第13話 久遠院空牙

 なんて幸せな日々なんだろうと思う。棋譜を並べ、本を読み、実践する。起きている時間の全てを囲碁に費やしても誰にも咎められない。あまりにも都合が良すぎて、夢なのではないのかとすら思う。


 寝て起きたら夢が覚めて、また新開家の自室で起きるのではないか? そう考えると眠るのが少し怖いぐらいだ。


 今日も起きて、久遠院家にいることにホッとする。机の引き出しから棋譜を取り出し、愛おしく想いながらそっと撫でた。その時、部屋の外から大空に声をかけられてびっくりする。


「星河、いるか?」

「は、はい!」


 朝から大空が訪ねてくるのは珍しい。手早く見てくれを整えると、ふすまを開ける。満面の笑みで出迎えたので、大空は面食らったようだった。


 大空をじっと見つめる。感謝の言葉を伝えたかった。ずっと囲碁を打てるので幸せなこと、ずっと囲碁を打ちたいので花嫁にして欲しいこと。「ど、どうした……?」と戸惑っている大空に微笑む。


「大空様、(ずっと囲碁を打てるので)わたし幸せです。(ずっと囲碁を打ちたいので)わたしのこと、花嫁にしてくださいね」

「……おう」


 感謝が伝わらなかったのか、大空が露骨に顔をそむけた。手で表情を隠そうとする。星河は首を傾げた。


「どうしたんですか?」

「なんでもない!」

「あっ、耳まで赤くなってます! 大変、お風邪だったらどうしましょう!」

「絶対に違うから構うな!」


 大空の変な行動はしばらく続いた。ようやく落ち着くと、何も無かったかのように咳払いをして誤魔化す。


「ああ、こんなことをしている場合では無かった。星河、午後から俺の父親、空牙くうがが来る。準備しておけ」

「! はい、分かりました」


 大空の父親は久遠院家の当主だ。現在の大空の花嫁候補が星河なのは大空が独断で決めたことのため、空牙が認めることで初めて久遠院家の正式な花嫁となることができる。粗相をしないように気を付けなければならない。


 この幸せな日々をこれからもずっと続けていくために頑張ろうと思った。




「やあやあ、君が星河さんだね? 大空の父の空牙です。早速で悪いんだけど、婚約は破棄ってことでよろしく頼むよ」


(えー!?)


 久遠院家の広々とした和室で、挨拶もそこそこに婚約破棄させられてしまった。


 大空は獣のような尖った雰囲気を纏う男だが、父親の空牙は柔和な笑顔が似合う男だ。にこにこと笑っているので優しそうだなとホッとしていたら、いきなり凄い事を言われてしまった。流石は大空の父親だ。


 隣に座った大空がたしなめるように言う。


「父上、突然すぎます」

「うーん、そうかな? 僕のほうで許嫁として森羅しんら霧姫きりひめさんを用意していたのに、勝手に他の花嫁を探したのは大空君のほうだよね?」

「俺はあの女は苦手だと言ったはずです」


 許嫁が他にいたというのは初耳だった。


「あの、大空様。許嫁がいるというのは本当ですか?」

「知らん、父上が勝手に用意しただけだ」

「本当なんですね?」

「あ、ああ。星河、怒っているのか?」

「怒ってません!」


 怒ってはいないが少しもやもやするし、先に言っておいて欲しかった。それに、森羅霧姫と言えば。大空から借りている棋譜のことを思い出す。その中に、その名はあった。


「『煙霧迷宮』……」

「ああ、星河さん、よく知っているね? そう、唯一の女性国家棋士にして、女性で唯一の称号持ち。分かるよね? 囲碁の強さを重んじる久遠院家にとって、彼女以上の花嫁はいない」


 確かに、伴侶に囲碁の実力を求めるならば、称号持ち以上に適任な女性はいないだろう。


「次点で、新開麗奈さんでも僕としては構わない。彼女も国家棋士に限りなく近い実力を持っているからね。もちろん、麗奈さんを選んだ場合、彼女には称号持ちを目指してもらうことになる」


 つまり、霧姫の強さが花嫁としての基準なのだ。よりにもよって、称号持ちと実力を比べられるとは。空牙が自分の紋付袴についた家紋を指差した。三つに広がる葉は、久遠院家の家紋。


「久遠院家の人間は久遠院の名前とこの家紋を背負って戦う。大空の婚約者も当然そうだ。僕はそれに相応しい人間かどうかを久遠院家の当主として見定める義務がある」


 久遠院の名と家紋を背負って戦う。久遠院の人間には下手な囲碁を打つことは許されないということ。


「だから星河さん、君には諦めて欲しい。分かるだろう? 久遠院に弱い人間はいらない」


 反論することはできない。星河よりも称号持ちのほうが強いことは明らかだ。諦めるのが正しいと思った。でも、と。今までのことを振り返る。六年間、囲碁を打てなくて辛かったこと。大空に認められて嬉しかったこと。久遠院家に来てから囲碁を打てて楽しいこと。優しい人々に囲まれていること。幸せを知ってしまったからには、もう諦めることなんて出来はしない。


「空牙様の囲碁は尊敬しています。しかし、それとこれとは別です。わたしは大空様の婚約者を諦めるつもりはありません」

「……なぜだい? 大空のことを愛しているって訳じゃあないんだろ?」

「ええ、少しも、全く、愛してはいません」

「おい! 少しはあるだろ! ちょっとは仲良くなっただろ!」


 隣で大空が叫ぶが、とりあえず放っておいて話を続ける。


「ここに来てから、毎日が楽しいんです。ここでなら、幸せになれると思ったんです。自分から去ることはできません。力が足りずに敗れることはあっても、諦めて手放すことだけはできないと、そう思ったんです」

「ふうん、そっか。なるほどね」


 空牙は満足そうに笑った。


「最低条件は満たしているみたいだな。僕は棋士にはある種の傲慢さが必要だと思ってる。鈍感で驕っていなければ身の丈以上の強さを望むことなど出来ないからね。よし、それじゃあ軽く試験をしようか」

「試験、ですか?」

「僕はね、お世辞が嫌いなんだ。さっき僕の囲碁を尊敬していると言ったね? それじゃあ僕の対局の棋譜をどれか並べてみてよ」

「……」


 和室の隅から空牙が碁盤と碁笥を持ってくる。しかし、星河は動かない。見かねた大空が声を上げる。


「父上、流石に無茶です。他人の棋譜を覚えている者など国家棋士にもそうそういない」

「大空君は黙ってなさい。星河さん、出来ないようだね? これからは適当なことを言って機嫌を取ろうとするのはやめることだね」

「いえ、どれも好きなので迷ってしまいまして。今年度、大空様と空牙様は公式戦で三回当たっていますよね。どれも捨てがたいのですが、わたしはこの一局が好きです」


 星河は何も見ずに棋譜を並べ始めた。大空に借りた棋譜は全て覚えている。その中には空牙との対局もあった。


「空牙様は黒の三連星。嬉しくなったのを覚えています。父も三連星を好んで打っていましたが、ここ数年で辺の価値は減り、打つ人は少なくなったみたいですから」


 大空と空牙が息を呑んだ。大空が驚愕したような声を上げる。


「俺の棋譜を全て覚えているのか!?」

「ええ。大空様に頂いたものですから」


 星河ははにかんだ。何度も並べ、覚え、夜も大空の棋譜を思い浮かべながら眠る。星河がどれだけ大空の棋譜を大切にしているか、大空は知らないのだろうなと思う。そんな星河を見て、空牙が腹を抱えて笑い出す。


「あははははははっ! 星河さん、気持ち悪いなあっ!」

「えー!? 気持ち悪いですか!?」

「最高だよ。最高に気持ち悪い。だが、未来を見てみたくはなったかな」


 星河と大空は笑顔で顔を見合わせた。


「三年あげよう。三年後、君が称号持ちと並ぶぐらいに強くなってたら結婚を認めてあげる」


 三年。称号持ちと並ぶにはとても短い期間だ。苦難の道になるだろう。それでも、空牙に認められたことは素直に嬉しい。星河は頭を下げた。


「ありがとうございます!」

「ああ、それと謝らなくちゃいけないことがあるんだよね。この間、新開れい子さんに会ってさ。君たち、三ヶ月後に麗奈さんと花嫁の座を賭けて勝負するんだって? 僕それ無駄だと思って言っちゃったんだよね、三ヶ月も待たなくて一ヶ月で良くない? って」


 星河と大空は凍りついた表情で顔を見合わせた。


「ここに来てから二週間ぐらいだっけ? 場所は用意しておくから、二週間後に麗奈さんと勝負ってことでよろしく。まあ国家棋士になったら三ヶ月待ってもらえば勝てますなんて言い訳できないしね。これぐらいは乗り越えられるよね?」


(えー!?)


 星河は心の中で悲鳴を上げた。

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