ようやく届いたこころ
『それが、何なの……』
嘉代は驚いた様子だった。
この木箱は彼女に贈られたものだったが、底に仕掛けが在った事には気付かなかったようだ。
贈り物に潜んでいた思わぬものに、目を微かに見開いている。
嘉代の驚愕の眼差しをうけていた手紙に、変化が生じる。
淡い光を帯びたと思えば、意思を持っているように巴の手から飛び上がったのだ。
そのまま宙空を進み、嘉代のもとへと進みゆき。
光は徐々に強まり、やがてはその場を照らし包み込んでいく。
目を開けていられない程の光の中、響いたのは落ち着いた男の声だった。
『だんなさま……!』
穏やかで落ちついた印象を与える、温和そうな男性の声。
耳にした瞬間、嘉代は弾かれたように宙を見て叫んでいた。
その顔は先程までの怨嗟や絶望に満ちたものではない。
恋しい男を前にして驚きに震える、純真な少女の顔そのものだった。
声は、静かに語り始めた。
彼は、家を継いだと同時に妻を迎えた。
だが、彼を所詮商人と侮る気位の高い妻とは心通わぬ仲だった。少しでも歩み寄れたならお互いに救いがあっただろう。
嘉代のいる遊郭に連れていかれたのは、妻との冷え切った日々に疲れた頃だった。
勧められても女を買う気にはなれず、知人の敵娼についていた禿である嘉代を専ら話し相手にしていた。
頭の良い娘だと思った。誰から習ったのか異国の言葉まで覚えているではないか。
話す度に驚きを齎してくれる聡い禿を、彼はすっかり気に入っていた。
家人を連れていって女を買わせてやりながら、自身は嘉代を呼びつけて時間を過ごすのが倣いとなっていた。
美しくなっていく嘉代を見守りながら時は流れ、嘉代は禿から呼び名と姿を変えた。
新造となった嘉代は、何れ水揚げの日を迎える。
それを他の男に譲るのを面白くないと思っている自分に気付いた時、咲洲は自分の嘉代への想いに気付く。
楼主は、叶うならば嘉代を揚げたいという意思を彼が垣間見せた途端に飛びついてきた。
だが、彼は知っている。嘉代には思う男がいるのだ。
楼主は、それは問題にならないと笑った。嘉代の男は、初見世の客となるには足りぬ相手であるらしい。
咲洲は溜息交じりに、困ったな、と口にしていた。
いずれ遊女となるならば、好いた男以外にも身を任せねばならない。
だが、それならせめて最初は心底惚れた男と、と思うが、そうもいかないようだ。
相手の男を探って金を自分が出してやる? だが、それを相手が是と思うだろうか。そして、自分は納得できるのか。
彼が迷っている間に、事件は起きた。
彼の元に慌てた見世の男衆が知らせにきたのだ。嘉代が自害しようとした、と。
『嘉代!』
報せを受けて駆け付けた彼は、首に厳重に晒木綿を巻かれ、意識なく寝かされている嘉代の姿を目にした。
息はある。だが、あまりに弱弱しくて。そのまま途絶えてしまいそうに儚くて。
呆然としながら枕元に膝をつきながら、彼は呻くように呟いた。
『何故こんな真似を……』
自ら首を掻き切るなど、そんな恐ろしい真似を何故この明るい娘がするのだと、彼はただ愕然としていた。
しかし、次の瞬間ある事に気づいて楼主へと叫ぶ。
『嘉代の好いた男はどうした⁉ 知らせていないのか⁉』
この場には、楼主や嘉代の姉貴分など、見世の人間の姿はある。
だが、居て然るべき人間がいない。そう、嘉代の想い人である男だ。
快く思われていないために知らされていないのかと疑問を抱く。それならば、金を積んだとて嘉代の為に呼んでやりたい。
そんな事を彼が思っていた時、楼主が静かに口を開いた。
『ああ、あの男でしたら……』
あくまでにこやかな表情を崩さないまま、楼主はその事実を口にした。
『死にました』
何でもない事のように言った楼主の顔を、彼は凝視してしまう。
周囲にいた遊女や禿の方を見遣ると、気まずそうに揃って視線を外す。
楼主の口元に歪んだ笑みを見た瞬間、彼は全てを悟ってしまったのだ。
嘉代が馬鹿な真似をしたのは、その所為だ。
そして、男が死んだ原因は――自分だ。
殺させたのは楼主に間違いないが、その理由は恐らく……自分が、嘉代を揚げたいという意思を見せたせいだ。
自分が何気なく零した一言が、嘉代の恋しい男を楼主にとっての障害物にした。そして、楼主は男を排除した。
自分が一言迂闊に零してしまったせいで、嘉代は愛しい男を失ったのだ……。
嘉代は幸いにして、それから程なくして意識を取り戻した。
彼は一日と開けずに嘉代の元に通い、嘉代の回復の為にあらゆる手を尽くした。
そしてその後、見世出しを待たずに嘉代を身請けした。
表向きは世話をする妾と言う事にはなったものの、彼には最初その心算はなかった。
ただ、嘉代が落ち着いて静養できればそれで良い。
もし元気になった嘉代が他に行きたいと行ったなら送り出してやるつもりだった。
見守ってやりたかった。もう一度、笑ってくれるところが見たかったのだ。
嘉代はやがて、彼を慕ってくれるようになる。
罪悪感はけして消えなかったが、嬉しいと思う心を否定できなかった。
彼は、葛藤した末に嘉代の手を取った。
彼は、嘉代への贈り物として特別誂えの小箱と、重ねていく時の象徴として舶来の懐中時計を求めた。
そして、己の決意と想いを静かに綴った。
嘉代はあの男を忘れる事はないだろう。それなら、あの男を想う心ごと嘉代を守ろう。出来る全てを尽くして、持てる全てで以て。
嘉代は、何時か気づくかもしれない。
愛しい者を失った原因が、私にある事を。
そして、私を憎むかもしれない。だが、それでもいいと思っている。
憎まれたとしても、それでお前が生きていてくれるなら。嘉代の、生きる力となり得るのであれば、私が全てを受け止める。
たとえ、このこころが届く日が来ないとしても。
嘉代、お前を愛している……。
万感の思いを込めて紡がれた声を最後に、静寂が戻り来る。
光が収まると同時に、宙に浮いていた手紙はふわりと嘉代の手の内に下りた。
呆然とした面持ちで、嘉代はそれを恐る恐る手に取る。
小さな音がしたのを感じて、誠志郎の手の中を見た。誠志郎もまた視線を落とす。
時計の針が動き始めた。憎しみに止まっていた時が、動き出していた。
『旦那様……』
嘉代は、震える声で呟いた。
仇だと思っていた相手には、裏切られたと思った男性には、何の咎も無かったのだと知ってしまった。
それどころか、全てを知ったうえで。例え彼女に憎まれても構わないと、全てを受け止める覚悟をしていた。
ただ、嘉代に生きていて欲しいと願っていた……。
嘉代は、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ち、膝を付いてしまった。
彼女の周辺には、まだ黒い靄のような残滓が漂っていた。だが、嘉代の瞳から真珠のような涙が零れ落ちる度に、それ以上彼女に寄り付いて居る事ができなくなる。
漂う影が少しずつ力を失い消え失せていく中、嘉代はただ声もなく泣いていた。
嘉代の顔に浮かぶのは、あまりに哀しい悔恨だった。
裏切られたと思い込み、罪のない我が子を罪と思い込み、道連れに命を断った。
連れていけなかった我が子の代わりとして、何人もの娘達の命を奪い続けた。
取り返しがつかない過ちを犯した事をどれだけ悔いても、過去は変わらない。失われたものは戻ってこない。
巴の頬にも、静かに涙が伝っていた。
哀しかった。
嘉代も、誠志郎も、咲洲の主も。誰もがただ愛していた。誰かを大切に想っていただけなのに。
すれ違って、食い違って、今に至ってしまった。多分、それぞれが望んでいたのはきっと、愛する人と幸せになりたい、ただそれだけだった筈なのに。
誠志郎の手から、何時しか紅い刀は消えていた。もう、それは必要ないから。
巴も誠志郎も、ただ黙って涙する嘉代を見つめていた。かける言葉がみつからない。
嘉代の犯した罪は容易に許せるものではない。死んだ嘉代の子に、今まで死んだ娘達に、嘉代を許してくれなど言えない。
けれども、憎む事が出来ない。嘉代に罪だけを問えない。ただ、あまりに哀しい。
低い嗚咽が響いていたが、緩やかに小さくなっていき、やがて静謐とも言える空気がその場に満ちた。
その場に座り込んでいた嘉代が、静かに立ち上がる。
『……行かなくちゃ』
彼女の姿は亡霊であるが故に向こうが透けて見えるものであったが、揺らぐようだった輪郭は落ち着いた物へと転じている。
真っ直ぐに空を見上げる彼女の横顔には、静かな決意があった。
呟いた嘉代は、暫く何かに思いを巡らせるように目を伏せていたが、再び目を開いて呟く。
『皆に、謝りに行かなくちゃ。許されないけど、許されるはずがないけれど。……いつか、届く日まで』
子供達に。命を奪ってしまった娘達に。そして、愛したあの人に。
けして許されない罪を犯した。許される日は永遠に来ないかもしれない。それでも、何時の日かを信じて。
例え許されないとしても贖罪の道を進み続ける覚悟を決めた嘉代の姿は、徐々に光を帯びて淡くなっていく。
消え行く嘉代は、少しばかり哀しげな笑みを浮かべた。
『その頃には、あの人はもう待っていてはくれないだろうけど……』
「そんな事はないさ」
小さな溜息と共に零れた言葉に、誠志郎は静かに首を左右に振る。
驚いたように誠志郎を見た嘉代に、今は人ならざる吸血鬼となった男は優しい笑みを浮かべながら告げた。
「俺の事も含めて俺を受け入れてくれた懐の広い男なら。きっと、待っていてくれる」
それが、何時になるか分からない長い旅路であったとしても。
彼女を愛した彼の人は、きっとその道の辿り着く先で嘉代を待っていてくれている。
巴にも、根拠はないというのに、不思議な確信があった。誠志郎の言葉に同意するように、必死に頷いて見せる。
巴は、そっと手にしていた懐中時計を嘉代に差し出した。
一瞬驚いたようだった嘉代だが、次の瞬間に時計はふわりと浮き上がったかと思えば、手紙と共に嘉代の手の中に納まっていた。
二人の様子を見つめていた嘉代は、やがて純粋な光と化して、消えた。
最後に嘉代が見せたのは、どこか無邪気な泣き笑いの表情だった。
二人は、言葉なくそれを見送っていた。そして、嘉代が去った後も、二人は黙したままだった。
何時の間にか、静寂の空間に微かな鳥の鳴き声が聞こえてくる。
暗かった空間に、閉ざされた窓の隙間から光が差し込んできていた。
ああ、夜が明けたのだな、と巴は思う。
夜が明けて、朝が来た。
終わらない筈だった咲洲家の闇が、今ここに漸く明けたのだと心の中で呟いた……。
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