第12話 大翔時代の最新定石

 星河は久遠院家に来てから最高の囲碁生活を送っていた。


 星河との対局に付き合うように大空に指示されているため、使用人たちは誰でもいつでも囲碁を打ってくれる。また、囲碁が好きな人間しかこの屋敷にはいないため、星河と使用人が打っていると他の使用人たちが集まってきて、対局を見ながらあーだこーだと議論を始める。


 六年間誰とも囲碁の話をしてこなかった星河にとって、この囲碁のお喋りは至高の時間だ。とても楽しいうえに勉強になるので最高だった。


 夜になると、大空から借りている棋譜を並べて勉強する。この局面で大空はどんなことを思いながら次の一手を打ったのか、あれこれ想像しているだけでも楽しい。自分なりに解釈しながら大空の打ち方を吸収していく。


 星河は大空の棋譜を並べるのが好きだ。何度も棋譜を繰り返し並べて覚え、だんだんと自分と大空の気持ちを同調させていく。布団の中でも、大空が作った星空を思い浮かべながら眠るのだ。誰かの打った囲碁で幸せな気持ちになるのは、家族以外では大空が初めてだった。


 昼の対局、夜の棋譜並べ。それらを繰り返しているうちに、疑問が思い浮かんだ。星河は父親の星賢が遺した棋譜の内容を全て覚えている。星賢の棋譜で打たれていた定石と、大空が打っている定石で内容が異なるのだ。定石とは昔から研究されてきた最善の打ち方で、そうそう変わるものでもない。しかし、使用人たちも大空が打つ定石を好んで使っているように見える。


 大空は忙しいらしくあまり掴まらなかったが、それでも直接聞きたくて、ある晩に部屋を訪ねて聞いてみた。


「大空様、聞きたいことがあるのですが」

「なんだ?」


 父の棋譜で定石を学んだが、現在使われている定石とは齟齬があることを大空に伝える。それを聞くと、大空はどこか懐かしそうな顔をした。


「そうか、星賢さんが亡くなってからもう六年も経つのか」

「父を知っているのですか?」

「ああ、良い打ち手だった。星河、お前の疑問に答えるのは簡単だ。六年前と今では、比べ物にならないぐらいに定石の研究は進歩しているんだ。称号持ちを知っているか?」

「はい」


 他でもない久遠院大空が『日華無双』の称号持ちだ。大空を含めて日華帝国に六人しかいない最強の棋士たち。


「日華帝国最強の六人の棋士ですよね」

「そうだ。しかし、六年前の時点では称号持ちは一人しかいなかった。本来はそれが当たり前なんだ。称号とはその時代の最強の棋士に帝から与えられるものだからな」


 歴代の称号持ちを見ると、大抵は一つの時代に一人しかいない。六年前より以前だと、同時代に二人までが最大だったはずだ。しかし、現代には六人の称号持ちがいる。


「称号を与えられる条件が緩くなったということですか?」

「違う。自分で言うのもなんだが、六人の称号持ちの誰が別の時代に生まれても、そいつは必ず称号持ちになったはずだ。単純に史上最強の器が、六人同時に生まれた時代だと言うことだ」


 久遠院大空と直接打った星河には、大空と並ぶ才能が他に五人もいることが信じられない。六人の称号持ちがしのぎを削る、日華帝国の囲碁史上で最も苛烈な時代。


「その結果、何が起こったか? 最強格の囲碁棋士が六人揃ったことで、囲碁の研究は格段に進んだ。コミは五目半からより適正な六目半となり、定石はより優れたものに置き換わり、毎年のように変化が起きている」

「なるほど。つまり、父が打っていた時代の定石は廃れたものがあるということですね?」

「その通りだ。昨日良い手だったものが今日には悪い手になっている、俺たちはそんな目まぐるしく進化していく時代を生き残らなければならない」


 六年前と現代では同じ囲碁でも全く別の遊戯となっているということ。


 星河は幸運な環境にいると思う。最新の定石を知っている使用人たちと打てる環境は、きちんと囲碁を研究している相手と打つ機会に恵まれているということだ。それでも、父が打った定石がもう使われないと思うと、少し寂しい気持ちもある。


 でも、それは避けられないことだ。星河たちはより良い碁を明日打つために今を生きている棋士なのだから。星河もより良い明日を歩むために、強くなる決意をして大空にお願い事をした。


「大空様、最新の定石を覚えたいのですが、教えて頂けますか?」

「俺が直接教えても良いのだが……良い場所がある。ついてこい」


 大空に連れられて屋敷の中を歩く。案内されたのは書庫だった。


「わあ」


 思わず感嘆の声を漏らす。書庫の中の本は、全て囲碁に関連したものだった。詰め碁、定石、名局の棋譜、様々な本が置いてある。一生引きこもって過ごせそうなほどの量だ。


「ここにあるものは全て自由に読んでいい。定石に関しては、そこの本が参考になるはずだ」

「ありがとうございます!」


 大空が指差したのは真新しい定石の本だった。タイトルは『大翔たいしょう時代の最新定石』、著者は四条しじょう識月しづき


「俺はもう寝る。お前もほどほどにして寝ろよ」

「はい! 分かりました!」


 元気よく返事をすると、本棚からいくつかの本を取り出して早速読み始める。すぐに星河は没頭し――。



   *



 翌日の夕方に大空が帰宅すると、知世に呼び止められた。


「あの、大空様。星河様がどこにいらっしゃるか知りませんか? 今朝からどこにも見当たらなくて」

「……」


 まさか。いや、まさかな。


 大空は知世を連れて足早に書庫へ向かう。そこには、一日中飲まず食わずで本を読んでいたのであろう星河の姿があった。大空と知世が来たのに気付いている様子もなく、本に夢中になっている。


(一日中ずっと読んでいたのか。凄まじい集中力だ……。こいつは本当に化けるかもしれん)


 しかし、少女の集中力に体力が追いつくとは限らない。大空は心配しながら星河の肩を揺すった。


「おい、大丈夫か。おい!」

「大空様……? 大空様、この四条さんって人の本すごいです……」


 目の下にくまを作った星河は自分の状態を気にしていないのか笑顔を見せた。


「四条さん、好きです。会ってみたい……いひゃいいひゃい、なにするんですかあ」


 星河の言葉にいらっとした大空は、思わず星河の頬を引っ張った。



  *



 新開れい子は苛立っていた。実の娘である麗奈が大空に選ばれなかっただけでも腹立たしいのに、よりにもよって選ばれた花嫁が星河であるという。星賢がれい子ではなくあの女を選んだように、大空もまた麗奈ではなくあの女の娘を選ぶのか。そんなことが許されるはずがない。


 れい子は久遠院家に苦情を入れることにした。大空の屋敷ではなく、久遠院本家の屋敷に乗り込む。客室に通されると、大空の父親である空牙に現状の不満をぶち撒けた。


「今は麗奈のほうが星河よりも遥かに強いのです! 大空様の花嫁には麗奈が相応しい!」

「うんうん、なるほどね。それは僕もそう思うなあ」


 空牙はのんびりと頷いた。空牙も大空と同様に現役の棋士ではあるが、碁の戦場の尖った空気は一切感じさせない優しげな雰囲気の男だ。けれどね、と空牙は続ける。


「話を聞いていると、三ヶ月後に星河さんと麗奈さんで花嫁の座をかけた勝負をするんだろう? 麗奈さんのほうが強いのなら、それで問題は解決するんじゃないのかい?」

「その勝負をする必要すら無いのです! 直ちに星河との婚約を破棄するように大空様に言ってあげてください!」

「ふうん……?」


 意味ありげに空牙はれい子を見て、なるほど、と呟いた。


「話を聞く限りでは星河さんと麗奈さんの棋力にはかなりの差がありそうだ。それなのに、れい子さん、あなた、三ヶ月後には麗奈さんのほうが負けるかもしれない、とそう思っているね?」

「そ、そんなことは……!」


 内心の焦燥が見抜かれて、れい子は言葉を詰まらせた。それを見た空牙が楽しそうに笑う。


「なるほど、面白いな。僕も少し星河さんを見てみたくなったよ。ただ、れい子さんが言うことも一理あるね。今は強くないから三ヶ月待って欲しい、では国家棋士の花嫁は務まらない。だからこういうのはどうだろう?」


 空牙の提案に、れい子は意地悪く口角を上げた。なるほど、それならば星河は絶対に麗奈に勝てない。


「ええ、それで問題ありません。よろしくお願いします」

「うん、僕はこの提案を大空に伝えてくるよ。ああ、一応言っておくと、僕は星河さんと麗奈さんのどちらの味方でもないよ」


 空牙は微笑んだ。虫をも殺さない笑顔だが、れい子はその本質を知っていた。


「久遠院に弱い人間はいらない。ただそれだけさ」


 虫を殺さないのではなく、これは弱者むしを意識していないだけだ。

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