結婚して下さい

 二人は、懐刻堂への帰途についていた。


 言葉数は少ないが、時折どちらかが何かを呟き、それに応える。

 先程まで大立ち回りを演じた後である。

 歩いて帰るにはそれなりに長い距離である事を誠志郎は心配していたようだったが、巴は歩いて帰りたかった。

 誠志郎と並んで帰りながら、一歩一歩、自分の足で踏みしめながら帰りたかったから。

 誠志郎こそ疲れているのではないか、と巴は心配したのだが、大丈夫と返ってきた。


 二人は他愛ない話に笑い合いながら、歩き続けて。やがて、大きな坂に――八幡坂に差し掛かる。

 恐らく、函館で一、二を争う人気の坂と言っても過言ではない、観光地としても名高い坂である。

 街路樹と石畳が続く先にある海を真っ直ぐに見下ろせば係留展示している連絡船を見る事ができるし、かつてはCMのロケも行われた事でも有名だ。冬になれば、イルミネーションで飾られた姿を見る事も出来る。

 真っ直ぐに港を望む事が出来る、朝日に照らされた坂の上からの光景は、なかなかに素晴らしい。


 今は朝早い時間であるから見かける人影はまばらであるけれど。もう少しすれば、坂の上の学校へ通う学生の姿を見かけるようになるだろう。

 そうして、この場所は、この街は、日常に返っていくのだ。

 二人も懐刻堂に帰ったら、何時もと変わりない日々を始める事になるだろう。

 それはとても当たり前で、同時にとても幸せな事なのだ。


 しみじみと噛みしめるようにしていた巴だが、ふとある事に気がついて足を止めた。

 誠志郎が立ち止まっているのだ。

 どうしたのだろう、と疑問に思って問いかけようとした時、誠志郎が口を開いた。


「巴」

「何? 誠兄さん」


 巴は誠志郎の方を振り返って首を傾げた。

 誠志郎はとても真剣な表情で、巴に真っ直ぐに向き合っている。

 何かあったのかと心の中で首を傾げながら居た時、誠志郎が静かに、確かな口調でその言葉を口にした。


「俺と、結婚して下さい」


 一瞬、何を言われたのかを理解出来なかった。

 いきなりどうしたの、と思いかけたけれど、あまりに誠志郎の瞳に宿る光が真摯で飲み込んでしまう。

 結婚して下さいと言うのは、いつも巴のほうだったのに。

 改まってこんな風に誠志郎に言われるのは、勿論の事初めてである。

 驚いたように目を見開いて沈黙してしまった巴の脳裏に、ふと過ぎた日のある場面が蘇る。


『……もう少しだけ、待ってもらえるかな?』


 あの日、誠志郎は言った。気持ちは定まっているが、心の整理がまだしきれていないから、待っていて欲しいと。

 そして、彼と巴は過去との対峙を経て、ここに居る。

 誠志郎からの、改めての求婚。それが、彼が漸く出してくれた、彼の本当の答えなのだ。

 巴が長年抱き続けた夢が、今本当に叶ったのだと。


 そう思った次の瞬間には、巴は誠志郎に駆け寄っていた。そのまま、石畳を蹴って誠志郎に飛びついた。


「勿論、答えは『はい』です……!」


 それ以外に巴の答えはない。

 だって、何年越しの思いだと思っているのですか。巴は内心で叫んでいた。

 我慢しているのに、目尻に次々に涙の雫が浮かぶ。嬉しすぎて、もう止まらない。


 沈黙に不安げにしていた誠志郎は、突然の巴の行動に驚いたように少しよろけかけたが、確りと自分の首に手を回す巴を抱き締めて、抱き上げた。

 見上げる優しい眼差しと、巴の眼差しが交錯する。

 二人揃って嬉しそうに微笑んで、お互いに回した手に力を込めた。

 夜があけて、一日が始まって。


 長い闇の果て、漸く答えに辿り着いた吸血鬼と少女の新しき日々も、始まろうとしていた――。

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