第22話 大空の進化
久遠院大空は、こんな表情はしない。もっと獣のように勝ちに飢えた表情をする男だった。これが新開星河によるものだとしたら、良い影響だとは思えない。
「あなたにはいささか失望したな。女を作って弱くなるような男だとは思わなかった」
「弱くなったか、試してみるか?」
不敵に笑う大空に期待を感じながら識月は大空に向き合った。
「面白い。久遠院大空が神の座から堕ちたとするならば、私自らの手で引導を渡してやろう」
決着するのに一時間もかからなかった。
識月の身体から大量の汗が吹き出る。
「これは……」
「どうだ? 俺は弱いか?」
識月は目を見開き、大空を凝視した。強すぎる。私は今、何を相手にした? 今までは理解の範疇にいた大空の強さが、今はもう理解できない。天上の高みから見下されているかのような碁だった。
「素晴らしい」
大空を褒め称える。たった今、日華帝国の囲碁界は進化を遂げた。識月の表情は動いていないが、内心は歓喜で震えていた。七年前のことを思い出す。あの日も、こうやって識月の囲碁観は根底から覆されたのだ。
「大空、初めて会った時のことを覚えているか? あの時も私はこうやって大差で負けた。一生叶わないのだと思い知らされた」
「嘘をつけ。今日も俺に勝つ気で来たくせに」
大空はくくっと笑い、それで、と続ける。
「星河はどうだった? あれと打って何を思ったのか知りたい」
「何も。大した才能の無い女だな。強いて言うならば」
そう、強いて言うならば、あの目。全てを呑み込むような静謐な星の河。あの輝きが気になった。もはや大空や識月が失った何かをあの瞳は抱えている。そう、あれは――。
「飢え、か。一手も一局もその全てを糧にしようとするような、噛みしめるような碁を打つ女だな。だが、それだけだ」
「そのそれだけが良いのさ」
大空の優しい笑みに識月の気が抜ける。つくづく理解し難い男だ。囲碁も、女の趣味も分からない。だが、星河が大空の強さを一段階押し上げたのだけは事実のようだった。ならば認めるしかあるまい。識月は真顔で言い放つ。
「結婚式には私も呼べ」
「……気が早いぞ」
「結婚祝いは何が良いだろうか? やはり赤ん坊が喜ぶような玩具か? はっ、そうだ、あなたの子供が囲碁を打てる年頃になった時のために、今のうちに子供用の囲碁教育書も書き始めておこう」
「だから気が早いと言っている!」
「だが、もう抱いているのだろう?」
「星河ぁっ! 何を言ったっ!」
大空の叫び声が天原閣に響いた。
*
新開家の屋敷に再び称号持ちが訪れていた。新開麗奈は戸惑いながらも客人に聞き返す。
「その、私を指導して頂けるという話は本当ですか?」
「クカカッ! いいぜ。金さえ出してくれりゃあオレは誰だって指導する。大空に礼を言わなくちゃなあ、良い儲け話を教えてくれてありがとうってよ」
称号持ち、『迅雷烈空』
「識月の指導を受けられなかったんだろう? 俺の提案はアンタにとっても良い話のはずだがな」
そう、麗奈は識月の指導を受けることが出来なかった。識月に断られた訳では無い。婚約破棄を賭けての六子局を受けることを麗奈が拒否したのだ。勝算は充分にあった。本来、麗奈の棋力は大空や識月が相手でも四子局で戦えるぐらいにはある。だが、大空相手には視線に怯えて充分な実力を発揮できずに負け、識月とは勝負の土台に乗る勇気すら無かった。
識月の指導を受けられなかった今、雷の提案は渡りに船ではある。しかし、なぜ雷が麗奈に力を貸すのか、本意が気になる。
「どうして雷様は私を助けてくださるのですか?」
「クカカッ! 決まってるだろ、金だよ金。金持ちが困ってる時ってのは金払いが良くなるからなあ!」
雷が守銭奴であることは有名な話である。確かに納得のいく理由だった。むしろ、と雷は続けた。
「オレからしたらアンタがあのお嬢ちゃんにこだわっているほうが不思議だね。対局を見たが、ギリギリ院生になれるかどうかってぐらいの棋力だったぜ。国家棋士に近い実力のアンタからしたら遥か格下だろう。二週間じゃあ実力差を埋める時間もない。識月に指導を依頼するほどのこととは思えねえが?」
麗奈からしたら雷の疑問のほうが不思議だった。なるほど、傍から見たらそう見えるのか。星河の瞳、そして笑いを思い出す。麗奈はぶるりと震えた。恐怖……いや、これは武者震いだということにしておこう。
「私は、星河を格下だと思ったことはありません」
「ふうん? まあ、オレは金が稼げたら何でも良いがね」
そこだ。それについて、雷は一つ勘違いをしている。
「今回のご指導で出せるお金は私個人のものだけです」
「あ? なんでだよ? あんたの母親、新開家に出してもらえばいいじゃねえか」
「……お母様は出しませんよ。お母様なりの矜持がありますから。星河を相手にすると負けると思って慌てて称号持ちに指導を依頼する、お母様にとってはね、そんなことは許されないんです」
れい子にとって麗奈は星河よりも才能のある娘でなくてはいけないのだ。前妻の娘が、れい子の娘よりも優れていることは許せない、そういう考えの持ち主なのだ。だからこそ、れい子がみっともないと思うような真似はできない。
そんな考えを雷は鼻で笑う。
「はっ、くだらねえな。勝ちてえなら全力を尽くすのが棋士だ。矜持を守る? 勝ってから言え」
雷のあけすけな態度は麗奈は嫌いではない。しかし、現実問題としてれい子が金を出してくれるとは思えない。雷の指導を諦めるしかないのだろうか。気持ちが沈んで俯く麗奈の髪を雷が触る。
「よく見りゃあ上玉だな」
「な、なにを……」
雷は何かを企むような笑みを浮かべた。
「よーし分かった。アンタの指導をしてやるよ。金も払わなくて良い」
「本当ですか!?」
「ああ、代わりに俺が紹介する店で働いてくれ」
「それは……」
ごくりと唾を飲み込む。麗奈は働いたことがない。果たして役に立てるだろうか?
「心配しなくていい、アンタのような美人ならすぐに活躍できる店さ」
「それなら……」
麗奈はとにかく星河に勝ちたかった。そうしたい理由があった。そのためだったらどんなことだってしよう。麗奈は頭を下げた。
「働かせてください。雷様の指導をお受けしたいです」
「よし、交渉成立だな。心配するな、必ずアンタを勝たせてやる」
クカカッ、と雷は笑った。
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