父の最期の願い
乾いた声すら最早上げられない。巴は、目を見開いたまま、口を魚のようにぱくぱくさせるだけ。
彼女の見つめる先で、だから修護さんは……と瞳を伏せながら誠志郎が掠れた声で独白している。
嘉代。かつて函館の地にあった遊郭にいた禿の少女。
誠志郎の想い人。彼の死の原因となった人。
そして、咲洲家に奪われて、巴に繋がる血筋を紡いだ女性……。
その彼女が、何故咲洲家の娘が早世する元凶となるのか。
嘉代は流行り病で息子と共に亡くなった。何故に血筋に祟るような真似を。
巴の表情に隠す事なく表れている疑問を見てとって、誠志郎は苦しげに表情を歪めて、大きく嘆息した。
そして、一瞬の逡巡の後に、再び口を開いた。
「嘉代は、流行り病なんかじゃなかった。……自殺したんだ」
「な……んで……?」
漸く絞り出せた声は、低く掠れてしまっていた。
大切にされていて、幸せだったはずなのに。
懐中時計が見せた不思議な夢の中、嘉代は幸せそうに笑っていた。
特別誂えの箱に入った美しい時計を贈られた時も。子供達に囲まれ、咲洲家の主を出迎えた時も。
それなのに何故、と呻きかけた巴の脳裏に、稲妻のように過るのは最後に見た光景だった。
怒りに、戸惑いに。そして憎しみに。行き場のない感情の鬩ぎ合いに苦しんでいた。
『あなたが、ころしたなんて――!』
蘇る、血を吐くような心の叫び。同調してしまった、嘉代のこころ。
そして、弾き出されたように彼女の心が感じられなくなり。
その時には、嘉代は我が子の首へと手を伸ばしていた……。
呆然としたままの巴に眼差しを向けていた誠志郎は、もう一度日記帳に視線を落すと、続けた。
「そこまでは、修司さんもわからなかった。だが、嘉代は、ある日突然我が子達を道連れに命を絶った……」
体裁を気にしてか、表向きは流行り病という事にされて弔われた。
弔いが早々と為されたのは、余計な詮索をされぬためだろう。
「嘉代と息子は助からなかったが、娘は助かった。……それが、理由なんだ……」
沈痛な面持ちの誠志郎は、耐え難い痛みに苛まれているような、悲痛な声音で呻く。
先を聞きたい思いと、それ以上を知りたくないという思い。二律背反な思いに揺れた末に、巴は続きを促すように誠志郎を見据える。
恐ろしい事実が待っている気がする。だが、ここまで来たのだ。立ち向かいたいと願ったのだ。ここで逃げたくない……!
誠志郎は巴を見て一度頷くと、重々しい口調で更なる真実を告げる。
「嘉代は我が子二人を道連れにしようとした。けれど、娘だけは連れていけなかった」
子供達と心中を計った嘉代は、息子と共に死んだ。
だが娘は死ななかった。嘉代の目的は、半分だけ果たされて、半分は果たされないまま。
「だからだ。……道連れにできなかった娘の代わりに、咲洲家に娘が生まれると、連れていってしまうんだ」
ずっと感じていた、不思議な焦燥感と恐怖。
潜在的にあり続けた、追いかけられている焦燥感。その原因が、嘉代――。
言いたい事は山程あるが、先程から口腔内が乾いて痛い程で、一言とて紡がれてくれない。
蒼褪めて言葉を失ってしまっている巴から日記帳に視線を移した誠志郎は、大きく息を吐く。
「嘉代に関するものも、彼女が与えられたものも何もかも。咲洲の正妻によって散り散りに処分されてしまっていた」
咲洲家の当主と正妻はけして仲の良い夫婦とは言えなかったようで、当主の愛情はひたすら嘉代とその子供達に注がれていた。
正妻はかなり嘉代に対して嫌がらせを続けていたようだ。
嘉代が亡くなると正妻は目障りだった妾が居た痕跡を消すことに注力した。嘉代がこの世に存在した証など、消してしまいたいとでもいうように。
嘉代が与えられたものは、全て売り払うなどして処分してしまったという。記録すら残らぬようにと、徹底したものだったらしい。
だが時を越えて、切れ切れになってしまった嘉代の存在した証を、探す者が現れた。
「それらを集めて、繋ぎ合わせて。修司さんは真実に辿りついた」
ばらばらに分解され、踏みにじられてしまった欠片を探し当て、繋ぎ合わせて。
父は真実に――元凶となった嘉代という女の存在を知った。
咲洲家の娘に未来を望めるかもしれない儚い可能性を、現に引寄せた。
「執念と呼べるものだったと思う。でも、彼は娘への想いで、不可能を可能にしたんだ……」
「……わたし……?」
誠志郎は感嘆の息を吐きながら、巴へと眼差しを向ける。
巴は、目を再び瞬いて呆然と首を傾げる。
父がそこまでして真実を追い続けた理由が、巴にあると誠志郎は言う。
それが、俄かには信じられなくて。
「お父さんは亡くなる少し前、懐刻堂に来ていたんだ」
初めて聞かされる事実に、巴は思わずまじまじと誠志郎を見つめてしまう。
眼差しを受け止めながら、誠志郎はその日を思い出すように目を細めながら続ける。
「酷く疲れ切って、やつれていた。……でも、お父さんは笑いながら言っていた」
心配する誠志郎に、これぐらい何とも無いと父は笑っていた。むしろ、嬉しそうですらあったという。
もう少しで、漸く娘に父親らしい事をしてやれるかもしれない、と。
かける言葉に迷いながら見つめる誠志郎に、父は言った。
あの子は自分達夫婦の元に生まれてきてくれた。娘は、数え切れない笑顔と幸せをくれた。だから、あの子にありがとうを返したいのだと。
「お母さんは、恐れて。愛するが故に怯えてしまったんだ。巴、君を何時失うのかと」
巴を見てくれない母。
巴を思って、密かに涙しているという母。
かつては巴に向けて笑ってくれていたのだという――恐らくは、咲洲の娘の宿命を知るまでは。
今この瞬間に元気でいたとしても、何時目を開かなくなってしまうか分からない。
明日かもしれないし、先の話かもしれない。疑心暗鬼になり、母は心を病んだ。
妻は知ってしまってから、娘と笑い会えなくなってしまったと言っていた、と父は語っていたらしい。
けれど、父は続けたという。
自分は信じている。願っている。
哀しい理由で今は隔たってしまっている妻と娘が、再び――。
「君のお父さんは、妻と娘が笑い合える日を、取り戻したかったんだ……」
誠志郎は、日記帳を巴に差し出しながら告げる。
無言でそれを受け取った巴は、ぱらぱらとページを捲りながら、視線を落す。
進むうちに、ぽつり、と水滴が頁に染みを作った。染みは次々に増えていく。
巴は唇を噛みしめて嗚咽を堪えていた。
涙が次から次に溢れてくるのが止まらない。
もしかしたら、誠志郎が聞かせてくれた話は、巴を慮っての作り話かもしれない、と思う心もあった。
でも、違うのだ、と心の底から叫ぶ自分が居る。そして、記された内容はそれをただ裏付ける。
懐かしい父の文字は伝えてくる。
父の想いを、母の想いを。
自分が、確かに愛されていたのだと……いるのだと――。
涙は止まる事を知らない。嗚咽も、遂には堪えきれなくなってしまう。日記帳を抱き締めて、巴は静かに泣いていた。
ふわりと、温かな感触を感じた。
優しく巴を腕の中にとらえる誠志郎の胸に、縋るように身を寄せる。自分を支えてくれる温もりが、今はただ嬉しかった。
誠志郎は、巴が泣き止むまで何も言わず巴を抱き締めてくれていた。
やがて、巴は顔を上げた。
泣き腫らした瞳に、静かな決意を宿して。
「お父さんは『元凶』と対峙してくるって言って、帰ってこなかった」
咲洲の娘が短命である元凶と対峙しに向かった父は、命を失い、ある場所にて発見された。
それならば、父を殺したのは。
そこに居るのは。
巴は確りとした声音で、誠志郎の瞳を真っ直ぐに見据えながら紡いだ。
「……行こう。嘉代に、会いに」
随分長い事経っていたようで、既に外に出た時には辺りは茜色になっていた。
巴と誠志郎は、ある場所へと歩みを進めていた。
かつて通っていた小学校の前を過ぎて、寺が三つある通りを過ぎて。千歳坂に、幸坂。姿見坂に常盤坂、弥生坂に東坂。幾つもの坂を横切るように進んで。
誠志郎は時折、歩いていて疲れないかと視線を向けてくれる事があったけど、巴は笑って首を左右に振る。
花贄であるからかもしれないが、わからない。
ただ、確かな事は、隣に誠志郎の存在を感じる事が巴に力を与えてくれている事。
遂に辿り着いた先は、公会堂の裏手の高台にある、ある古民家だった。
そこは、十年前に巴の父が亡くなっているのが発見された場所――かつて咲洲家のものであったとされる家だった。
それなりに広い建物であるようだが、入口の門は封鎖されているようである。
「……仕方ない、よね」
「怒られる時は私も一緒に怒られるから」
かつては咲洲家の物だったという古民家ではあるが、今の持ち主が正確に誰かは分からない。
場合によっては不法侵入となってしまうが、と誠志郎は少しばかり渋い顔だが、巴が手を添えると惑いを振り切るように封鎖する南京錠と鎖に手をかけた。
そして、勢いよく引きちぎる。人を拒んでいた鎖は、あまりに脆く呆気なく用を為さなくなった。
誠志郎は、巴の手を引いて先を伺いながら中へと歩みを進める。
確かな感触と温もりを感じながら誠志郎に続く巴の耳に、誠志郎の独白のような言葉が聞こえる。
「修護さんは、息子からの手紙で宿命の原因を知った。そして、息子の遺した資料を元に、自分でも調査を進めた」
誠志郎の手には焔のようにも見える不思議な明りがある。
揺れる光に照らされる誠志郎の横顔を見つめる巴は、沈黙しつつ次の言葉を待つ。
「そして……蒐集家としての伝手を駆使してあの懐中時計を手に入れた。恐らく、それが必要だと判断したんだ」
巴は手にした小箱を抱き締める。
嘉代の為に誂えられた小箱と、嘉代の為に求められた時計。
この先に進むにあたり、これが必要になると誠志郎は言い、巴もそう思った。
やがて、奥座敷と言える場所へと二人は辿り着いた。
誠志郎の手の中の灯りに照らされて浮かび上がるのは、見覚えのある室内だった。
何度も夢に見た。
幸せそうに笑う自分に似た女がいる場面を。
そして、その女が怨嗟に焼かれながら悶える姿を。
誠志郎は少しの間唇を噛みしめ沈黙したまま、その場所を見つめていた。
そして、再び口を開くと、あまりに静かな声音で呟いた。
「ここは、嘉代が最期を迎えた場所だ。そして……」
誠志郎はそこで言葉を一度切ると、目を伏せた。
そして再び開いた時には厳しい光を瞳に宿し、ある方向を見据えて、問いかけた。
「巴の父親を殺したのは、お前なんだろう。……嘉代」
誠志郎の問いが向けられた先。
そこには、暗い焔を瞳に宿した、巴によく似た女が揺らめきながら佇んでいた――。
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