第31話 久遠院の家紋

 星河の様子がおかしいことに麗奈は気付いていた。星河はこんなにぼんやりとした表情で囲碁を打たない。いつも楽しそうに打つ、そんな少女だった。だからと言って、立ち直るような言葉をあげようとも思わない。こんな真剣勝負の場にそんな精神状態で来た星河が悪いのだ。弱っている時に打つ碁もまた実力だ。


 だから、言葉をかけてはいけない。麗奈はそう自分に言い聞かせる。


 そう、言い聞かせなければならなかった。だって思ってしまったのだ。星河の碁はこんなものではない。私を怯えさせた少女は、こんなものではないと。一度思ってしまえばどんどん気持ちが膨れ上がってくる。駄目だ、仮に星河を立ち直らせて、それで負けて、そんなことになったら惨めな思いをするのは自分なのだ。


 盤面ははっきりと麗奈の優勢になった。ここから逆転するのは難しいだろう。星河の手が止まる。そうだ、それでいい。そうやって諦めて、そのまま時間切れになればいい。駄目だ、違う、私が恐怖した星河は、決して囲碁を打つことを諦めない。


「星河、あなたのその着物、私があげたものよね?」


 無意識に言葉が出てしまった。そう、星河が着ている着物は、花嫁選定試験の日に麗奈があげた物だった。対戦相手からの贈り物を今日という日に着てくるとは。本当に何を考えているのか分からない娘だ。ぼんやりとした表情で、星河は自分が着ているものを見た。うっすらと、星河の瞳に輝きが戻った。



   *



 自分が着ているものに、今この瞬間まで気を払っていなかった。本当だ、と思う。お義姉ちゃんに貰った着物をわたしは着ていたのか。そういえば、知世に前々からお願いしていたのだった。麗奈に貰った大切な宝物だから、大事な日に着ていきたいと。


 下を見たことで、今度は爪が目に入った。薄紅色の爪は、優花に整えて貰ったものだ。あまり外に出ない星河はお洒落のことを知らず、知世や優花にたびたび教えてもらっている。院生の間で流行っているとかで、爪の塗り方も優花に教えてもらったのだ。


 そう、優花。優花が何か言っていた気がする。大切なことだ。必死で思い出す。


『頑張ってね、星河ちゃん! 対局する前はお世話になった人を思い浮かべるんだよ!』


 そうだ。一緒に考えた、緊張しないおまじない。お世話になった人を、順番に思い出していく。


 まずは、お腹が空いていないなと思った。そうだ、朝ご飯も昼ご飯も泰子が用意してくれたのだ。星河の好きな鮎料理だった。せっかく好物を用意してくれたのに、ぼんやりとしていて味を覚えていないのが申し訳ない。でも、おかげさまで身体は動く。ちゃんとご飯を食べたのだから、体調は万全だ。


 そういえば、着ているものもちゃんと整っている。知世が着付けてくれたのだ。


『勝負の日は服装に気合を入れたほうがいいんです。きちんとした服は自分を最高に引き立ててくれますからね』


 知世はそう言って笑っていた。可愛らしい着物を着ている自分を見て、星河の身体にわずかに高揚が宿る。


 緊張が緩和されたことで、視界がひらけていく。碁盤以外のものが目に入るようになる。まずは、目の前の麗奈。ああ、そうだ、今わたしはお義姉ちゃんと打っているのか。六年ぶりの義姉との囲碁。あれだけ渇望していたのに、こんな情けない囲碁を打つなんて、なんて勿体ないことをしたのだろう。でも、これからの囲碁だ。さらに星河の身体に活力が戻る。


 立会人の姿も目に入るようになった。そういえば、識月も同席すると言っていた。識月のほうを向くと「星河ちゃん☆頑張れ」という団扇を持っているのが見えた。思わず笑ってしまう。絶対に優花が用意したものだ。あんなものを持っているのに気付かないほど、今の自分の視野は狭かったのか。それから識月の顔を見て、星河は凍りついた。


『私が指導したのだ、あまり無様を晒すようなら分かっているな?』


 凄まじい怒気を孕んでいる。こんなに怒っている識月を見たのは初めてだ。こ、殺される……と星河は思った。せっかくあんなに序盤を指導してくれたのに、結果的に劣勢になってしまった。冷や汗がだらだら出てくる。識月の怒りに当てられたことで、れい子への恐怖なんて吹き飛んでしまった。慌てて盤面に集中する。


 すると、劣勢ではあるが、そこまで悪くはないではないかと思った。識月に習った定石選択は間違ってないし、優花に教わった布石のおかげで序盤の形勢は悪くない。右上隅の大石こそ押されているが、星河の実力からすると麗奈を相手にここまで食い下がっているだけで大健闘だろう。教えてもらったことは、ちゃんと星河の中で生きている。大丈夫だ、右手に持った扇子を握りしめる。


 そう、扇子。星河の大切な人に貰ったもの。


 最後に、大空を見た。不敵に笑っている。星河の実力はそんなものではないだろうと信頼した瞳でこちらを見ている。星河は短く頷いた。はい、大丈夫です。


「すみません、残り時間を教えて頂けますか?」

「二時間半だね」


 空牙の返事を聞いて、良かったと思った。ほとんど考えずに打っていたおかげで、時間はあまり使っていない。残り時間を聞いた瞬間、識月の怒気が強まったのは気にしないことにする。結果的に序盤に時間を使えという指導を無視してしまった……。盤面を見る。打ちたい手が星河の中で次々と溢れてくる。楽しい。そうだ、これが囲碁だ。優勢も劣勢も星河にとっては同じご馳走にすぎない。どう打とうか、ただそれだけのために頭が回転していく。


 星河が大空に与えられた扇子を広げた。麗奈が息を呑み、れい子が顔をしかめ、空牙が「ほう」と笑う。何故なら扇子に描かれた絵は、三つの葉。すなわち――久遠院家の家紋!


 れい子に怯える弱い新開星河はもういない。ここから先は、皆に助けられて強くなった久遠院星河が打つ。

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