皮肉だわ……』
巴の手にする懐中時計を収めた小箱に暗い眼差しを向けながら、嘉代は呻く。
あの日手にして微笑んでいたはずの時計を、暗い光を宿して嘉代は見ている。
『旦那様が仰って下さったの……。これを見て自分を思ってくれ、共に時を重ねていきたい、って……』
音もなく、嘉代の瞳から涙がこぼれ、頬を伝う。
それは透明ではなく、様々なものを飲み込み黒く変色していた。
嘉代が正式に咲洲の妾と呼ばれるようになってから程なく、嘉代は娘を授かり、そして息子を授かった。
本宅からの嫌がらせはかなり苛烈なものではあったが、愛されている喜び故に、嘉代の心を挫くには至らなかった。
正妻との間に子が無かった咲洲は大層喜んで、本宅がどちらかわからぬと言われるほど、嘉代たちの元に入り浸り、愛情を注いでくれていた。
『幸せだと思っていた。愛して、愛する事が出来て。……あの時までは……』
優しく思慮深い男性に愛され守られ、可愛い子供達に恵まれた。
立場こそ確かに不安定なものではあったけれど、嘉代は日々幸せを噛みしめていた。
だがある日、それはある来訪者によって終わりを告げた。
『そう……私から誠志郎を奪ったのが、他ならぬ旦那様だったと知るまでは!』
憎悪に燃えるような表情で嘉代は叫ぶ。
それを見た誠志郎の顔が歪むのと、巴が目を見張ったのはほぼ同時だった。
誠志郎が死に際に気付いた、彼を殺させた犯人。そしてそれが何者の意向を受けてのものだったのか。
真実を嘉代が知ってしまっていた事に、二人は言葉を無くす。
嘉代の吼えるような叫びに応えるように、周囲の景色がぐにゃりと歪みはじめ、一つの光景を結び始めた。
それは、嘉代の記憶の中の一場面だった。
嘉代の元を訪れたのは、かつて嘉代が居た見世の楼主だった男だったという。
胡散臭いもうけ話に手を出してすっかり身を持ち崩した楼主は、金の無心にやってきた。
渋る嘉代に対して激昂した楼主は、ある事実を叫んだのだ。
『咲洲の旦那が仰ったのさ、困る、ってな! だからあの目障りな虫を消したんだ!』
咲洲は嘉代の水揚げを望む意向を見せていた。楼主も、それが叶えばと思っていたらしい。
だが、嘉代には誠志郎が居た。
遊女に恋など許されない。嘉代の意向などあっても無きに等しいもの。
だが、咲洲は彼女に想う男が居る事を知ると『困ったな』と呟いた。
楼主は、このままでは男の存在を理由に咲洲が話を断りかねないと判断し……結果、誠志郎は凶刃にかかった。
知らぬ場所で交わされたやり取りで。嘉代が今愛しいと思う男の意向で、かつて愛しいと思った男は死んだのだ。
『馬鹿な女だよ、お前は! 恋しい男を殺させた相手に何も知らずに世話になって、呑気に暮らしているんだから!」
醜悪な顔で哂いながら言われた言葉は、けして忘れる事ができないだろう。
嘲笑う楼主を、騒ぎを聞きつけた使用人に命じてつまみ出した後、嘉代は呆然とその場に崩れ落ちた。
嘘だ、と乾いた声が零れた。
そんな筈がない、旦那様がそんな事を、する筈が。
否定するように首を左右に激しく振りながら、嘉代はひたすら嘘だと呟き続けた。
けれど、何処かで不思議と納得している自分が居る。
何時も笑顔でいたのに、何処か罪の意識を感じているように感じたのはそのせいだったのだ、と……。
直接手を下したのは違う人間であっても、彼の意向がなければ誠志郎は死ななかった。私から初めて恋しいと思った男を奪ったのは、あの人なのだ――。
嘉代は、哀しみに怒りに、憎しみに咽び泣いた。
しんじていたのに。
あいしいていたのに。
あなたが、うばったなんて。
あなたが、ころしたなんて――!
何時の間にか、子供達が嘉代の側にきて、母を覗き込んでいる。
二人とも心配そうで、泣かないでと言いながら身を摺り寄せてくる。
涙に濡れた瞳を呆然と見開いて、嘉代は思う。
ああ、この子供たちは。
愛しい我が子。私から誠志郎を奪った、憎い仇の子。そして、何も気づかなかった私の罪の証。
私も有罪。あの人も有罪。それなら、この子達は……?
育ちゆく事が、裏切りであり、罪である子供達。
これ以上重ねないように、続いていかないように。
つれて、いかなくては。
わたしとともに、つれていかなくては――!
嘉代は、二人の子の首を絞めた。
二人が息をしなくなると、自ら首を括った。
ゆらゆらと揺れる魂の抜けた嘉代から、鎖が音もなく千切れて畳に落ちて。時計が転がり、一人でに蓋が開く。
時計の針は、もう動いていなかった――。
巴の目に映る景色が揺れて、夢から現へ、過去から現在へと戻って来る。
顔色を完全に無くし、強張った白い顔で嘉代を見つめる巴。
そんな巴を見据えながら、滾る憎悪を根底に潜ませた暗い眼差しの嘉代は呟く。
『でも、あの子を連れていけなかった。私の罪は、続いている』
かけつけた使用人によって、仮死状態だった娘だけは何とか命を取り留めた。
そして、その娘によって今日まで咲洲家は続いてきた。
だから、嘉代は連れて行くのだ。共に逝けなかった娘の代わりとなるものを。
蒼褪めた誠志郎が口元を手で覆いながら、呻くように呟く。
「修護さんが、俺にも事実を伏せたのは。……俺に気を遣ったんだ。あの人は俺と嘉代の事を知っていたから」
影に潜むようにして、己を捨てて咲洲家を見守り続けた誠志郎。
彼と嘉代の事を祖父は知っていた。だから伝える事が出来なかった。咲洲家の娘に起きる異変の元凶が、彼のかつての想い人なのだと。
誠志郎の言葉を聞いても、嘉代の表情は揺らぐ事はなかった。
ただ巴を見据えたまま、嘉代は低く呟き続ける。
『でも、連れてきても、連れてきても。……どの子も、あの子じゃない』
両の目から黒い筋を頬に伝わせながら、嘉代は怨嗟を吐き出し続ける。
彼女の目当てであったはずの娘は、既に咲洲の血筋を繋いで世を去っている。
見失ってしまって、混濁しゆく意識。
何が正しくて間違っているのか。何を目的としていたのか。何を望んでいたのか。
全てが嘉代の中で渾沌としていく。恨みの炎に身を焼く女の中で、愛も哀も、何もかもが交ざり合って暗く塗りつぶされていく。
『あの子を連れていかなければ、終わらないのに』
そこにあるのは、目的すら見失った、ただの妄執の塊だった。
そうしなければならない。そうしなければ、彼女の苦しみはけして終わる事はない。
でも。何故に苦しいのか、憎いのか、哀しいのか。もう、わからぬまま。
ただ、ひたすらに嘉代は犠牲を求め続けている――。
「連れていけなかったから……」
『そう、だからお前を連れて行くの』
小さく呻いた巴の言葉を捉えて、嘉代は笑った。
爛々と輝く瞳で食い入るように巴を見据える彼女は、既に狂気の領域にある。
嘉代が巴に一歩、また一歩と近づいてくる。
誠志郎が巴を庇うように立ちはだかっても、嘉代の進みは止まらない。
もはや、誠志郎すら目に映っていないのではないかと思う程に巴だけを見つめながら、嘉代は必死に手を伸ばす。
『連れていけば、今度こそ終わるはずだから。だから、お前はわたしと来るのよ……!』
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