第21話 人の理解者
囲碁は一手目から最終手まで、自分の打った手が全て盤面に残る遊戯だ。会心の一手も、穴に籠もりたくなるような悪手も、その全ての軌跡が盤面に並び、星空を描く。
(ああ、左下隅はハネツいで実利を持つべきだったな。先にハネられて窮屈になってしまった。あそこのコスミツケも失敗だったな。あの局面なら中央に出たほうが価値が高かった。ああ、あそこの石も遊んでる)
未熟な棋士にとっては囲碁の盤面は後悔の塊だ。あそこでああしておけば良かった、悪手を打って断点を作ってしまった、苦しい碁になってしまった。原因の一手もそれがもたらした結果も、全てが目に入ってくる。それでも、星河に浮かぶ感情は唯一つ。
楽しい。
ただ目の前の盤面に没頭するほどこの世に楽しいことはない。全身を焼き焦がすような強烈な幸福感を覚える。星河は識月との囲碁に夢中になっていた。惜しむらくは、自分の実力が足りていないことだろうか。もっと美しい盤面になるはずなのに、自分の想像力が足りてなくて足を引っ張っている。そういえば、とふと思い出した。初めて囲碁を打ったあの日、父の星賢はこう言っていた。
『これから上手くなっていけば、もっと綺麗な星空が見れるかもしれないよ』
ああ、上手くなりたいな、とそう思う。
自分と相手、二人が揃って初めて星空は完成するのだ。対手は強ければ強いほどいいし、自分も強ければ強いほどいい。相手を知っているほど、自分が相手に理解されているほど、より多くの選択肢を知るほど、より深く思考するほど、より美しい星空が紡がれていく。
だから、識月の話には少しだけ失望した。久遠院大空が囲碁の神であるならば、どうして孤独にしようとするのだろう。囲碁は二人で打つものなのだ。二人揃わなければ、決して究極の星空は現れない。
だから識月の言葉にこう応えた。
「だって星空はふたりで紡ぐものです。だったら、神はふたり必要ですよね?」
言ってから、大空の美しい星空を引き出すのは自分でありたいなと思った。あの孤独な人が生み出す神域の一手を受け取るのはわたしが良い。どんな囲碁を打っている時も、大空のことをどこかで考えている自分に笑ってしまう。おこがましいかもしれないけれど、誰もが感嘆するような星空を、星河と大空の二人で紡げたら良いとそう思う。
そのためには、まずは目の前の壁を乗り越えなければ。
識月が罠を張った一手に、星河は正着を返した。識月の表情は変わらないが、それでも星河のことを見直したらしい。
「シノギが上手いな。腐ったミカンさんのような序盤に比べて、中盤以降の進行は称賛に値する」
「ありがとうございます。大空様の婚約者として認めて頂けましたか?」
「ふん、言っただろう、勝てば認める。棋士ならば盤上の一手で認めさせることだ」
識月の手は緩まない。既に局面は終盤に差し掛かっていた。追い詰められてはいるが、まだ星河のほうが少し地に勝る。しかし、星河の今の棋力ではあっという間に残りの地も削り取られてしまうだろう。
限界を超えなくてはならない。今すぐに。
囲碁以外の余分な思考を全て捨てて、盤面に集中する。深く深く考える。未来の盤面を想像し、星河の形勢が悪いものは却下していく。星河の中に、たくさんの星空が浮かんでは消えた。無数の星空の中から、最も美しい盤面を選び出し、その一手を打つ。
識月が星河の想像通りの一手を打つ。既にヨセの段階に入っており、地合いの計算ではまだ五目は星河が勝っている。つまり、ヨセを間違わなければ星河の勝ちだ。ヨセは数少ない選択肢から最大価値のものを選び取っていくものだ。四目の価値の一手を放置して二目の価値の一手を打ってしまえばその分だけ損をする。慎重に冷静に打っていく。緊張で指先が震えた。
大丈夫。間違えていない。
星賢はヨセが得意だった。20目の差がある終盤をヨセだけでひっくり返したこともある。星河はそういった棋譜を何度も並べてきたし、出入り計算は得意なほうだ。
終始識月にやられっ放しだった盤面が、ヨセだけは互角の戦いを繰り広げていく。星河の顎から汗が一滴落ちた。やがて、
「あなたはもう間違えないだろうな」
識月は頭を下げた。
「ありません」
まだ打つ場所は沢山あるのに、星河はもう間違えないとそう判断したのだ。勝ったことよりも識月にそう判断されたほうが嬉しい。
「ありがとうございました!」
深い感謝と共に、星河も頭を下げた。
「約束通り、大空との婚約を認めよう。それと囲碁の指導もしよう。明日からこの碁会所に来るといい」
「はい!」
「……それと、私は明後日に久遠院大空と公式戦で対局する予定だ。その時に大空が弱くなっていたら私はあなたを一生許さない」
「大丈夫だと思いますよ」
星河と打っている時の楽しそうな大空の顔を思い出す。ああやって囲碁を楽しむ大空が弱くなっているはずがない。
「あと、大空様を神様みたいな扱いするのはどうかと思います。大空様はただの男の子ですよ。あまり幻想を押し付けないでください」
「幻想を押し付ける、か。それをあなたが言うとはな」
「?」
識月が何を言っているのか分からない。星河は小首を傾げた。
「言っただろう。同じ提案を、あなたの義姉にもしたと」
「ああ、そうですね。どちらが勝ったんですか?」
婚約破棄を賭けた六子局。麗奈ならば識月の指導のために勝負を受けたはずだ。
「受けなかった。あなたの義姉は負ける可能性を恐れて、私の指導を諦めたよ」
識月が何を言っているのか分からなかった。星河の義姉は、目の前の勝負から逃げるような女ではない。
「……嘘です。そんなはずありません」
「あなたもまた、他人に幻想を押し付けている一人という訳だな」
識月のその言葉が、妙に耳に残った。
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