第33話 前に進もうとする意志

『あれには才能がないな』


 いつか大空は麗奈のことをそう評した。


「取り消さねばならないな」


 あの時の六子局は、格上に萎縮したような手を打つような、そんな碁だった。常に格上を食らうことでしか上に登っていけない国家棋士には到底向いていない、そう思った。だが、どうやら大空の判断は誤っていたらしい。麗奈はおそらく星河の視線に怯えて普段通りの実力が出せなかったのだろう。


 今や麗奈と星河の局面は五分だ。複雑に入り乱れた黒石と白石の争い、どちらかが一歩間違えれば形勢が大きく傾く中、最善の一手を互いに打ち続ける。それにしても、だ。


「楽しそうに打つじゃないか」


 星河が笑い、麗奈もまた口元が薄く微笑んでいる。こうも互いしか見えていないような姿を見せられると、妬けてしまう。逢瀬のような二人の碁は、すでに120手、終わりに向けて着々と進んでいく。


 星河が下辺、麗奈から見れば上辺に先に手を付けた。ここに地を作って左辺を制すれば勝てるとの判断。最終局面に向けて姉妹の熱量が上がっていく。



   *



(くっ、強い……!)


 内心の焦燥を麗奈は無表情の仮面で押し隠す。おそらくこのまま行けば星河の白が二目は勝る。しかし複雑な盤面だ、紛れを起こす余地は充分にある。戦いを求めて麗奈はアテるが、星河はそれを若干緩く見える手で受けた。それが麗奈には恐ろしい、この手で充分という形勢判断。星河にはもはや最終盤面まで見えているのではないか?


 ぐにゃりと視界が歪む。再び劣等感が麗奈の心を覆い尽くそうとしてくる。麗奈の心の中には、常にマグマのようなものが煮えたぎっている。それは嫉妬や劣等感、怒りや恐怖で出来ていて、常にそのマグマが麗奈を飲み込もうとしてくる。焦りながら中央に手を入れようとしたところで、「クカカッ」と雷が笑う声が聞こえた。




 麗奈の告白を黙って聞いていた雷は、話が終わった瞬間に一刀両断した。


「くだらねえ話だな」

「くだらない、ですか」


 雷は称号持ちだ。才能のある人間には、麗奈の悩みは分からないのだろう。分かってもらえるとは思っていなかったので、失望したりはしない。ただ少しだけ残念に思った。それだけだ。


 だが、雷の話はそれで終わりでは無いようだった。雷は自分のことを語り始める。


「俺は今年で二十五歳になる。国家棋士になったのは二十二歳の時だ。ずっと院生として燻っていた。大空や識月が十歳の頃には国家棋士になっていたことを考えるとだいぶ遅咲きだあな」

「……そうなのですか」


 知らなかった。称号持ちになるような棋士は、子供の頃から天才なのだと思っていた。


「ついでに言うと、公式戦で大空に勝ったことは一度も無い。ただの一度もな。考えてもみろよ、称号持ちが六人もいるのに大空に与えられた称号は『日華無双』だぜ? この日華に並ぶものなし、他の五人の称号持ちは大空よりは下だと思われている訳だ」

「それは……」


 辛くならないのだろうか? 称号持ちとして大空と比較されて、誰からも劣ると思われていて。囲碁を止めたいと、思ったことはないのだろうか?


「だが、俺は大空に劣ると思ったことはない。最後に一回勝てばいいのよ」


 クカカッ、と雷は笑う。


「どれだけ連敗してようとも、どれだけ劣っていると思われようとも、一回勝てばそれでチャラだ。どんな過程があろうとも、最後の瞬間に勝ったほうが偉いんだ」

「でも、それでも一生勝てなかったら?」

「一生思い込んでればいい。次の一局では勝つ、次の一手では勝つ。墓場にぶち込まれる最後の瞬間までそう思い込めたのなら棋士は最強だ。麗奈、俺の言っていることが分かるか? お前の劣等感は、ただ前に進もうとする意志だけで拭うことができるのさ」


 胸が熱くなるのを感じた。劣等感や恐怖の裏に、確かに潜んでいる麗奈の感情。それが雷によって引きずり出されたのが分かる。涙と一緒に本当の願いが溢れる。


「勝ちたい。私は、星河に勝ちたいです」

「クカカッ! そうだ、それがアンタだ。ぶちかましてやれ!」




 勝つ! ただ前に進もうとする意志が、麗奈の心を燃やす。醜い感情でできたマグマにこれ以上飲み込まれないように抗う。雷に教え込まれた戦い方が麗奈の力を限界以上に引き出し、この局面において最善の一手を生み出した。勝利を確定する渾身の一手を叩き込む。空牙が「ほう……」と感心するような声を出した。国家棋士ですら読み切れていない境地に、ただの一手のみだが確かに麗奈は達した。


 どうだ! これが私だ! 新開麗奈の執念だ!


 そうして星河を睨みつけた。星河はその最強の一手を見て、笑った。その口元は緩んでいる。そして。


 ――その瞳には、全てを呑み込むような静謐な星の河が流れていた。

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