第32話 それがこの一局に繋がったのなら
星河の身体に生気が戻ったのを見て、余計な一言を言ったと麗奈は思った。しかし、この星河と戦わなければならなかったとも思う。相反する二つの思いに葛藤しながら、麗奈はさらに星河を追い詰めるべく厳しい一手を打つ。
この局面、はっきりと黒を持つ麗奈が良い。今のうちに差を広げるべく中央を競り合う。さらには白の断点を見据えて左上隅の星にツケる。麗奈とて今まで遊んでいた訳ではない。星河が打っていなかった六年間もずっと打ち続けていた。雷の指導を受けてさらに強くなった。
(私があなたの遥か高みにいるのだと証明してみせる!)
星河を睨みつけると、星河は笑っていた。その口元は緩んでいる。
カアッと顔が熱くなったのを感じた。いつまでも私を下に見て、そうして笑っていられるのも今の内だ。局面はさらに進行、左辺の黒地が確定して、さらに右上隅も黒が取る。まだはっきりと黒が、黒が……本当にいいのだろうか?
いつの間にか上辺の白模様が大きくなっている。ほんの少しだけ、だが確実に白が巻き返している。いつかと同じく、星河の読みが自分を上回っている。星河に絶対に敵わないと思ったのは、いつのことだっただろうか。
星河が囲碁を禁じられたあとも、麗奈は中々星河に話しかけることが出来ずにいた。
自分よりも才能のある星河が囲碁を打てなくなったことで、麗奈は確かに安堵した。そういう自分が後ろめたくて恥ずかしくて、麗奈はまともに星河の顔を見ることもできなかった。
星河が十歳の冬の日のこと。星河がれい子によって一晩も倉庫に閉じ込められていたことを知った麗奈は、倉庫へと走った。星河が心配で心配で仕方がなかった。やはり星河は自分の大切な妹なのだ。一人泣いているかもしれない星河を思うと胸が痛んだ。息を荒げながら倉庫の鍵を開けて星河を呼ぶ。
――そこには、流血して寒さに凍えながらも棋譜を並べる星河の姿があった。
異様な光景だった。倉庫にあった碁盤を使って星河は棋譜を並べている。唇は紫、顔は青ざめ、今にも凍え死にそうな顔をして笑っている。星河は碁盤に集中していて、麗奈には気付いていないようだった。一分、二分と経過していき、十分以上の時間が経過しても星河はずっと棋譜を並べていた。血を流し、自分が寒さで死にそうな状況で、ただ囲碁だけに集中することのできる棋士がどれだけいるだろう。麗奈は筆舌に尽くしがたい恐怖に襲われた。自分はこんな風に囲碁に向き合うのは無理だろうと思った。星河が再び囲碁を始めれば絶対に敵わないだろう。
「お義姉ちゃん?」
星河がこちらを見て笑った。その口元は緩んでいる。
落ち着け、まだ上辺の白模様は地として確定したわけじゃない。無理をすれば左上隅の切りから食い破れる。大丈夫だ、まだ黒のほうが良い。麗奈の思い通りに盤面は進行し……さらに形勢は白に傾いた。星河のほうが上手だ。左上隅の黒地が減ったうえに、思ったよりも上辺の白地が削れていない。どうして、こんな。
星河が笑う。いつもそうだった。麗奈よりも星河の読みが上回っている時、星河はいつもこうやって馬鹿にするように笑っていた。麗奈にはそれが耐えられない。ついに盤面は互角になった。星河がさらに笑う。その口元は緩んでいる。
頭の中が真っ白になった。
「また笑って! いつもいつも笑って! ば、馬鹿にしているのでしょう。こ、こんなことも分からない私を、なんの才能もない私を!」
ついに麗奈は吐き出してしまった。もう我慢ができなかった。星河が笑うたびに、自分が惨めな存在であると思ってしまう。どれだけ努力をしても、この義妹には敵わないと思ってしまう。
麗奈の言葉を聞いて星河は呆けたような表情を見せる。想像もしていなかった言葉を聞いたような、そんな顔。星河はゆっくりと首を横に振った。
「馬鹿にしたことなんて無い。お義姉ちゃんは凄いなっていつも思ってる。お義姉ちゃんと打つのが楽しいから笑ってるだけだよ」
「……え?」
嘘だ。星河はいつも笑っていた。麗奈が詰め碁を解けなかった時。死活の読みが外れた時。そうだ、大空を相手にした時の六子局、あの時だって大空に打ち負かされている麗奈のことを笑っていたではないか。怒りを胸にしながら麗奈は次の一手を打つ。
「今更そんな嘘を……!」
「嘘じゃないよ。お義姉ちゃんのこと大好きだもん」
星河が右辺に打ち込む。重要な箇所に先着された。歯噛みしながら麗奈は右下隅から攻める。私のことが大好き? 私は、私だって、星河のことがずっと……。
「嫌いよ! あなたのことなんて大嫌い! 私より才能があって! ずっとずっと私のことを笑って!」
「わたしとお義姉ちゃんが最初に打った囲碁を覚えてる?」
星河が静かに問いかける。優しい声だった。最初に打った囲碁。覚えている。星賢が見守る中、二人で九路盤で打った。
「わたしのことが嫌いなんだったら、どうして最初にあんな優しい囲碁を打ったの?」
優しい囲碁。そうだったろうか。ぼんやりと思い出す。死活も分からない星河の石を殺さずに、ちゃんと勝負になるように気を遣った。
「お義姉ちゃんがあんなに優しい囲碁を打つから、囲碁は楽しいんだって知っちゃったじゃない」
星河の声が震える。泣きそうな声だった。星河のことが嫌いならば、星河の石を殺していじめることだって出来た。そうしなかったのは何故だったろうか。そう、あの時から星河は私によく懐いていた。そんな星河が可愛くて、自分が好きな囲碁のことも知ってもらいたいと思ったのだ。
最初の囲碁は麗奈が勝って、それでも星河は笑っていた。その次に打った時も、その次も、その次も、ずっと麗奈の圧勝だったのに星河はずっと笑っていた。星河の笑いはその時からずっと変わっていない。ああ、そうか。今になって気付くとは。
「そうか。そうだったのね」
変わったのは私のほうだ。星河よりも読みが劣っている自分が恥ずかしくて、星河が笑うたびに自分が嘲笑われているような気がした。星河はずっと囲碁を楽しんでいただけなのに。
「ねえ星河、私はずっとあなたのことが怖かったわ。私よりもずっと優れた才能を持つあなたに怯えてた。あなたが笑うたびに、自分のことを嘲笑われているのだと思ってた。私が勝手にそう思っていただけなのにね」
星河は黙って麗奈の話を聞いている。
「怖くて、あなたから目を逸らして、口を聞くこともできなかった。今まで本当にごめんなさい」
深く頭を下げる。星河はまだ黙っている。簡単に許してくれるはずもないか。そう思って星河のほうを見ると、星河の視線は右辺のあたりをさまよっていた。これからの戦いの焦点になるところだ。……もしかして囲碁に夢中で聞いていないだけでは?
「星河? 聞いてる?」
「えっ? あ、うん、もちろん、聞いてるよお?」
聞いていない時の反応だった。相変わらず嘘が下手だ。星河は慌てたように両手をぱたぱたと振る。そして笑った。
「それがこの一局に繋がったのなら、全部許します」
思わず吹いてしまう。結局、どこまで行っても囲碁なのだ。それで許されるのなら、せめて私の全身全霊を込めて相手をしよう。星河が右辺の白地を広げるための一手を打った。麗奈も負けじと右上隅の黒地を確定するためにハネツギで先手を取る。
星河が楽しそうに笑った。
「お義姉ちゃん! 打とう!」
「かかってきなさい。姉に勝てる妹など存在しないことを教えてあげましょう」
いつかの始まりの碁のように、姉妹は再び、囲碁を通じて語り合う。
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