第20話 神の理解者

 称号持ちはそれぞれが個性と呼ぶにはあまりにも強大すぎる棋風を持ち、その特性に合致した称号を帝から与えられる。四条識月に与えられた称号は『深識遠慮』。その深い知識を持って、未来を読むと言われた棋士である。


(本当に強い……)


 甘く見ていたつもりはない。相手はあの久遠院大空と並ぶ称号持ちなのだ。それでも、魔法のようにこちらの地がみるみる削れていくのには目を瞠ってしまう。囲碁の置き石は一つの石につき10目から12目の地に換算されるという。六子局なら60目から72目、互先で打ってそれぐらいの差がつくほどの力量差だと言うことだ。とてつもない高みにいる棋士を相手にしている。そんな事実を前にして。


 星河は笑っていた。そんな星河を見て、識月は淡々と打ちながら言う。


「なるほど、大空が興味を持つわけだ。あなたには余分が無い」

「余分、ですか?」

「通常はこれほどの力量差があれば余分な感情を抱くものだ。強者に打ち据えられる恐怖、観客の前で敗北する羞恥、自身では届かぬ高みに対する崇拝。だと言うのに、あなたからはそれらの感情が伝わってこない。あなたは今何を考えている?」

「何を……ですか?」


 識月の言う事の半分も分からなかった。だって星河は今、この盤面に夢中なのだ。この感情を一言で表すならば。


「楽しい」


 横で聞いていた雷がクカカッと笑った。識月も釣られたように肩を動かす。表情は動かないが、どうやら笑っているようだ。


「ふん、どんな女が大空を誑かしたのかと思ったが、どうやら妖怪さんの類だったか」

「また妖怪って言われました……」


 そんなに妖怪っぽい見た目をしてるだろうかと落ち込むが、盤面は待ってはくれない。識月が白石を打ち込んでから、ああ、ここは上にハネるべきだったのかと気付く。黒の形が悪い不本意な進行だ。


「囲碁は人間と人間が戦う遊戯だ。感情を制御する者が囲碁を制する。あなたのその素質は大切にしたほうが良いだろうな」


 一応、褒めてくれているのだろうか? 囲碁が楽しいから皆打っているわけで、囲碁を楽しむ感情が星河の長所だとは自分ではとても思えない。それでも大事なことを教えて貰っていると思ったので、星河は頭を下げた。


「ありがとうございます」


 才能を認めてくれたのならば、とついでにお願い事もしてみる。


「あの、素質があるんですよね? では大空様との婚約を許して頂けませんか?」

「駄目だ。それとこれとは別問題だ」

「ですよね」


 精密なまでに弱点を撃ち抜く識月の一手に翻弄されながら、星河は食らいつく。しかし、徐々に地が削れ、追い込まれていく。


「大空は日華帝国の囲碁界、その未来を担う人材だ。あなたはその重要性が分かっていない」



   *



 四条識月は類稀なる才能の持ち主だった。生まれた頃から囲碁で負けた記憶はなく、当たり前のように棋院の院生として最上位の成績を残し、当たり前のように国家棋士になった。当時、十歳。最年少記録では無かったものの、国家棋士としては若すぎる年齢だ。


 そうして迎えた国家棋士の初公式戦。そこで識月は、神と出会った。


 久遠院大空、識月より一つ上の年齢。久遠院家の天才は院生を通らずに国家棋士採用試験に合格したため、国家棋士になるまで識月と対局することは無かった。久遠院のコネによって国家棋士になった坊っちゃんだと本気で思っていた。その間違った認識は、初めて対戦した時に粉々に砕かれた。


 大空との初めての公式戦は完敗だった。こんなにも強い棋士がいるのかと心の底から震え上がった。人間だとは思えなかった。


 それからも公式戦で大空と三度対局して、三度敗北した。識月はそれまで、自分が囲碁棋士の頂点に立つのだと信じて疑わなかった。しかし、それは違った。頂点は久遠院大空だ。それが挫折だとは思わない。新しい人生の目標が出来たからだ。


 久遠院大空の凄さを、もっと人々に知らしめたい。


 識月は大空に心酔し、そして絶望していた。大空の一手がどれほどまでに深く考え込まれた神技なのかが、人々に伝わっていないことに気付いたからだ。大空は神だが、神の囲碁は難解で人々が理解することはできない。優れた芸術品の価値を審美眼の無い人間が理解できないように、優れた棋士の価値を理解させるためにはもっと大衆の囲碁の練度を高めなければならない。


 ――ならば、私が教育しよう。神の囲碁を人々が理解できるまで。


 大空の強さがどれほどすごいのかが分かるようになるまで、多くの人間に囲碁を指導する。それが識月の生きがいだ。日華帝国に住む人々が大空の強さの一端でも理解できるようになれば、久遠院大空の棋譜は語り継がれ、やがて本当の神となるだろう。


 だが、人生を賭けるに値すると思っていた棋士が、今更囲碁ではなく婚約者にうつつを抜かすと言う。大空は純粋に囲碁に全ての時間と情熱を捧げていたから強いのだ。女に時間を使うようになればその神秘は失われる。神が消える。許せるはずがないだろう。


「久遠院大空は神だ。未完成のな。このまま彼が囲碁に全ての時間を注ぎ込めば、私たちでは到底想像できぬ境地に達するだろう。その邪魔をすることは誰にも許されん」

「さっきもおっしゃってましたよね。わたしも同じ言葉を返します。大空様はわたしと打ったほうが強くなる」


 識月が打った手に、星河が即座に返してくる。想像以上に良い手を打つ女だ。あえて難解な局面にして失敗を誘っているのに、きちんと正解を選んでくる。


「ああ、戯言をほざいていたな。称号持ちになる? 私たちがどれほどの高みにいるのか理解していないと見える」

「識月様たちが遥か高みにいることは理解しています。それでも、私は称号持ちになります。それに、識月様のおっしゃっていることはおかしいです」

「おかしい? なんだ、言ってみろ」


 トドメを刺さんと、識月は複数の狙いを込めた一手を置いた。対応を間違えれば黒が形勢を損じる。


「だって星空はふたりで紡ぐものです。だったら、神はふたり必要ですよね?」


 不遜。そのもう一人に自分がなるとでも言うのか。そう吐き捨てようと星河を見て、識月は言葉に詰まった。


 ――その瞳には、全てを呑み込むような静謐な星の河が流れていた。

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