第30話 思考停止

 星河と麗奈の勝負は、空牙が指定した条件で行われる。場所は天原閣の十二階、辰の間。国家棋士が私用で使うことのできる個室だ。開始は十三時、持ち時間はそれぞれ三時間。夜には決着がつく。


 対局者は新開星河、新開麗奈。立会人は久遠院空牙、新開れい子。それに、久遠院大空、四条識月、真田雷が同席することになった。午前中に対局のあった大空が辰の間に来た時には、全員が揃っていた。


「いやあ、豪華な面子になったねえ」


 と空牙が笑う。称号持ち三人が立ち会う対局など公式戦でも中々無い。ましてや片方は院生でも無い対局、こんなことは前代未聞である。対局まであと十分ほどあるが、対局者は既に盤面を挟んで座っていた。星河の顔が強張っているのが気になる。緊張しているのだろうか?


 対局者から少し離れた場所に、立会人が座る場所が用意されている。部屋の入り口から見て右側にれい子、雷。左側に空牙、識月が座っていた。空牙以外はおそらく肩入れしている対局者によって分かれているのだろう。大空は識月の隣に座った。


 すると識月が何か団扇のようなものを手渡してくる。


「なんだこれは?」

「応援団扇だ。必要だろう。私の分は既にあるからあなたに差し上げよう」


 団扇をひっくり返すと「星河ちゃん☆頑張れ」と書いてあった。


「……これ、お前が用意したのか?」

「いや、指導している生徒が用意したものだ。捨てるわけにもいかないので一緒に使おう」


 識月が用意していたものなら問答無用で破り捨てているところだが、星河を応援している見知らぬ誰かが用意したと思うと無下には出来ない。仕方なく識月と一緒に団扇を構えた。そんな大空を見てれい子は眉をひそめ、雷は声を出さずに大笑いしていた。


 こんな時、いつもなら星河がこちらを見て笑ってくれそうだが、盤面を見たまま微動だにしない。やはり様子がおかしい。青ざめているようにも見える。心配になって声をかけようとしたところで、空牙が対局の開始を宣言してしまった。


「十三時になったね。新開星河、新開麗奈、この勝負で勝ったほうが久遠院大空の花嫁だ。久遠院家の当主であるこの僕、久遠院空牙が立ち合おう。それでは始めてくれたまえ」



   *



 昨日れい子に会ってから、ずっとずっと負けた時のことを考えている。どうしよう、どうしよう、どうしよう。何もできずに麗奈に負けて、久遠院家を惨めに去って、新開家に戻って元の生活に戻る。そんなの嫌だ、嫌だ、嫌だ。思考が堂々巡りしていて上手く物事が考えられない。視界が歪む。呼吸ができない。身体に力が入らない。


「それでは始めてくれたまえ」


 ソレデハハジメテクレタマエ。誰かの発した言葉も頭に入ってこない。それでははじめてくれたまえ。それでは始めてくれたまえ。えっ、始まる? なにが? 戸惑う星河に目の前に座った女性が話しかけてくる。


「星河、ニギリなさい」


 麗奈だ。目の前に麗奈がいて、盤面があって、ニギリをしなくてはいけない。震える手で無意識に黒石を握ろうとして、汗で何度か碁石が滑った。それでも何度も繰り返してきた動作、どうにか握ることができた。何も考えずに黒石を一つ、つまり奇数を指定する。白石は十個、偶数。黒番を取られてしまった。


 麗奈が一手目を打つ。3の十六、左下隅小目。えっ、えっ、えっ? もう始まってるの? いつの間に? だめ、だめだよ、だってわたしなんの覚悟もしていない。混乱したまま、手なりで打ってしまう。17の四、右上隅小目。麗奈はさらに左上隅小目、星河は右下隅星。始まった。始まってしまった。始まったからには打たないと。


 ああ、なんでわたし、ここにいるんだっけ。何もわからないまま星河は打ち続ける。全身がひどく痛む。れい子に殴られた時の傷だ。違う、傷なんてとっくに治っているはずなのにどうして。料理に失敗した時に殴られた左腕が、掃除中に碁盤に触っただけで殴られた右足が、特に理由もなく殴られた右頬が、どんどんどんどん痛くなってくる。


 調子に乗っていたから罰が当たったのかな、と星河は思った。本当は新開家にいるのが当たり前だったのに、どうしてだか大空に受け入れられるのが当たり前のように思ってしまって、身の丈に合わない幸せを感じてしまった。だから、その罪の代価をこれから払わなくてはならないのかもしれない。


 囲碁のことが考えられない。それなのに盤面はどんどん進行していく。ぼんやりと、右上隅の攻防がひどいなと思った。不本意な進行で一子取られたうえに形が悪く断点まで残してしまった。すでに形勢ははっきりと悪い。こんなひどい星空を自分が作ったのだと思うと泣きたくなってくる。


 次にどこに打ったら良いのかも分からなくなってしまった。手が止まる。思考が止まる。もういいかな、と思った。こうやって何も考えずにいられたら、もういい。時間切れで負けて、新開家に戻って、そこでも何も考えずにこうやって生きていこう。そう思って。


「星河、あなたのその着物、私があげたものよね?」


 麗奈に話しかけられて、星河の思考がわずかにまた動き出した。

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