第19話 六子局ふたたび

「あの、聞き間違いでしょうか? 大空様との婚約を破棄して欲しいと聞こえたのですが」

「あなたの耳にはブドウさんでも詰まっているのか? そうは言っていないだろう」

「あ、ですよね。聞き間違いですよね」

「婚約を破棄して欲しい、ではなく、破棄しろと言ったのだ」

「間違いはそこでしたか」


 星河にとっては予想外の提案だった。どうして識月が大空と星河の婚約を破棄したいのかが分からない……と考えたところで、星河はハッと気付いた。婚約した男女の仲を引き裂きたい理由など昔から決まっている。大空と識月が幼馴染であるというのは大空から聞いていた。もしかして……。


「識月様、大空様のことが好きなのですか? その、恋愛的な意味で」

「そんな訳ないだろう」

「ですよね……」


 違った。では、まさかとは思うが大穴で星河のほうが目的だろうか?


「もしかしてわたし……違いますよね! すみませんっ!」


 言いかけたところで、識月が無表情ながらに殺気を出したのを感じ取って星河は慌てて謝った。しかし、もはや理由が皆目検討つかない。困り果てた星河に、雷が助け舟を出した。


「おい識月、最初から説明してくれ。オレにも何が何だか分からねえ」

「やれやれ。自明なことだと思うのだがな」


 どうやら説明してくれる気になったらしい。識月が星河に問いかける。


「あなたは今年度の黒番の勝率を知っているか?」


 黒番は黒石を打つ人のことだ。囲碁は互先では先手が黒石を持つので、つまり黒番の勝率とは先攻の勝率を指す。囲碁はそのままだと先攻有利な遊戯であり、そのため、後攻に六目半の地を与えることで先攻の有利を打ち消す。この六目半をコミと呼ぶ。このコミによって現代の囲碁は先攻と後攻はほぼ互角の勝負になっている。


「えっと、おおよそ五割ですよね」

「そうだ。美しいと思わないか? 乱数の要素がなく、全ての情報が公開されており、そして先攻と後攻に勝率の差がない。ここまで完璧な遊戯は他に存在しない」

「そうですね。わたしも囲碁が好きです」

「その完璧な遊戯の頂点に立つ完璧な棋士が久遠院大空だ。去年度の大空の公式戦の勝率は八割。他の棋士を寄せつけない圧倒的な勝率だ」


 六人もの称号持ちがいる公式戦で勝率が八割というのがどれだけ途方もないことか、星河にも何となくは分かった。


「久遠院大空は囲碁の神だ。そして大空はこれからもっと強くなる。そのために必要なのは囲碁に集中する時間だ。私の言いたいことが分かるか? 弱い棋士を婚約者にするということは、神の時間を奪うことになるということだ」

「それは……」


 つまり、大空の時間を奪うのは無駄だから婚約を破棄しろということか。


 識月の言葉には一理あると思った。同時に、大空が可哀想だとも。

 同じ称号持ちからですら、これほどの期待、ここまでの重圧を受けているのか。同じ囲碁を打つ仲間なのに、どうしてあの人を孤独にしようとするのだろう。共に戦おうと言わないのだろう。


 これが、大空が受けている重圧か。これが、久遠院の名を背負うということか。だったら、星河もこれを背負わなければならない。将来久遠院を名乗る女は、こんなことでは引き下がらない。星河は識月を真っ直ぐに見返した。


「大空様は、わたしと打ったほうが強くなります。わたしも三年後には称号持ちになる女ですから。わたしの才能は他ならぬ大空様が信じたものです。だから、わたしも大空様の信じるわたしの才能を信じます」


 雷が口笛を吹いた。識月の肩をバシバシと叩く。


「言うねえ、お嬢ちゃん。おい識月、嬢ちゃんがここまで言ってるんだ。信じてやってもいいんじゃねえか?」

「私の言っていることが伝わらなかったようだな。神は女を抱かないというのに」


 抱かない? 抱きしめない、ということだろうか。久遠院の屋敷で、大空に抱きしめられた夜を思い出す。大空の体温を思い出しながら星河は頬を染めて言った。


「大空様ならこの間わたしを抱きましたよ」


 空気が凍った。一秒、二秒、きっかり三秒後、無表情のまま識月が叫びだす。


「キエエエエエエエエエエエッッッッ!」


 周りで打っていた人たちがぎょっとした表情でこちらを見た。雷が慌てて識月を揺さぶって正気を戻そうとするが、識月は壊れたように叫び続ける。


「畜生っ、識月がおかしくなったっ! 大空も意外と手が早いなあオイッ!」

「あの、わたし、何かおかしなこと言いましたか?」


 星河だけがどうして識月がこうなったのか分かっていない。結局、識月が落ち着くまでに数分かかった。何事も無かったかのように識月が静かに話し出す。


「失礼。取り乱した」

「いえ、お気になさらず……」

「どうやらあなたを言葉で説得するのは難しいようだ。そこで、囲碁で決めるのはどうだろう?」

「囲碁ですか?」


 識月が碁盤に黒石を六つ並べる。六子局。大空にも識月にも勝てなかった置き石の数だ。


「六子局で勝負をしよう。私が勝ったら婚約を破棄してもらう。私が負けたら婚約を破棄しないでいい。どちらの場合でも、あなたを指導することは保証する」

「もし、勝負を引き受けなかった場合はどうなるのでしょう」

「私があなたを指導することはしない。先に言っておくが、先ほど見たあなたの棋力では六子局では私には勝てない。勝負を受けるのならば今ここで限界を超えることだな」


 星河は躊躇った。勝負を受けて負ければ、大空との婚約を破棄。それは同時に、今の囲碁生活を失うことを意味する。勝負を受けなければ、婚約破棄はない。識月の指導は受けられないが、今の生活を続けることができる。


「ああ、そうだ、良いことを教えてやろう。これと全く同じ提案を、あなたの義姉にもしたよ。私のところに指導の依頼が来たからな」

「お義姉ちゃんにも……?」


 麗奈も、識月に指導依頼をしたのか。この時期に称号持ちに指導を頼むのは、星河を打倒するためだろう。本気だ。本気で麗奈は、星河に勝とうとしている。星河の中で大きな感情が渦巻いた。嬉しい。麗奈がこちらを見ているのが嬉しい。昔のように、あの頃のように、麗奈と打てるのがただただ嬉しい。


「勝負を受けます」


 心が決まった。星河が誇る義姉ならばきっと識月の勝負を受けたのだろう。だから、星河も逃げるわけにはいかない。今までの星河は、称号持ちに六子局で勝ったことがない。勝てる可能性は低いだろう。識月の言う通り、今この場で限界を超えなければならない。


「よろしい。では始めよう」


 対手は『深識遠慮』四条識月。日華帝国最強格の棋士が、星河に牙を剥いた。

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