第29話 決戦前日

 泣いても笑っても明日で全てが決まる。星河はいつも通りに碁会所で打っていたが、今日だけは明日に備えて早く帰ることにした。


「頑張ってね、星河ちゃん! 対局する前はお世話になった人を思い浮かべるんだよ!」

「うん、ありがとう優花ちゃん。優花ちゃんのことも思い出すね」

「星河ちゃん!」「優花ちゃん!」


 抱きついてきた優花を優しく包容する。


「序盤もだいぶ強くなりましたからね。今の星河お姉さんなら麗奈さんにも勝てると思いますよ」

「ありがとう善仁くん!」


 優花と一緒に善仁のことも抱きしめる。善仁は耳まで赤くして照れていた。最後に星河は識月に向き合う。


「持ち時間について私が言ったことは覚えているか?」

「はい、序盤にたっぷり使え、ですよね」

「そうだ。あなたは布石が弱い反面、後半の読みは鋭く早い。序盤に時間を使ってなるべく離されないようにしろ」

「分かりました!」

「明日の対局は私も同席する。私が指導したのだ、あまり無様を晒すようなら分かっているな?」

「はい!」


 識月には何度も様々なことを指導してもらい、本当にお世話になった。その気持ちも、明日の対局に持っていくと誓う。


「それと、これは言うべきか迷っていたのだが」

「はい、なんでしょう」

「あなたには才能がある。たとえあなたが負けても、あなたが囲碁を打てる環境を私が用意すると約束しよう」


 識月の言葉が心に沁みる。短い付き合いだが、識月はお世辞を言うような男ではないと分かっている。本当に星河の才能を認めてくれているのだろう。識月のような凄まじい技量の棋士に認められたことが嬉しい。星河は深く深く頭を下げた。


「ありがとうございます!」

「あと本当に言うべきか迷っていたのだが、あなたが麗奈に勝つ確率は一割も無いだろうな」

「言うのを迷っていたのはそっちですか!? 今言わなくても良かったと思いますよ!」




 天原閣の碁会所から大空の屋敷までは徒歩で十分もかからない。みんなに見送られ、胸に温かいものを感じながら帰路を歩く。人通りの少ない路地で、星河は足を止めた。細く鋭い目つきをした女性が待ち構えていたからだ。


「お久しぶりね、星河さん」


 れい子が思いがけず優しい口調で笑いかけてくる。


「……お久しぶりです」


 声が震える。前に星河を守ってくれた大空は今はいないのだ。二人きりは怖い。それでも、星河は逃げずにれい子と向き合う。


「明日になったらまた一緒に暮らせると思うと、嬉しくて迎えに来てしまったわ」

「それは、明日にならないと分かりません」


 否が応でも、明日負けたら久遠院家を出なくてはならないのだと意識させられる。また、れい子と暮らさなければならないのだ。れい子がほんの少しだけ杖を動かした。それだけで星河の身体はびくりと震える。震えてしまった。星河の身体に染み付いた恐怖はまだ拭えていないのだと気付いてしまった。


「あんなに躾けてあげたのに、まさかこうやって麗奈の婚約の邪魔をするとは思っても見なかったわ」

「わたしは……邪魔をしているわけでは……」

「邪魔をしているでしょうっ!」


 急にれい子が大声を上げて、また星河の身体が震える。れい子が杖で地面を何度も叩く。カッ、カッ、カッ、カッ。


「いつもいつも邪魔をして! ああ、そうだったわ、あなたの母親もそうだった! 私が先に星賢さんを愛していたのに、あの女が勝手に奪って! 次は麗奈さんから大空様を奪うつもりなのでしょう! そうはさせないわよこの泥棒猫っ!」

「そんなの……わたしはそんなつもりじゃ……」

「うるさいのよそうやって言い訳ばかりして! ああそうか私が悪いのねもっとちゃんと躾けるべきだったのねっ!」


 れい子が杖で何度も何度も地面を叩く。カッ! カッ! カッ! カッ!


「あなたが帰ってきたらちゃんと躾けてあげるわ! 今までよりも厳しくするから覚悟しなさい!」


 れい子の叫びを聞いて、新開家での日々を思い出してしまう。料理がまずいと殴られて、掃除がなっていないと殴られて、顔が気に入らないと殴られた。どうして忘れていられたのだろう。違う、そうではない。目を逸らしていたのだ。麗奈に負けて新開家に戻ったらもうきっと自分は耐えられない。だから見ないようにしていた。近い将来にやってくるはずの不幸を見たくなくて目を閉じた。


 もう、目を閉じれない。想像してしまったから。


 杖の動きが激しくなる。カッカッカッカッカッカカカカカカカカッ!


「厳しく! 厳しく! 厳しくするわ! あなたの持ち物は全部燃やしてあげる! 一生私に逆らえないように一生麗奈の邪魔をしないように新開家に閉じ込めてあげる! もうあの屋敷を出られるとは思わないことね!」

「ふっ……ぐっ……ううっ……」


 怖い。負けるのが恐ろしい。叩かれるのは嫌だ。離れに閉じ込められるのは嫌だ。大切なものを燃やされるのは嫌だ。心が折れて泣く星河を見てれい子は満足したのか、


「明日、あなたがボロボロに負けるのを楽しみにしていますからね!」


 と嗤いながら去っていった。れい子の声がこびりついて離れない。どうしよう、明日負けたら……。恐怖だけが星河の思考を埋め尽くしていく。いやだ、こわい、だれかたすけて。星河は震えてしゃがみこんだ。

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