星空をふたりで紡ぐ

台東クロウ

第1話 プロローグ

 幼い頃に初めて囲碁を見たとき、なんだか地味な遊びだなあ、と新開しんかい星河せいかは思った。それを正直に話すと、いつもニコニコしている父の星賢せいげんがしゅんと落ち込んだのを覚えている。


 とにかく楽しみ方が分かりにくい遊びなのだ。

 どれも一緒の黒白の碁石は個性がなくて味気ないし、実際に打っているところを見ても何が起きているのか全然分からないし、何より、どちらが勝っているのか何度観戦してもさっぱり理解できない。そんな訳で星河にとっては囲碁というものは得体のしれない人間が遊ぶ得体のしれない遊び(これも父に話すとさらに落ち込んだ)だった。


 しかし、ある日、囲碁を学ぶ機会が訪れた。


 星河の義姉である麗奈れなが囲碁を好んで打っていたのだ。

 麗奈は星河の継母の連れ子で、つまり義理の姉だ。生後すぐに母親を亡くした星河にとって、継母と義姉は、父親以外の初めての家族であった。星河が五歳の時に星賢が再婚して麗奈が一緒に住み始めると、星河は麗奈の後ろをトコトコとついて回り、義姉がやることはなんでも真似をした。麗奈が星賢やその弟子たちと囲碁を打っている間は、構ってもらえないのを恨めしそうに眺めていた。やがて星賢はその視線に耐えきれなくなったのか、


「星河も打ってみるかい?」


 と星河に碁笥を差し出した。

 囲碁を難しい遊びだと思っていた星河は躊躇ったが、麗奈をちらりと見て、囲碁を打てば麗奈も一緒に遊んでくれるかもしれないと考えて、コクリとうなずいた。


 習ってみると、囲碁は想像していたよりも簡単な遊びだった。大雑把に言うと大きな決まりを二つ覚えれば良い。

 星賢が碁盤に黒石と白石を交互に並べながら、一つ目の決まりである勝利条件を解説する。


「こうやって交互に黒石と白石を打って、囲んだ陣地が大きい方が勝ち。この陣地を”地”と呼ぶ」

「うんうん」


 星河は熱心に碁盤を覗きながら頷く。教えてもらうまでどんな遊びなのか検討もつかなかったが、囲碁とは要するに陣取り合戦なのだ。石で塀を作っていって、大きく土地を囲んだほうが勝つ。

 さらに二つ目の決まり。星賢が黒石を置き、その四方に白石を置くと、黒石を取り上げる。


「こうやって周りを囲まれた石は取られてしまう。取った石はアゲハマというんだ」

「取った石はどうなるの?」

「最後に相手の地に埋める」


 難しいことを言う。星河は何度も頭の中で遊び方を反芻して、なんとか意味を飲み込んだ。

 なるほど、相手の石を取ると、そこは自分の地になり、さらに取った石は相手の地を埋めることになるわけだ。取った塀で相手の土地を埋め立てるところを想像する。これは大変なことだぞ、と幼い星河は震え上がった。

 囲碁についておおよそを理解すると、星河は鼻息荒く麗奈と向き合う。


「お義姉ちゃん! 打とう!」

「かかってきなさい。姉に勝てる妹など存在しないことを教えてあげましょう」


 麗奈が無表情ながらも両手でクイクイと招くような手ぶりをして星河を挑発する。麗奈はあまり表情を動かさないので誤解されがちだが、意外と勝負事が好きなのを星河は知っていた。どんな遊びだろうと、一つ年下の星河に全力で向き合ってくれる。星河は麗奈のそんなところも好きだった。


 入門者用の九路盤を星賢に用意してもらう。縦に九線✕横に九線の九路盤は、十九✕十九の十九路盤よりも遥かに初心者に易しい。さらにその狭い九路盤に四子を置いて、囲碁を覚えたての星河のほうが有利になるようにする。囲碁は実力差のある場合、盤上に石を事前に置いておくことによって調整する。これを置き石というらしい。


「いっこ、にこ、さんこ……」

「違うよ星河。石は一子いっし二子にし三子さんしって数えるんだ」


 星賢に石の呼び方を訂正されながら、星河は置き石を置いた。

 星河と麗奈は互いに「お願いします」と小さい頭を下げると、麗奈が慣れた手つきで白石を打つ。


「よーし、勝つぞー」


 星河は親指と人差し指で拙く黒石をつまみながら、碁盤を見つめた。囲碁は石が置かれていない交点になら、どこにでも打てる。空いている場所になら、九✕九の碁盤のどこに打っても良いのだ。それはなんだかとても自由な気がして、星河はひどく興奮した。


 星河と麗奈は交互に石を打っていく。星賢が優しい笑みを浮かべながらそれを黙って見ている。今思うと、麗奈は手加減してくれていたのだろう。死活を全く知らない星河を相手に石を全滅させるのは容易だっただろうに、麗奈はそうしなかった。おかげで初めての囲碁はなんとか形になり、星河が投げ出さずに終局まで行くことができた。もっとも、その時の星河には終局の判断がつかなかったので、麗奈と星賢に頼ったのだけれども。


 終わってみると、大差で星河の負けだった。それでも、初めて自分の意思で作り上げた盤面は、星河にはとても輝いて見えた。土地の奪い合いにはとても見えない。黒と白、星河と麗奈がふたりで紡いだそれは、そう、まるで。


「星空みたい」


 星河の呟きに、星賢が目尻を下げて笑いかける。


「そうだね。碁盤に大きな点が記された場所を、星と呼ぶ。遠い昔の人も、碁盤の中に星空を見たのかもしれないね」

「すごい! ねえお父さん、これこのまま取っておいていい?」

「取っておかれるのは困るなあ。それにね、星河、これから上手くなっていけば、もっと綺麗な星空が見れるかもしれないよ」

「そっか!」


 胸の中を取り出して直接太陽の光を浴びせたような、熱さと温かさが星河の中に宿った。自分はなにかとんでもないものに出会ってしまったのかもしれない。星河は瞳を輝かせて麗奈を見つめた。


「お義姉ちゃん、これからも、大人になっても、ずっとずっと一緒に打とうね!」

「ええ、そうしましょう」


 義姉はあまり表情を動かさないが、それでも少しだけ口角を上げて笑ったのが星河には分かった。

 遠い未来に思いを馳せる。そこでは成長した星河が、同じく成長した麗奈と一緒に、碁を打ちながら笑い合っている。


 幼い星河にとって、未来というものは今の幸せがより良くなったものであって、父親も義姉も永遠に一緒なのだと疑わなかった。

 そんなはずはないのに。

 この頃の記憶をよく夢に見る。父親が亡くなり、義姉に嫌われ、囲碁を禁じられ、継母にいじめられている今となっては、この時が星河にとって一番幸せだった頃の思い出だからだ。

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