第2話 辛い日々

 七月のうだるような暑さの中、古い日本家屋に継母の怒声が響き渡った。


「ちょっと星河せいかさん! ここ埃が溜まっているじゃない!」


 継母であるれい子の金切り声を聞いて、星河は恐怖で身体を震わせた。足の悪い義母は、機嫌の悪い時には手に持った杖で星河を殴る時がある。叱られることと体の痛みが星河の中では繋がっており、れい子の怒鳴り声を聞くだけで反射的に体がすくんでしまうのだ。


「申し訳ありません!」


 謝罪しながら、れい子が示した廊下の隅を慌てて箒で掃く。星河には埃が溜まっているようには見えなかったが、継母の言うことは絶対なのだ。


 もともとれい子は星河に対して冷たい態度を取っていたが、星河が九歳の時に父親が亡くなると、星河を嫌っているのを隠さなくなった。最初は怒鳴るだけだったが、次第に暴力を振るうようになり、それは十五歳になった今でも続いている。


 星河には嫌われる心当たりが無かった。ある時、どうして自分を嫌うのか、殴られた頬を押さえて泣きながら問うたことがある。れい子は冷たい声で「お前があの女の娘だからだよ」と答えた。つまるところ星河が前妻の娘であることが気に入らないのだろう。それは星河にとってはどうしようもないことで、だからこの奴隷のような関係はいつまでも終わらない。


 繰り返し謝りながら一生懸命に掃除をしていると、今日は機嫌が良いのか、継母は「まったく、いつまで経っても使えない子だねえ」などと愚痴るだけで去っていった。殴られずに済んだことでホッと息をつく。


 休んではいられない。星河と継母、それに義姉の麗奈と三人で暮らしているこの屋敷はとても広い。父の星賢が存命だった頃は囲碁の内弟子がたくさん住んでおり、手分けして掃除していた。今は星河一人だけで掃除しなくてはならない。使用人もいることにはいるのだが、れい子と麗奈の食事を作るだけでそそくさと帰ってしまう。

 星河は汗を拭うと、屋敷の掃除を再開した。


 廊下の雑巾がけをしている最中に、ばったり義姉の麗奈れなと出くわしてしまった。同じ家に住んでいるのだからこういうことも有り得るのだが、いつもは麗奈のほうが星河を避けているため、あまり顔を合わせる機会が無い。ここ数年はまともに会話もしていなかった。麗奈と目が合って、気まずい沈黙が流れる。


「あの、お義姉ちゃん……」


 星河は勇気を振り絞って声をかけたが、麗奈はふいと目を逸らすと、そのまま去っていった。

 そっけない態度を取られるのがひどく寂しい。星河はため息をついた。


 麗奈との関係が冷え込んだのはいつ頃のことだっただろうか。

 父親が亡くなってれい子のいじめが徐々に激しくなってきた頃、星河は今よりは継母に反抗的だった。理不尽だと思ったら杖で殴られても謝らず、口答えをすることもあった。そんなことができたのは、心の支えがあったからだ。義姉である麗奈だけは、星河の味方をしてくれるだろうという心の支えが。


 それは、ただの勘違いだった。


 れい子にいじめられて助けを求める星河を、麗奈は徹底的に避けた。星河が何か悪いことをしたのかもしれないと思って謝っても、話すことすらしてくれなかった。それでも星河は麗奈を信じ続けた。最後にはきっと助けてくれると信じていた。


 心が折れたのは、十歳の冬のことだ。その日は特にれい子の機嫌が悪く、特に理由もなく星河は腕を強く打たれ、血を流しているところを治療もされずに、倉庫に閉じ込められた。寒さに震えながら一晩放置され、泣いていたところに鍵の閉まっていた扉が開いた。倉庫の扉を開けたのは麗奈だった。嫌われていなかった、お義姉ちゃんはやっぱり優しい人なんだ、そう思って麗奈を見た時、星河は絶望した。麗奈の表情には、同情の色が一切無かった。なにかを恐れるように、星河を睨んでいた。死なれるのは困るから扉を開けた、ただそれだけだったのだろう。


 どこかで星河は、星河が麗奈のことを好きなように、麗奈は星河を好きなのだと思っていた。麗奈が泣いていると星河が悲しいように、星河が泣いている時に麗奈も悲しんでくれる、そんな姉妹なのだと思っていた。でも違った。麗奈は星河のことをなんとも思っていなかった。


 それから、星河は継母に逆らわなくなった。星河が辛い思いをしても誰も悲しんでくれないということが、星河から反抗心を失わせた。




 掃除を終えると、星河は自室に戻った。

 本日の家事は一通りやったので、あとは麗奈とれい子の食事後に、自分の夕飯を作るだけだ。れい子は星河のぶんの食事を使用人に用意させないので、食事は自分で作る必要がある。


 星河は毎日、掃除や洗濯などの家事をしながら過ごしている。学校には通っていない。一方で麗奈は、囲碁を学ぶための棋院に院生として通っている。院生とは国家棋士を養成するための囲碁教育制度だ。日華帝国は囲碁の教育に非常に力を入れており、棋院では将来有望な若手棋士たちが日夜切磋琢磨していると聞く。星河も棋院に院生として通いたかったが、れい子に頼んだところ、


星賢せいげんさんの遺言を忘れたの!? あなたは囲碁は打ってはいけません!」


 と断られてしまった。

 そう、父の遺言書には、星河に囲碁を打つことを禁じる旨が書かれていた、らしい。新開家に限らず、一番才能のある子供だけに囲碁を打たせるのは日華帝国では珍しくない。日華帝国の国家棋士には地位も名誉も富も与えられるが、国家棋士になるためにはかなりのお金がかかる。見込みのある子供にのみ投資するのが合理的判断であり、きっと父の星賢の目には星河の才能は取るに足らないものとして映ったのだろう。


 直接れい子にこう言われたこともある。


「星河さん、あなたには才能が無いのだから。だから星賢さんも囲碁を禁じたのよ。無駄なことに執着するのはお止めなさいね」


 要するに星河は落ちこぼれなのだ。囲碁に弱い者が日華帝国の囲碁界に執着しても、国家棋士にもなれずに路頭に迷うだけだ。だから、父の判断は温情だと言える。


 この六年間、碁石も碁盤も触っていない。麗奈が囲碁を続けているので囲碁に関する道具は屋敷にあるのだが、触ろうとするとれい子が飛んできてひどい折檻を受ける。

 自室に力なく座りながら、一人ぼやく。


「打ちたいなあ……」


 星河にとって楽しかった昔の記憶はいつも囲碁と一緒にあって、だから囲碁に触りたいという欲求はなかなか我慢できるものではない。


「うううううう打ちたいよおおおおおお」


 あまりにも打ちたすぎて唸ってしまった。


 星河は仕方なく欲求を紛らわすために、いつものようにタンスの引き出しからそっと棋譜を数枚取り出した。棋譜とは囲碁の対局で打たれた手を記録したもので、これがあると一つの対局の手順を完全に再現することができる。父は対局が終わるたび、勝っても負けても棋譜を星河に贈ってくれた。星河は棋譜を貰うたびに飛び跳ねて喜び、一枚一枚を宝物のようにしまっていた。今となってはこの棋譜だけが自分と囲碁を繋いでいる。


 この棋譜も、れい子に見つかったら捨てられてしまうかもしれない。碁盤も碁石も無いので、棋譜を並べることもできない。自室に隠れてそっと棋譜を眺めることだけが、星河に許された幸せだった。


 目に棋譜を焼き付けて、眠る時には父が作った星空を思い浮かべるのだ。晴れの日も、雨の日も、常に星河の眠りは父の星空と一緒にあった。誰も味方にならなくても、父が遺してくれた棋譜があるということが、星河の心を暖かくさせた。




 その日はれい子の言いつけに従って離れの掃除をしていた。

 ようやく一段落して自室に戻った時、部屋の中が荒らされていた。タンスの中から棋譜が消えていることに気付き、星河は青ざめた。

 慌てて屋敷内を走り回ると、庭から煙が立ち昇っていることに気付いた。


 炎。ひどく、嫌な予感がする。


 庭にはれい子がいて、何かの紙を炎にくべていた。

 最後の一枚が炎の中に消える直前、それが何か、星河の目に入った。棋譜だ。星河に残された最後の宝物が、燃やされている。


「どうして……?」


 星河の震えた声を聞いて、れい子がゆっくりと星河のほうを向いた。口元は意地悪く笑みをたたえている。


「囲碁は禁止だと言ったでしょう。こんなものを隠すだなんて、あなたは本当に駄目な子ね」


 立つ気力が湧かない。目尻から一滴の涙を零しながら膝をつく星河を、れい子は冷たく見下ろす。


「そんなところで遊んでないで、次は台所の掃除をしなさい」


 呆然としながら、星河は家事をこなした。

 家事が終わった後のいつものれい子の小言を聞き終えると、なにも食べる気がせず、そのまま布団に入る。


 父と義姉と一緒に囲碁を打っていた日々を思い出す。

 今後、何を成しても、何を手に入れても、あの日々に戻れないとして、このまま生きている意味はあるのだろうか?

 そもそも、何かを手に入れられる日は来るのだろうか。何かを手に入れても、また炎にくべられるだけなのではないだろうか?

 悲観的な考えが頭の中を支配し、涙が溢れる。


 結論から言うと、生きている意味はあった。


 久遠院くおんいん大空そらと、出会えたのだから。

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