第17話 天原閣

「大きい……」


 星河は大きくそそり立つ天原閣てんげんかくを見上げた。

 久遠院くおんいん大空そらが公式戦に足繁く通うため、天原閣の近くに大空の屋敷は建っている。そのため、徒歩でもすぐに到着した。天原閣に来るのは初めてだが、ここまで大きい建物だと見失うこともなく、迷いなく来ることができた。


 四条しじょう識月しづきの碁会所は、この天原閣の二階にあると聞いている。今日から星河はその碁会所に通い、識月に教えを乞うのだ。読みふけった定石の本の作者と会えるのが嬉しくて仕方がない。胸を躍らせながら天原閣へと入る。


「わあ」


 ここが天国かも、と星河は思った。何しろ囲碁に関連する施設だけが入っている建物なのだ。あっちを見てもこっちを見ても囲碁である。一階は囲碁に関連する売店が並んでおり、碁盤や碁石、扇子、囲碁の書籍など、見ているだけでも楽しくなってくる物が売っている。


 売店は老若男女たくさんの人で賑わっている。この人たちは全員囲碁が好きなのだなあと思うと、片っ端から「打ちませんか?」と声をかけたくなってくる。そんな衝動をぐっと我慢しながら、星河は売店を見て回った。


 笑ってしまったのは称号持ちの関連雑貨が置いてあったことだ。久遠院大空は人気らしく、大空の写真や大空を模したぬいぐるみ、『日華無双』と書かれた扇子など、様々な物が置いてある。大空からお小遣いを貰っていることもあり、思わず写真を買ってしまいたくなるが、無駄遣いをするなと大空に怒られそうだ。大空の顔を目に焼き付けるために今度じっくり本物を眺めさせてもらうことで代用しよう。


 まだ時間に余裕はあるが、碁会所も早く見てみたい。星河は二階へと向かった。


 碁会所は大変賑わっていた。数十席もあるのにそのほとんどが埋まっている。受付で席料を払ってから、星河は識月がいるかを聞いてみた。


「四条識月様はいらっしゃいますか? 待ち合わせをしている新開星河です」

「識月なら十五時ぐらいに参ります」


 今は十三時。待ち合わせの約束よりもだいぶ早く来てしまった星河が悪い。幸いにしてここは碁会所だ。打ちながら時間を潰そう、と考えたところで、横から大きな声が聞こえてきた。


「あーあー、いいのかなあそんな手を打っちゃって! ほーら石が死んじゃうよお!」

「うぅぅ……」


 禿頭の中年男性と、星河と同じぐらいの年頃の少女が打っている。髪にウェーブをつけた耳かくしの髪型が良く似合う少女だ。男は嫌味ったらしいことを言いながら乱暴に石を打ち、少女は瞳を潤ませながら迷うように石を打つ。盤面を見てみると、既に男の圧倒的優勢で大差がついていた。実力に差がありすぎて、まるでいじめだ。


 この対局を遠くから眉をひそめて見ている人もおり、「またあの人……」「他の碁会所では出禁にされてるらしいわ」「誰か注意しろよ……」などの声が聞こえてくる。有名な問題人物のようだ。


 男がさらに大石を取り、嫌味を重ねた。


「やっぱり女が囲碁を打つべきじゃねえんだよなあ。ほら女って頭悪いからさあっ! 囲碁やってもずっと弱い! まるでダメ!」


 男の大声に、耳かくしの少女は縮こまる。少女のそんな姿を見て、星河は思わずむっとして口を出してしまった。


「強さを語れるほどあなたも上手くはなさそうですけど」


 案の定、「あ?」と男に睨みつけられる。


「お嬢ちゃん、なんて言った? 女だから俺の強さが分からねえのかなあ、女だから」

「なら打ってみますか? わたしが勝ったら女性は弱いという言葉を取り消してください」

「おいおい身の程知らずだねえ。置き石はいくつにする? 互先でやったら弱いものいじめになっちまう」


 星河は男が打った盤面を見て、大体の棋力を予想した。


「それはそうですね。置き石は必要でしょう」

「ハッ、分かってんじゃねえか」


 星河の言葉を聞いて、男は馬鹿にしたように笑う。


「あなたが四子置いてください。わたしも弱いものいじめはしたくないです」


 互先でやると大きく差が開いてしまう。男に気を遣っての発言だったが、男はタコのように顔を真っ赤にした。


「互先だ! お前が負けたら土下座をして謝れ!」

「分かりました。あなたが負けても謝るだけで土下座はしなくて良いですよ」


 対局をしていた女の子に「ごめんね。代わってくれる?」とお願いして席に座る。石を握った結果、星河は後手となった。


 相手は弱い。できれば置き石をさせてあげたかったが、こうなった以上は実力の差を思い知らせるために大差をつけて中押し勝ちを狙おう。星河は力強く最初の一手を打ち込んだ。


 星河の思惑はそのままの形で盤上に表現された。十分もかからずに男は屈辱の表情で「ありません……」と敗北を宣言するが、その後、つらつらと言い訳を始める。


「あれ、油断しちまったかなあ……。女子供じゃ本気出せねえもんなあ。油断、そうだよ、油断だよ」

「そうですか。油断したなら仕方ないですよね」


 負けたら謝罪をする約束だったが、男は全く謝ろうともしない。


 星河はにっこりと笑った。


 あっ、今、自分はすごく怒っているなと星河は実感した。自分を侮辱されても大して怒りが湧かないのに、女性を馬鹿にされるのは腹が立つ。それはきっと、今も頑張っているであろう麗奈も侮辱する行為だからだ。


 ならば、ちゃんと謝れるようになるまで何度でも打つまでだ。


「では、もう一度打ちませんか? 次は手加減しなくて大丈夫ですよ」


 星河の提案に、禿頭の男は「おう、やってやるよ」と意気込んで打ち始める。


 もちろん、次も圧倒的大差で勝利した。


「また油断ですか? ではもう一度打ちませんか?」


 次も圧倒的に。


「次は本気が出せるかもしれませんね? それではまた打ちませんか?」


 次も。


 真っ赤だった男は青ざめ震えている。いつの間にか周囲に観客が集まっていた。誰の目にも星河のほうが実力があるのは明らかだ。それでも星河は男が謝罪するまで打たせ続ける。


「分かった、もう勘弁してく――」


 ようやく男が謝ろうとしてきたところで、凍てつくような男の声が遮った。


「あなたたちは何をしているのだ?」

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